芭蕉db

向井去来

(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704.9.10)

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Who'sWho/年表basho


 肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す (現代の宮内庁病院長といったところか)。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。
 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人 (京都生まれの江戸俳人和田蚊足<ぶんそく>)があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている。
 篤実とか温厚とか、去来にまつわる評価は高いが、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名されたように京都のみならず西日本の蕉門を束ねた実績は、単に温厚篤実だけではない卓抜たる人心収攬の技量も併せ持ったと考えるべきであろう。後世に知的な人という印象を残す。
 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉はここで
『嵯峨日記』を執筆。 『猿蓑』同人。『去来抄』は芭蕉研究の最高の書。

去来の墓

 京都嵯峨の落柿舎裏にひっそりと残っている。その規模の小さなことは、高浜虚子の歌「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」がよく表している。


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去来宛書簡1       (貞亨3年閏3月10日)
去来宛書簡2        (元禄2年12月下旬)
去来宛書簡3          (元禄3年7月下旬)
去来宛書簡4          (元禄3年8月)

去来宛書簡5         (元禄3年12月23日)
去来宛書簡6          (元禄4年3月9日)
去来宛書簡7          (元禄4年7月12日)
去来宛書簡8         (元禄4年9月9日)
去来宛書簡9     (元禄5年2月18日)
去来宛書簡10       (元禄5年5月7日)
去来宛書簡11          (元禄5年9月8日)
去来宛書簡12       (元禄7年1月29日)
去来宛書簡13    (元禄7年閏5月18日)
去来宛書簡14      (元禄7年8月9日)
去来宛書簡15     (元禄7年9月10日)
去来宛書簡16         年次不詳


去来の代表作