すみたはら

俳諧炭俵集 下巻

穐之部 冬之部 秋之部 天野氏興行 ふか川にて即興 杉風發句


  
   穐之部 秋のあはれいづれかいづれかの中に、
          月を翫て時候の序をえらばず。
 

   名月

名月や見つめても居ぬ夜一よさ    湖春
<めいげつや みつめてもいぬ よひとよさ>。「夜一夜さ」は一晩中、の意。八月十五夜の月を一晩中見ていました。

名月や掾(縁)取まはす黍の虚    去来
<めいげつや えんとりまわす きびのから>。キビの収穫の後。今夜は十五夜。刈り取ったばかりのキビが縁側をぐるりと囲っている。

家買てことし見初る月夜哉      荷兮
<いえこうて ことしみそむる つきよかな>。家を買ってから初めて見る名月。何ともいえず良いものだ。

名月や誰吹起す森の鳩        洒堂
<めいげつや たがふきおこす もりのはと>。十五夜の夜、何処かで誰かが鳩笛を吹いている。気持ちよく眠っている鳩を起こそうなどと、一体どういう了見だ。

松陰や生船揚に江の月見       里東
<まつかげや いけぶねあげに えのつきみ>。「生船」は、魚を生かしておくためのいけす船=水上いけす。いけすの魚を水揚げに来てあまりに美しい名月の夜の海を見んと、松の木陰でしばし見惚れている。

もち汐の橋のひくさよけふの月    利牛
<もちしおの はしのひくさよ きょうのつき>。「もち潮」は、八月十五夜の大潮のこと。隅田川であろう、いつもは川面がずっと下にあるのに、今夜は潮が満ちて橋が急に低くなったように思われる。

家こぼつ木立も寒し後の月      其角
<いえこぼつ こだちもさむし のちのつき>。「こぼつ」は、ふるくは「こほつ」と発音。こわすこと。家を壊した後の庭にあった木立も寒々としているところへ、九月十三夜の月の光がさしてなお一層寒々しい。

むさしの仲秋の月、はじめて見侍て、
「望峯ノ不盡筑波」を、
明月や不二みゆるかとするが町     素龍
<めいげつや ふじみゆるかと するがちょう>。「するが町」は、江戸日本橋地内の町の名。ここから富士がよく見えたのでこの名がついたといわれている。あまりに月が明るいのでこの分では日本橋駿河町からなら富士の峰が見えるかもしれない。

  七夕

笹のはに枕付てやほしむかへ     其角
<ささのはに まくらつけてや ほしむかえ>。七夕の二つの星が今宵はしっとり濡れられるように、七夕飾りには笹の葉と一緒に枕を結わえてやったらいい。「ほしむかえ」は七夕行事のこと。

星合にもえ立紅やかやの縁      孤屋
<ほしあいに もえたつべにや かやのふち>。七夕の星の恋の夜に相応しく、蚊帳の縁取りの赤も燃え立つような紅色をして、今夜はなまめかしい。

七夕やふりかはりたるあまの川    嵐雪
<たなばたや ふりかわりたる あまのがわ>。七夕の夜半、宵の内とは雰囲気を変えた天の川が流れている。

  盂蘭盆

とうきびにかげろふ軒や玉まつり   洒堂
<とうきびに かげろうのきや たままつり>。一年以内に新しい物故者を得て、この家は今年新盆。軒に下げた提灯が、トウモロコシの葉陰を通してゆらゆら揺れている。

踊るべきほどには酔て盆の月    李由
<おどるべき ほどにはようて ぼんのつき>。盆は七月十五日なので満月。その月を見ながら呑んでいると。盆踊りをするに恥ずかしさが消えるぐらいには酔っ払ってしまった。

盆の月ねたかと門をたゝきけり    野坡
<ぼんのつき ねたかとかどを たたきけり>。盆の月も八月十五夜のようなわけには行かないが、それでも素晴らしい。未だ寝ていないなら一緒に見ようと門を叩いて誘う声が外でする。

  朝貌

  閉関
朝貌や昼は錠おろす門の垣      芭蕉

朝貌や日傭出て行跡の垣       利合
<あさがおや ひようでていく あとのかき>。「日傭<ひよう>」は、日雇い労働のこと。早朝に日銭を求めて働きに行く者の家では、家人が居なくなってから朝顔が咲く。それでも朝顔を作る優しさも一句に込めた。

てしがなと朝貌ははす柳哉      湖春
<てしがなと あさがおはわす やなぎかな>。「梅の香を桜の花ににほはせて柳が枝に咲かせてしがな」(『後拾遺集』)(梅の花のあの香を桜に匂わせて、その桜の花を柳の枝に咲かせてみたいものだ、の意)のパロディ。一句は、柳の枝は朝顔をはわす手にしたいものだ。

  秋虫

年よれば聲はかるゝぞきりぎりす  大津智月
<としよれば こえはかるるぞ きりぎりす>。秋が深まってコウロギの鳴き声が段々かすれたように弱くなっていく。そうよ、コウロギよ、年をとれば誰だって声がかすれ小さくなっていくものですよ。西行の歌「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか聲の遠ざかりゆく」(『新古今集』)からの引用。

悔いふ人のとぎれやきりぎりす    丈艸
<くやみいう ひとのとぎれや きりぎりす>。通夜の客の列が途切れて一瞬静かになった。その空白を埋めるようにコオロギの鳴き声が一段と高くなる。

蟷螂にくんで落たるぬかごかな   さが為有
<かまきりに くんでおちたる ぬかごかな>。蟷螂が自然薯の枝についている零余子<ぬかご>を捕まえたその瞬間もろともに大地に落ちた。

こうろぎや箸で追やる膳の上     孤屋
<こうろぎや はしでおいやる ぜんのうえ>。晩秋になって寒さに耐えかねたか、コウロギが家の中、それも食事の膳の上に這い上がってくるのを、箸で追っ払う。

  鹿

友鹿の啼を見かへる小鹿かな     車來
<ともじかの なくをみかえる こじかかな>。仲間の鹿が一声鳴いたら、小鹿が心配そうにその声の主を見つめている。

人のもとめによりて
鹿のふむ跡や硯の躬恒形       素龍
<しかのふむ あとやすずりの みつねがた>。凡河内躬恒<おおしこうちのみつね>は、平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」(『大字林』)躬恒の歌「妻恋ふる鹿ぞ鳴くなるをみなへしをのが住む野の花を知らずや」(『古今集』)に題材を採った。一句は、鹿の足跡の丸い形は、躬恒好みの硯の形か。

旅行のとき
近江路やすがひに立る鹿の長     土芳
<おうみじや すがいにたてる しかのたけ>。「すがひ」は「つがい」のこと。この「旅行」は、伊賀から京都への旅路。その旅の途次、近江の多羅尾峠で鹿の夫婦に遭ったのである。そのつがいの鹿のすっくと立った均整美に感動したのである。

  草花

宮城野の萩や夏より秋の花      桃隣
<みやぎのの はぎやなつより あきのはな>。「宮城野萩」は、夏萩<ナツハギ>ともいう。早咲きゆえの命名か?それにしても萩はやっぱり秋の花だ。

花すゝきとらへぢからや村すヾめ   野童
<はなすすき とらえぢからや むらすずめ>。雀たちがススキの穂にとまっているが、風に揺れるので落ちないように足に力を入れてつかまっている。

片岡の萩や刈ほす稲の端       猿雖
<かたおかの はぎやかりほす いねのはし>。「片岡」は、一辺だけの丘で、たとえば田や畠に面した草地など。ここではそこに萩が生えているのだが、それが秋と共に色づいているのだが、そこに稲を刈って干しているのである。

芦の穂や貌撫揚る夢ごゝろ      丈草
<あしのほや かおなであげる ゆめごころ>。葦原を船が通過していく。そのとき芦の穂が眠れる客の顔を撫でて通過する。客は心地よさそうに眠り続ける。

なには津にて
芦のほに箸うつかたや客の膳     去来
<あしのほに はしうつかたや きゃくのぜん>。淀舟を待っていると、船宿は丁度食事の時間。箸の音をカチカチとたてながら、配膳の真っ最中だ。折りしも、船着場は一面芦の穂が出て、秋の景だ。

女中の茸狩をみて
茸狩や鼻のさきなる哥がるた     其角
<たけがりや はなのさきなる うたがるた>。「女の知恵は鼻の先」は、古カルタの文句。女に知恵などは深慮遠謀にかけると揶揄したもの。今では、「男の知恵も鼻の先」であろうに。さて、一句は、きのこ狩りに来た女性たちが、ぺちゃくちゃしゃべりながら茸を探すものだから、鼻先に有っても気がつかない。これじゃ「鼻の先」以下のものじゃないかと冷やかした。

團菊
菊畑おくある霧のくもり哉      杉風
<きくばたけ おくあるきりの くもりかな>。菊園に来た。霧がかかっていて菊の花も、深窓のような犯しがたい雰囲気になる。

紺菊も色に呼出す九日かな      桃隣
<こんぎくも いろによびだす くにちかな>。「紺菊」は紫色の野菊のこと。菊の節句の今日は菊も総動員で野菊まで呼び出されていることだろう。

  秋植物

柿のなる本を子どもの寄どころ    利牛
<かきのなる もとをこどもの よりどころ>。柿の実がたわわになっている柿の木の下というのはおのずと子供たちの集合場所となる。落ちてくる熟柿を楽しみにしているのである。

落栗や谷にながるゝ蟹の甲      祐甫
<おちぐりや たににながるる かにのこう>。谷川に沢山のカニの死骸。それと一緒に栗のイガ。これがカニを直撃してカニは死んだのかしら??

箕に干て窓にとちふく綿の桃     孤屋
<みにほして まどにとちふく わたのもも>。「綿の桃」とは、綿の実は桃によく似ている。それがほぼ4等分に割れてその割れ目から白い綿が、鼻汁を出したように出てくるのである。そこで木綿の木の実を言ったもの。木の上ではなくて窓辺の箕に干した「綿の桃」が、4つに裂けて笑っている。

とうがらしの名を南蛮がらしといへるは、
かれが治世南ばんにてひさしかりしゆへに
や。未祥。ほうづき、天のぞき、そら見、
八つなりなどいへるは、をのがかたちをこ
のめる人々の、もてあそびて付たる成るべ
し。みなやさしからぬ名目は、汝がむまれ
付のふつゝかなれば、天資自然の理、さら
さら恨むべからず。かれが愛をうくるや、
石臺にのせられて、竹縁のはしのかたにあ
るは、上々の仕合なり。ともすればすりば
ちのわれ、そこぬけのつるべに土かはれて、
やねのはづれ、二階のつま、物ほしのひか
げをたのめるなど、あやうくみえ侍を、朝
貌のはかなきたぐひには、たれもたれもお
もはず、大かたはかづら髭つり髭のますら
おにかしづかれて、びんぼ樽の口をうつす
さかなとなり、不食無菜のとき、ふと取出
され、おほくはやつこ豆麩の比、紅葉の色
をみするを栄花の頂上とせり。かくはいへ
ど、ある人北野もうでの歸さに、みちのほ
とりの小童に、こがね一兩くれて、なんぢ
が青々とひとつみのりしを所望せし事あり
といへば、いやしめらるべきにもあらず。
しかし、いまはその人々も此世をさりつれ
ば、いよいよ愛をもたのむべからず。から
きめもみすべからずと、小序をしかいふ
石臺を終にねこぎや唐がらし     野坡
<いしだいを ついにねこぎや とうがらし>。石台の鉢物として観賞される幸せを味わったのも束の間のこと、ついに今日は根こそぎ引き抜かれて、南蛮用に軒端にぶら下げられるか、天井裏に干されるか、やがて酒の肴の湯豆腐の色付けに使われるぐらいのものであろう。名文。

  題しらず

相撲取ならぶや秋のからにしき    嵐雪
<すもうとり ならぶやあきの からにしき>。相撲取りが化粧まわしをつけて並んでいるところを見るとまるで紅葉の唐錦だ。既にこの時代に相撲のまわしは派手になっていた。

水風呂の下や案山子の身の終     丈草
<みずぶろの したやかかしの みのおわり>。一夏一秋を田んぼで頑張ってぼろぼろに疲れ果てた案山子が風呂の炬口に横たわっている。余命は風前の灯だ。あのかくしゃくとして田んぼの真ん中に立っていた姿が偲ばれる。

碪ひとりよき染物の匂ひかな     洒堂
<きぬたひとり よきそめものの においかな>。秋の夜長をひとり砧を打っていると、染物の良い匂いがしてきた。

秋のくれいよいよかるくなる身かな  荷兮
<あきのくれ いよいよかうるく なるみかな>。秋の暮。老境に入ってますます小さくなって体重も減っていく。

茸狩や黄蕈も兒は嬉し貌       利合
<たけがりや いくちもちごは うれしがお>。「黄蕈<いくち>」は、毒キノコ。茸狩りにきた子供たちはうれしくて茸ならなんでも摘んでいるが、黄蕈までよろこんで摘んでは困るよ。

夕貌の汁は秋しる夜寒かな      支考
<ゆうがおや しるはあきしる よざむかな>。ユウガオは、干瓢のこと。これもまたおみおつけの「ぐ」になる。透明で熱が保温されて熱い。それが夜寒の秋に喜ばれるのである。これを食べると秋の深まったのを知るのでもある。

くる秋は風ばかりでもなかりけり   北枝
<くるあきは かぜばかりでも なかりけり>。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・」のパロディ。秋になったからといって風ばかりが秋というわけでもない。理屈が先走って面白くない。

秋風に蝶やあぶなき池の上      依々
<あきかぜに ちょうやあぶなき いけのうえ>。秋が来て、蝶の余命も長くは無い。秋風に吹き流されて今にも池に落ちそうな。

包丁の片袖くらし月の雲       其角
<ほうちょうの かたそでくらし つきのくも>。月見の宴会に料理人を呼んで料理をさせる。随分ぜいたくな宴ではある。今しがた月が雲に入ってしまったので、そうでなくても暗い料理人の手元が半分真っ暗になっている。


   冬之部

 

  初冬

凩や沖よりさむき山のきれ      其角
<こがらしや おきよりさむき やまのきれ>。「きれ」は、山がせり出している半島状の突端のことらしい。こういう場所では、海の沖合いより木枯らしは寒い。

市中や木の葉も落ずふじ颪      桃隣
<まちなかや このはもおちず ふじおろし>。「ふじ颪<おろし>」は、富士山から降りてくる風のこと。必ずしも富士山から降りてくるわけでなくても、冬の江戸の季節風=木枯らしをそう呼んだのである。
 江戸の市街地では、木も無いのだから木枯らしが吹いても木の葉が飛散することも無い。

冬枯の礒に今朝みるとさか哉     芭蕉
<ふゆがれの いそにけさみる とさかかな>。「とさか」は、紅藻類スギノリ目の海藻。暖海の海岸の岩につく。膜質で、不規則な叉状(さじよう)に分かれ、高さ10〜30センチメートル。体形・色は変化に富む。食用(『大字林』)。今朝、冬の浜辺に行ってみたら、岸に「とさか」が打ち上げられていた。岩場の波は激しいのだろう。

櫻木や菰張まはす冬がまへ      支梁
<さくらぎや こもはりまわす ふゆがまえ>。春の花のためであろう桜の木に冬囲いのコモを巻きつけている。

蜘の巣のきれ行冬や小松原      斜嶺
<くものすの きれゆくふゆや こまつばら>。「千代の松原」などと言うが、冬枯れの松原ではこの夏の蜘蛛の巣が木枯らしに破られて哀れをとどめている。

刈蕎麥の跡の霜ふむすヾめ哉     桐奚
<かりそばの あとのしもふむ すずめかな>。そばを刈り取った後の畑には一面霜が降りている。そこへこぼれたそばの実をついばもうと雀がやってきた。霜の上を歩くたびに冷たさが伝わってくるようだ。作者桐奚は江戸の人。深川に住む。

凩の薮にとヾまる小家かな           残香
<こがらしの やぶにとどまる こいえかな>。凩が吹いている。それが薮の中を通るときには薮は波のように揺れる。その薮の中に小さな家がある。まるで凩はこの家に滞在しているかのようだ。

初霜や猫の毛も立臺所        楚舟
<はつしもや ねこのけもたつ だいどころ>。初霜の降りた寒い朝。みれば台所に丸くなって寝ている猫の毛も逆立っている。

凩や盻しげき猫の面         八桑
<こがらしや まだたきしげき ねこのつら>。「盻<まだたき>」じは、「まばたき」のこと。凩が顔に当たって猫は、その度に瞬きをする。それがとてもかわいらしい。

南宮山に詣で
木枯の根にすがり付檜皮かな     桃隣
<こがらしの ねにすがりつく ひわだかな>。「南宮山」は南宮神社で、岐阜県垂井町宮代にある神社。祭神は金山彦命(かなやまびこのみこと)。美濃国の一の宮(『大字林』)。凩の吹きつける神社の森。その森にすがりつくように社が建っている。

箒目に霜の蘇鉄のさむさ哉      游刀
<ほうきめに しものそてつの さむさかな>。雪囲いにくるまれたソテツの庭園。その白砂の庭の箒の掃け目が一層寒さを際立たせる。

  時雨

芋喰の腹へらしけり初時雨      荊口
<いもくいの はらへらしけり はつしぐれ>。昼飯を芋で済ませたのであろうか、お腹がへってきたと思ったとき、良い按配に初時雨が来た。これで家に帰って食事にありつけるか。

黒みけり沖の時雨の行ところ     丈艸
<くろみけり おきのしぐれの ゆくところ>。琵琶湖畔から見ていると、沖に黒雲が立ってそれが激しく異動していく。あれは時雨が湖を渡っていく景色なのだ。

芭蕉翁をわが茅屋にまねきて
もらぬほど今日は時雨よ草の庵    斜嶺
<もらぬほど きょうはしぐれよ くさのいお>。今日は芭蕉翁をこの茅屋にお招きしている。折角だからぜひ時雨は来て欲しいのだが、雨漏りするほど強烈なのは困ります。風情をかき乱さない時雨に来て欲しい。元禄4年、芭蕉江戸下向の折、大垣の斜嶺宅で九吟半歌仙を巻く。

在明となれば度々しぐれかな     許六
<ありあけと なればたびたび しぐれかな>。(旧暦の)十月ともなれば、月は有明にあって、すでに底冷えの季節となる。そして有明に時雨が通り過ぎるのである。

旅ねのころ
小夜しぐれとなりの臼は挽やみぬ   野坡
<さよしぐれ となりのうすは ひきやみぬ>。旅の宿。近くの民家から石臼をひく音が聞こえていたが、そこへ時雨がやってきて、それに気を取られていたが、それが通り過ぎた今、改めて聞き耳を立ててみるともう石臼の音は鳴り止んでいる。

大根引というふ事を
鞍壺に小坊主乘るや大根引      芭蕉

蜂まきをとれば若衆ぞ大根引     野坡
<はちまきを とればわかしゅぞ だいこひき>。大根畑で大根を引き抜いている農夫たち。みんな年老いた者達だと思っていたら、休憩時になって鉢巻を取ったところをみると、若者たちも混じっているのだ。

神送荒たる宵の土大根        洒堂
<かみおくる あれたるよいの つちおおね>。「神送<かみおくり>」は、十月朔日、神々が出雲へ出立する日だが、一陣の風が吹いてこれに神々は乗って瞬時に出雲に集合するという。神送りの風が吹き荒れて、いよいよ大根の季節がやって来た。

  さむさを下の五文字にすへて

人聲の夜半を過る寒さ哉       野坡
<ひとごえの よなかをすぐる さむさかな>。夜中、一眠りして目覚めたとき、表を通る人の話し声。染み込んでくる寒さの中を、人声は通り過ぎていった。

この比は先挨拶もさむさ哉      示蜂
<このころは まずあいさつも さむさかな>。この寒い季節、挨拶も寒さのことをまず言ってから始まるのだ。

蕎麦切に吸物もなき寒さ哉      利牛
<そばきりに すいものもなき さむさかな>。「蕎麦切」は、蕎麦粉を水でこねて薄くのばし、細長く切った食品。ゆでてつけ汁につけたり、または汁をかけたりして食べる(『大字林』)。蕎麦切りだけでは冷えてしまって、寒くて仕方が無いので、吸物が必要なのである。

足もともしらけて寒し冬の月     我眉
<あしもとも しらけてさむし ふゆのつき>。冬の月の夜。辺りは月光の白さに照らされて、自分の足元まで白けてみえる。それが一層寒さを際立たせる。深川芭蕉庵を訪問した時の作。次も同様。

魚店や莚うち上て冬の月       里東
右の二句は、ふか川の庵へをとづれ
し比、他國よりの状のはしに有つる
をみて、今爰に出しぬ。
<うおだなや こもうちあげて ふゆのつき>。店じまいした夜の魚屋の店先。店を囲んでいた筵を跳ね上げて店内の掃除でもしているのであろう。そこへ冬の白い月光が差し込んでいる。

  雪

はつ雪にとなりを顔で教けり     野坡
<はつゆきに となりをかおで おしえけり>。初雪の寒い朝。門口で立っていると、隣家を訪れた人が道を尋ねる。隣だよと教えるのだが、寒いので手を出さずに顔で指して教えた。

初雪の見事や馬の鼻ばしら      利牛
<はつゆきの みごとやうまの はなばしら>。初雪の朝。馬が勇みたって、鼻柱を高く上げている。

はつ雪や塀の崩れの蔦の上      買山
<はつゆきや へいのくずれの つたのうえ>。崩れた塀に絡まった蔦の上に、初雪が降り積もっている。

雪の日に庵借ぞ鷦鷯         依々
<ゆきのひの いおりかそうぞ みそさざい>。「鷦鷯<みそさざい>」は、スズメ目ミソサザイ科の小鳥。全長10センチメートルほど。全体が地味な茶色で、短い尾を立て、活発に飛びまわる。山地の沢沿いを好み、冬は人里にも現れる。小昆虫・クモを食べる。大きな声で長くさえずる。ヨーロッパ・アジアに広く分布。ミソサンザイ。ミソッチョ(『大字林』)。雪が降って寒いだろう。みそさざいよ、私の庵を貸すから入っておいで。

雪の日やうすやうくもるうつし物   猿雖
<ゆきのひや うすようくもる うつしもの>。「うすよう<薄様>」は、薄く漉(す)いた雁皮(がんぴ)紙・鳥の子紙など。薄葉紙。竹葉紙(ちくようし)(『大字林』)。また、「うつし物<写し物>」は、書物などを写すこと。
 一句は、雪の日に写し物をしていると、薄様が曇ったように見えてくる。

冬の夜飯道寺にて
杉のはの雪朧なり夜の鶴       支考
<すぎのはの ゆきおぼろなり よるのつる>。「飯道寺」は、滋賀県水口町にある天台宗寺院。夜の鶴が鳴くとき、修験道場飯道寺の千年の杉の木の枝に懸かった雪は朧に光る。『和漢朗詠集』の「夜の鶴眠り驚いて松月苦なり」の「松」を「杉」とした。

朱の鞍や佐野へわたりの雪の駒    北枝
<しゅのくらや さののわたりの ゆきのこま>。『新古今集』の「駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮」のパロディ化したもの。雪の中を馬に乗った人が行く。主の鞍をつけて佐野の方角へ行く。

はつ雪や先馬やから消そむる     許六
<はつゆきや まずうまやから きえそむる>。初雪が降ったが、それが消えるのはうまやの屋根から始まる。なぜかといえば、馬の堆肥で暖かだからなのだ。

炭賣の横町さかる雪吹哉       湖夕
<すみうりの よこちょうさかる ふぶきかな>。作者湖夕<こせき>は近江の人。吹雪に見舞われて横丁で炭を商っていた炭売りたちが去っていく。「さかる」は、遠ざかるの意か?

海山の鳥啼立る雪吹かな       乙州
<うみやまの とりなきたつる ふぶきかな>。吹雪が琵琶湖にやってきた。見ると比叡の山から、湖上から鳥たちが大あわてで鳴き叫ぶ。

江の舟や曲突にとまる雪の鷺     素龍
<えのふねや へっついにとまる ゆきのさぎ>。「曲突<へっつい>」とは、かまどのまたは煙突の一部分。ここでは舟に取り付けた煙突をいう。雪が降って厳寒がやってきた。鷺が一羽、船の竈にとまっている。そこが暖かいからだ。

  題不知

かなしさの胸に折レ込枯野かな 羽黒亡人呂丸
<かなしさの むねにおれこむ かれのかな>。冬枯れの枯野を歩いていると、深い悲しみが胸にしみこんで来る。

寒菊や粉糠のかゝる臼の端      芭蕉

禅門の革足袋おろす十夜哉      許六
<ぜんもんの かわたびおろす じゅうやかな>。「十夜<じゅうや>」は、〔仏〕 主に浄土宗の寺で、陰暦一〇月六日から一五日までの一〇昼夜、念仏を唱える法要。参籠(さんろう)者に「十夜粥(がゆ)」を炊いてねぎらう。永享年間(1429-1441)、平貞国が京都の真如堂で念仏を行い、夢で来世の救済を告げられたことに始まるとされる。お十夜。十夜念仏。十夜法要。十夜念仏法要など(『大字林』)。ここでは、禅宗での僧侶の話。十夜のお勤めに老僧が革足袋を新調して下ろすところを詠んだ。

御火焼の盆物とるな村がらす     智月
<おほたきの ぼんものとるな むらがらす>。「御火焼<おほたき>」は、江戸時代から京都地方などで行われる神事。陰暦11月に社前に神楽を奏し供物を供え、火を焚いて祭った。また、鍛冶屋の鞴(ふいご)祭りなど、民間で行われることもあった(『大字林』)。「盆物」、御火焼に供える供物。主としてミカンが供えられたという。それを烏が盗むので、一句となった。

白うをのしろき匂ひや杉の箸     之道
<しらうおの しろきにおいや すぎのはし>。白魚の吸物を頂いていると、杉箸にその匂いがついてくる。

の火やあかつき方の五六尺     丈艸
<ほたのひや あかつきかたの ごろくしゃく>。「榾<ほた>」は、囲炉裏や竈(かまど)でたく薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れはし。ほたぐい。ほたぎ(『大字林』)。明け方の寒さに目を覚まして囲炉裏にほだぎをくべたら、炎が5、6尺も燃え上がった。

庚申やことに火燵のある座敷     残香
<かうしんや ことにこたつの あるざしき>。「庚申」は、「庚申待」の行事のことで、庚申の日に、仏家では帝釈天(たいしやくてん)・青面金剛(しようめんこんごう)を、神道では猿田彦を祀(まつ)って徹夜をする行事。この夜眠ると体内にいる三尸(さんし)の虫が抜け出て天帝に罪過を告げ、早死にさせるという道教の説によるといわれる。日本では平安時代以降、陰陽師によって広まり、経などを読誦し、共食・歓談しながら夜を明かした。庚申。庚申会。おさるまち。さるまちなど(『大字林』)。一句は、その庚申待ちの夜に、座敷にコタツをしつらえて楽しむことだ、の意。

誰と誰が縁組すんでさと神樂     其角
<だれとたが えんぐみすんで さとかぐら>。里神楽が奉納されている村祭。新婚らしい男女も見に来ているが、彼らの縁結びも神様がやったのであろうから、そのお礼参りか。

海へ降霰や雲に波の音        仝
<うみへふる あられやくもに なみのおと>。海の中に降る霰はただ音も無く波間に沈む。だから、雲に反射する音は波の音だけだ。

  すゝはき

煤はきは己が棚つる大工かな     芭蕉

煤拂せうじをはくは手代かな     万乎
<すすはらい しょうじをはくは てだいかな>。この時代、煤払いは12月13日と決まっていた。その煤払いの行事で、障子の桟に溜まったススを掃除するのは手代の仕事だ、というのである。

餅つきや元服さする草履取      野坡
<もちつきや げんぷくさする ぞうりとり>。「草履取」は、武家の下僕の一。主人の外出のとき草履をそろえ、替えの草履を持って供をした。草履持ち(『大字林』)。その草履取りの少年が元服したのであろう。年末の一日、皆と一緒にてきぱきと餅つきを手伝っている。正月前に元服させて祝ってやったのである。

山臥の見事に出立師走哉       嵐雪
<やまぶしの みごとにでたつ しはすかな>。正月元旦の修業に、大山にむかって山伏の一団が、七つ道具に身を固めて出発する。そのカッコいい事。

待春や氷にまじるちりあくた     智月
<まつはるや こおりにまじる ちりあくた>。春めいてきた今日、水際に行ってみると、氷に一冬のちりあくたがからめ取られてくっついている。

  歳暮

このくれも又くり返し同じ事     杉風
<このくれも またくりかえし おなじこと>。年の暮がきた。あわただしい毎日だが、この時期になると来年こそゆったりとやれるようにしようなどと決心しながら、また繰り返すのだ。

はかまきぬ聟入もあり年のくれ    李由
<はかまきぬ むこいりもあり としのくれ>。年の暮の慌しさにまぎれて婿入りを済ませてしまおうという魂胆だろう。花婿が袴を着ないで、結婚式をやっている。

なしよせて鶯一羽としのくれ     智月
<なしよせて うぐいすいちわ としのくれ>。年の暮、方々に借りを返して、もはや初春の鶯の初音を聴くばかり。その鶯の面倒を日向ぼっこをしながらみている。

鍋ぶたのけばけばしさよ年のくれ   孤屋
<なべぶたの けばけばしさよ としのくれ>。新しい年を迎えるというので、鍋蓋を取り替えたのであろう。それが白々として如何にも不釣合いでけばけばしく見える。

としの夜は豆はしらかす俵かな    猿雖
<としのよは まめはしらかす たわらかな>。節分の夜、豆まき用の大豆を俵から刺し筒で取り出すと、からからと音をたてながら豆たちが走り落ちてくる。

年のくれ互にこすき錢づかひ     野坡
<としのくれ たがいにこすき ぜにつかい>。年末の経済は別らしく、人々の銭勘定はじつに油断もすきも無い世知辛いものになる。

芭蕉よりの文に、くれの事いかヾなど
在し其かへり事に
爪取て心やさしや年ごもり      素龍
<つめとりて こころやさしや としごもり>。芭蕉翁から手紙を頂いたのでその返事に、大晦日に寺社篭りを致しますので、爪を切って身を清めております、などと書いたのである。『白雄夜話』に「蕉翁曰、人はよく偽りをいふものかな。」と言ったと書いてある。

行年よ京へとならば状ひとつ     湖春
<ゆくとしよ きょうへとならば じょうひとつ>。行く年は西に向かって行くので、おそらく京の都を通るのであろうから、書状を一つ持っていってくれないか。作者は、北村季吟と一緒に江戸にいて年を越す。


   俳諧秋之部

 

                 其角
秋の空尾上の杉に離れたり
<あきのそら おのえのすぎに はなれたり>。「尾上の松」じゃないが、杉の木の立つ峰が見える。その上には、高い高い秋の空が広がっている。秋の空を芭蕉になぞらえて、遙か下の杉の木立を門弟になぞらえたか???

 おくれて一羽海わたる鷹      孤屋
<おくれていちわ うみわたるたか>。「尾上の杉」を飛び立った兄弟子達はそれでもずんずん飛んで行きますが私は遅れてただ一人荒海を渡っています。

朝霧に日傭揃る貝吹て        仝
<あさぎりに ひようそろえる かいふきて>。「日傭」は日雇い人夫のこと。一羽の鷹が海上を飛んで行くその浜辺では、網上げの日雇い人足を集めるほら貝の声が鳴り響いている。朝の浜辺の景。

 月の隠るゝ四扉の門        其角
<つきのかくるる よとびらのもん>。人足を集めたのは城の修復の大工事のためだったらしい。その城門は月がその中にすっぽり隠れるぐらいの大きな4扉付きの門である。

祖父が手の火桶も落すばかり也    仝
<じじがての ひおけもおとす ばかりなり>。城門の老門番が、門番小屋の中で手を焙るのであろう大きな火桶を抱えて小屋の中に入っていく。工事で一時的に火桶の置き場所を変えておいたのであろう。

 つたひ道には丸太ころばす     孤屋
<つたいみちには まるたころばす>。その物置までの伝い道には丸太がごろごろ転がっている。工事現場の混乱の景。

下京は宇治の糞舩さしつれて     仝
<しもぎょうは うじのこえぶね さしつれて>。「糞舩<こえぶね>」は下肥を運ぶ舟のこと。宇治の方は「柴船<しばぶね>」。前句の伝い道は下肥の始末経路に読み替えて。京都の下町である下京では伝い道は宇治の柴船ならぬ下京の糞船だ。

 坊主の着たる簔はおかしき     其角
<ぼうずのきたる みのはおかしき>。前句の糞船の船頭は蓑を着て舟をこいでいるが、蓑というもの船頭が着ると似合うが僧侶がかぶると何とも不釣合いだ。

足輕の子守して居る八つ下り     孤屋
<あしがるの こもりしている やつさがり>。「八下り」は午後2時過ぎ。足軽が非番なのであろう。子供をあやしている。足軽という非人間的な階級社会の身分と子供の親という人間的な対比の面白さ。坊主と蓑の関係の別表現。実に旨い。

 息吹かへす霍乱の針        其角
<いきふきかえす かくらんのはり>。「霍乱」は「鬼の霍乱」として日常的に使われるが、元来は、「漢方で、日射病をさした語。また、夏に起きやすい、激しい吐き気・下痢などを伴う急性の病気をいった(『大辞林』)」。足軽の女房が文字通り鬼の霍乱で、亭主が慣れない子守をさせられている情景。しかし、心配ご無用、鍼灸術の効果てきめん、女房は息を吹き返したのであった。

田の畔に早苗把て投て置       孤屋
<たのくろに さなえたばねて なげておく>。前句の「霍乱」は田植えの最中に起こったらしい。それが証拠に苗を苗床から採取してそれを藁で束ねて稲を植える田んぼに持っていくのだが、その苗束が苗間の畦に投げ捨てられている。

 道者のはさむ編笠の節       其角
<どうしゃのはさむ あみがさのふし>。田の側の街道では、順礼が編笠節という歌を口ずさみながら初夏の田の中の道を歩いていく。のどかな初夏の風景。

行燈の引出さがすはした銭      孤屋
<あんどんの ひきだしさがす はしたぜに>。抽斗つきの行灯の抽斗には、大概小銭を入れてあるが、またゴミやら火打石やらロウソクやらも一緒くたに入っている。その中からあわてて小銭を引き出している。表で順礼が托鉢しているのである。

 顔に物着てうたゝねの月      其角
<かおにものきて うたたねのつき>。一家の亭主は宵の晩酌が効いたかして顔に手拭をかぶせてうたた寝。その隙に行灯の引き出しから小銭を盗もうというのはこの屋のどら息子。吉原へでも持っていこうというのであろう。

鈴縄に鮭のさはればひヾく也     孤屋
<すずなわに さけのさわれば ひびくなり>。鮭が遡上する秋の夜。番小屋で鮭採り漁師は顔に手拭をかぶせて眠っている。眠っていても大丈夫。鮭が鈴縄に触れればちりんちりんと鈴が鳴るので目が覚める。

 雁の下たる筏ながるゝ       其角
<がんのおりたる いかだながるる>。その川には材木を運搬するための筏が組まれて流されている。そこに越冬のためにやって来た一団の雁が羽を休めている。

貫之の梅津桂の花もみぢ       孤屋
<つらゆきの うめづかつらの はなもみじ>。紀貫之の『大井川行幸和歌序』にある、梅津の桜花や桂川の紅葉を髣髴とさせる「旅の雁雲ぢにまどひ、玉づさと見え」(『古今著聞集』14)とあるあの雁ですね。梅津は京都市右京区梅津。平安朝の花の名所。

 むかしの子ありしのばせて置    其角
<むかしのこあり しのばせておき>。梅津には昔女に産ませた子供が居て、今もまだそこに忍ばせているのですね。

いさ心跡なき金のつかひ道      仝
<いさこころ あとなきかねの つかいみち>。紀貫之の歌ではないが、私はいまやすっからかんになってしまったが、あんなにあった財産は今何処へ行ってしまったのか? 放蕩の末の没落。「いさ」は、後に「心も知らず」などを受けて「分からない」の意となる。たとえば、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
」(紀貫之)。ここではこの歌全体を受けて「いさ心」と言った。

 宮の縮のあたらしき内       孤屋
<みやのちじみの あたらしきうち>。「宮の縮」は宇都宮産の縮布のこと。これが良いのは新しいうちだけだ。お金を出しても何時までも効能があるとは限らない。あきらめが一番。

夏草のぶとにさゝれてやつれけり   其角
<なつくさの ぶとにさされて やつれけり>。「ぶと」は「蚋<ブヨ>」のこと。一夏過ぎたら、ブヨに食われてやつれてしまった。もう新しいとはいえない美貌の落ちた女の心境か?

 あばたといへば小僧いやがる    孤屋
<あばたといえば こぞういやがる>。大店の小僧さんは夏草刈りに駆り出されてブヨに食われた傷跡が化膿してあばたのようになってしまった。それを大人がからかって「あばた小僧」などというものだからとても嫌がる。

年の豆蜜柑の核も落ちりて      其角
<としのまめ みかんのさねも おちちりて>。節分の豆まき。拾って食べてみるとなかにみかんの種も混じっている。小僧達がみかんを食って種子を吐き出して散らかしっぱなしにしたのである。

 帯ときながら水風呂をまつ     孤屋
<おびときながら みずぶろをまつ>。水風呂のたまるのを待ちながら帯を解いていると、帯の間からみかんの種がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。

君來ねばこはれ次第の家となり    其角
<きみこねば こわれしだいの いえとなり>。あなたが来てくれないから家は荒れ放題。みすぼらしい家に住み、水風呂にしか入れないほどに没落してしまいました。男を待つ女の心情。

 稗と塩との片荷づる籠       孤屋
<ひえとしおとの かたにづるかご> 。天秤棒の片方にヒエを、もう片方に塩を入れてかついで帰るのだが、ヒエが塩よりはるかに重いので片荷になって担ぎ難い。家路を急ぐ男。貧しいので稗しか食べられないが、それでも女の待つ家路を急ぐ。

辛崎へ雀のこもる秋のくれ      其角
<からさきへ すずめのこもる あきのくれ>。前句の男の家路の途中描写。辛崎の松の枝に雀たちが大挙してねぐらを求めている。秋の夕暮れの情景。

 北より冷る月の雲行       孤屋
<きたよりひゆる つきのくもゆき>。月が上ってくるが、北の方から黒くもが流れていてやがて月が隠れるのではないか。今夜は冷えるかもしれない。

紙燭して尋て來たり酒の残      其角
<しそくして たずねてkたり さけのざん>。こんな秋の夜長の寒い番には一杯呑もうと友人が、紙燭で足元を照らしながら残り酒をぶら下げてやってきてくれた。

 上塗なしに張てをく壁       孤屋
<うわぬりなしに はりておくかべ>。この家ときたら、壁の土壁に上塗りがしてない荒壁のままの部屋。貧しい長屋の一室か。

小栗讀む片言まぜて哀なり      其角
<おぐりよむ かたことまぜて あわれなり>。「小栗」は庶民向けの本「おぐり物語」のこと。長屋のとなりでは小栗本を片言で読んでいる。昔の人は声を出さないと本が読めなかった。なぜか、声を出さないと読んでいることが頭に入らなかったのである。一句では、それが大衆本を読む声なので一層あわれをもよおすのである。

 けふもだらつく浮前のふね     孤屋
<きょうもだらつく うけまえのふね>。前句で大衆本を読んでいるのはこの長屋の船頭。船を陸に引き上げたまま。だらつく雨に川は増水して船止めなのだ。無聊を紛らわすための読書。感心感心。

   孤屋旅立事出來て、洛へのぼりけるゆへに、今四句未満にして吟終りぬ

 其角

 孤屋

   各十六句


   天野氏興行

 

                 桃隣
道くだり拾ひあつめて案山子かな
<みちくだり ひろいあつめて かかしかな>。ここへやって来る道々、様々雑多なものが落ちていたのでそれを組み立てると案山子が出来上がります。私も、俳諧宗匠としてこの座に招かれましたが、この案山子みたいなものでガラクタを寄せ集めただけのものです、という意味が隠れているか?

 どんどと水の落る秋風       野坡
<どんどとみずの おちるあきかぜ>。案山子が出てくるのは豊作なればこそ。田では実りの秋に勢いをつけるかのように田の水を払って愈々案山子の出番ですよ。座主の桃隣に対する応援歌。

入月に夜はほんのりと打明て     利牛
<いるつきに よはほんのりと うちあけて>。前句の時刻を月が西に没して有明の時刻とした。

 塀の外まで桐のひろがる      桃隣
<へいのそとまで きりのひろがる>。この季節ともなると大きな桐の葉ががさごそと音をたてながら落葉してくる。前句への景気付けの句。

銅壺よりなまぬる汲んでつかふ也   野坡
<どうこより なまぬるくんで つかうなり>。「銅壺」は、銅または鉄で作った湯沸かし器。かまどの側壁に取り付けたり、長火鉢の灰の中に埋めたりして、火気によって湯が沸くようにしたもの(『大字泉』)。寒い朝には温かい白湯にかぎる。銅壺からお湯をついでぬるま湯を飲む。

 つよふ降たる雨のついやむ     利牛
<つようふりたる あめのついやむ>。あんなに強く降っていた雨が急に止んでしまった。前句を雨に降られて帰ってきた人が手洗いに使うぬるま湯とした。

瓜の花是からなんぼ手にかゝる    桃隣
<うりのはな これからなんぼ てにかかる>。瓜の花が咲き始めた。これからいよいよ農作業は忙しくなるぞ。雨上がりの瓜畠で農民は豊作を期待する。

 近くに居れども長谷をまだみぬ   野坡
<ちかくにおれども はせをまだみぬ>。こんな風に忙しいので、近くに住んでいながらまだ長谷寺に参詣したことが無い。働きづめの水呑の嘆き。

年よりた者を常住ねめまはし     利牛
<としよりた ものをじょうじゅう ねめまわし>。「ねめまわす」とは睨み回すの意。つまり近年流行の子供ばかりか大人にもある「いじめ」である。近くに住んでいながら長谷寺にも御参りができないのは長男夫婦がけちで監視しているからで。

 いつより寒い十月のそら      桃隣
<いつよりさむい じゅうがつのそら>。人情も気候もますます寒くなった十月の朝。

臺所けふは奇麗にはき立て      野坡
<だいどころ きょうはきれいに はきたてて>。10月になった。気分も新たに今朝は台所もきれいに掃きたてて。気を入れなおして頑張るのぞ、というのであろう。

 分にならるゝ嫁の仕合       利牛
<ぶんにならるる よめのしあわせ>。分家の朝を迎えてお嫁さんとしては、気苦労多い舅姑から別居できるのでうれしくてたまらない。台所の片付けもこれが最後と思えば力が入って念入りになる。

はんなりと細工に染まる虹うこん   桃隣
<はんなりと さいくにそまる にじうこん>。「はんなり」は上方言葉で、上品で華やかな様子をいう。ウコンで染めた赤みがとても上品に発色した。この家のお嫁さんの上品な趣味。別家してますます腕が磨かれたか?

 鑓持ばかりもどる夕月       野坡
<やりもちばかり もどるゆうづき>。「鑓持」は武家の行列の先頭を勤める鑓の部隊。ただし、ここは戦場ではないので単に権威を見せつけるための行列をしたのであろうが、何故か鑓持達だけが夕焼けに真っ赤に染まりながら意気消沈しながら帰っていく。秋の夕暮れの景。

時ならず念仏きこゆる盆の中     利牛
<ときならず ねんぶつきこゆる ぼんのなか>。何時ものように朝晩以外に時ならぬ時刻に「南無阿弥陀仏」の称名の声が聞こえてくる。今、盂蘭盆。前句の鑓持が意気阻喪しながら帰ってきたのは、主の急死があったためだったのである。そして今はその新盆法要の最中。

 鴫まつKにきてあそぶ也      桃隣
<しぎまっくろに きてあそぶなり>。念仏の聞こえる田面には鴫がやってきて田んぼは真っ黒。「鴫たつ沢の秋の夕暮れ」ならぬ「鴫着く田んぼの夏の昼下がり」といった塩梅か?

人の物負ねば樂な花ごゝろ      野坡
<ひとのもの おわねばらくな はなごころ>。田の鴫は暢気に遊んでいられてうらやましい。彼らは他人に何か貸し借りのような負い目を持っていないから気楽な花見気分でいられるのだ。私は、借で首が回らないから花見気分にはなれない。

 もはや弥生も十五日たつ      利牛
<もはややよいも じゅうごにちたつ>。前句を花よ蝶よと言って花見に過ごした風流人と見て、もうそうは言っても三月ももう半ばを過ぎて花の季節ではないとひやかしている。

より平の機に火桶はとり置て     桃隣
<よりひらの はたにひおけは とりおきて>。「より平の機」は織機のこと。冬中の家内仕事の機織には寒さ対策の火桶を股下に置いたのだが、三月十五日過ぎの今となっては不要となったので取り片付けたのである。

 むかひの小言たれも見廻ず     野坡
<むかいのこごと たれもみまわず>。向こうの家では機織の女房と下働きの亭主とで口喧嘩が始まったようだが、誰もそれを止めようという者はいない。春ののどかな田舎の景。

買込だ米で身躰たゝまるゝ      利牛
<かいこんだ こめでしんだい たたまるる>。向かいの家の夫婦喧嘩は、主人が米相場に手を出して買い込んでおいた米が暴落して大損をしたためであるらしい。

 帰るけしきか燕ざはつく      桃隣
<かえるけしきか つばめざわつく>。身代をたたむ家に住んでいられないと感じたのか、ツバメ達までが出て行こうとしてざわつくはじめた。

此度の薬はきゝし秋の露       野坡
<このたびの くすりはききし あきのつゆ>。今度は薬が効いたと見えてすっかり病気が回復した。これで転地療養の養生先から家に帰れる。ツバメも南の家に帰ろうと勢いづいている。秋の朝。

 杉の木末に月かたぐ也       利牛
<すぎのこずえに つきかたぐなり>。薬がよく効いたらしく病気は峠を越えた。杉林のこずえに月がかかって、遅い秋の朝が明けようとしている。徹夜の看病にほっとしている妻の心境か?

同じ事老の咄しのあくどくて     桃隣
<おなじこと おいのはなしの あくどくて>。杉の梢に月がかかる深更まで老人の繰り言を聞かされて辟易している跡取り息子。

 だまされて又薪部屋に待      野坡
<だまされてまた まきべやにまつ>。忍んできた男。女の家に来てみれば灯りがこうこうとついている。雨戸に近づいて聞耳を立ててみると、女の老親がくどくどと説教をしていて一向に寝静まらない。仕方なく薪部屋で一夜を明かすことになってしまった。全くだまされた気分。

よいやうに我手に占を置てみる    利牛
<よいように わがてにせんを おいてみる>。薪小屋に女を待ちながら、はたして女は自分を恋しているのかどうか手のひらで占いをしてみる。当然、都合の良いように占いは出るのだが、一向に出てこないのは当の女だ。

 しやうしんこれはあはぬ商 ヒ     桃隣
<しょうしんこれは あわぬあきない>。都合の良いように占いをしてみてもどうみても儲からない商談らしい。一転して商売人のビジネスに転じた。

帷子も肩にかゝらぬ暑さにて     野坡
<かたびらも かたにかからぬ あつさにて>。真夏の昼下がり。猛暑に帷子をかけて歩くこともかなわない。こんな苦労をしてやる商売は勘定に合わない。行商の商人の繰り言。

 京は惣別家に念入         利牛
<きょうはそうべつ いえにねんいり>。「惣別」は大体のこと、すべてのことの意。京都の家々は総じて念入りに作られている。だからこんな暑い日でも帷子がかからないなどということにはならないのだろう。

焼物に組合たる富田A        桃隣
<やきものに くみあわせたる とんだえび>。京都は清水焼などの京焼の街でもある。その焼き物に富田えびが添えられている。富田エビは未詳。夏も涼しい京の「まちや」の情景か?

 隙を盗んで今日もねている     利牛
<ひまをぬすんで きょうもねている>。そんな涼しい家の中で暇を盗んで気持ちよさそうに昼寝。

髪置は雪踏とらする思案にて     野坡
<かみおきは せっだとらする しあんにて>。「髪置」とは、幼児が髪を伸ばし始めるときの儀式。白髪をかぶせ頂に白粉をつけ、櫛で左右に梳く。中世末期からの風習で、普通は三歳の11月15日に行う。髪立て。櫛置き(『大字泉』)。その日(11月15日)には雪踏をお前にやろうと思っていたのだが、そんななまくらをやっているようではやらない。主人が子供の髪置の日に使用人にも雪踏を上げようと思っていたのだが、かくれて昼寝をしているような怠け者にはやらないというのである。

 先沖まではみゆる入舟       桃隣
<まずおきまでは みゆるいりふね>。沖合いに船が入ってきた。さあ、みんな荷揚げの作業に精を出せ。一生懸命働く者には髪置の日に雪踏を取らすぞ。贈り物でつる商家の主人の号令。

内でより菜がなうても花の陰     利牛
<うちでより さいがのうても はなのかげ>。家で食べるよりも、花の陰ならおいしいご馳走(菜=さい)が無くとも食い物はおいしい。出船入船の見える丘の上の眺め。

 ちつとも風のふかぬ長閑さ     野坡
<とっともかぜの ふかぬのどかさ>。春には珍しい風が吹かない午後の景。花びらも落ちずのどかな丘の上。


  神無月廿日ふか川にて即興

                 芭蕉
  
神無月廿日ふか川にて即興
振賣の鴈あはれ也ゑびす講

 降てはやすみ時雨する軒      野坡
<ふりてはやすみ しぐれするのき>。「神無月降りみ降らずみ定め無き時雨ぞ冬のはじめなりける」(『後撰集』)でうけた。

番匠が椴小節を引かねて       孤屋
<ばんじょうが かしのこぶしを ひきかねて>。「番匠<ばんじょう・ばんしょう>」は古代、大和・飛騨などから交代で京に上り宮廷の営繕に従事した大工(『大字泉』)。転じて大工一般を言うようになった。堅い樫の板の節に悪戦苦闘して休んでいる。ちょうど降りみ降らずみの時雨のように休み休み汗をかく。

 片はげ山に月をみるかな      利牛
<かたはげやまに つきをみるかな>。今日の仕事は思いがけず時間がかかってしまった大工。一日の仕事を終えてみると、片禿山に月が上ってしまうような時刻になってしまった。

好物の餅を絶さぬあきの風      野坡
<こうぶつの もちをたやさぬ あきのかぜ>。 秋の月といえば、月夜に浮かび上がる片はげ山は大福餅のイメージだ。自然はこんな秋の季節にも餅を絶やさないらしいですね。片はげ山に餅をイメージして、季節外れの餅としたか。

 割木の安き國の露霜        野坡
<わりきのやすき くにのつゆしも>。「割り木」は薪のこと。秋に餅つきをしている農家の庭先。薪を大量に燃やして餅を蒸している。赤々と燃えるかまどの火を見ながら、薪の値段の安いことに気がついた。当時薪は、地方と都市部では搬送料のために価格が著しく違っていた。野坡は、福井の産だから、日本橋越後屋と越前の薪価格を商人らしく比較したもの。

網の者近づき舟に聲かけて      利牛
<あみのもの ちかづきふねに こえかけて>。舟運の情景か?網舟と薪舟とが船頭同士で朝の挨拶をしながら行き違う景。この国では燃料産業が活性化しているようだ。

 星さへ見えず二十八日       孤屋
<ほしさえみえず にじゅうはちにち>。28日というから月は無し、星さえ見えないというから漆黒の夜の闇。二つの船は互いの声をかわさないと衝突沈没の悲劇が待っているのである。

ひだるきは殊軍の大事也       芭蕉
<ひだるきは ことにいくさの だいじなり>。形容詞「ひだるい」とは、腹が減ってひもじいこと。だから、腹が減ってはいくさができないという意味。前句の漆黒の闇は夜討ちの行われる時。これから戦いに出発するのだが、その前に腹ごしらえをしなくてはと野次っている。

 淡氣の雪に雑談もせぬ       野坡
<あわきのゆきに ざつだんもせぬ>。そこへ淡雪が降ってきた。殺伐とした戦場に冷たい雪。兵達は雑談もしない。何しろ腹が減って体力は見る見る落ちていく。兵糧攻めにあった籠城兵。

明しらむ籠挑灯を吹消して      孤屋
<あけしらむ かごじょうちんを ふきけして>。夜明けて目的地に着いた駕篭かき二人。道々点けてきたちょうちんの灯を消す。雪の降り出す中を二人は口もきかずに走ってきた。安堵の景。

 肩癖にはる湯屋の膏藥       利牛
<けんぺきにはる ゆやのこうやく>。「肩癖<けんぺき>」は、首から肩にかけて筋肉がひきつって痛むこと。肩凝り。けんびき(『大字泉』)。疲労困憊の駕篭かき達。肩に湯屋膏薬を張って疲労した肩の筋肉を労わっている。

上をきの干葉刻むもうはの空     野坡
<うわおきの ほしばきざむも うわのそら>。「上おき」とは辞書には、 たんすなどの上に置く、小さな戸棚や箱。上置き棚。 飯、雑煮の餅、うどん・そばなど、主食となるものの上にのせる肉・魚・野菜など(『大字泉』)であるが、ここは2であろう。上置きに干した大根の葉を乗せるのであろうが、下の料理が分からない。この調理を上の空でやっている。なにせ、肩の筋肉が引きつって痛んで仕方が無いのだ。

 馬に出ぬ日は内で恋する      芭蕉
<うまにでぬひは うちでこいする>。前句の主人公は女性らしい。恋に身を焦がして料理も手につかない。恋の相手はどうやら馬方。彼が馬稼業に出ない日はやって来てくれる。それでますます家事に手がつかないらしい。

の七つさがりを音づれて     利牛
<かせかいの ななつさがりを おとずれて>。「株モ「」 とは、木綿や絹糸を工の字型の枠木に蒔きつけた綛または木偏に上下と書くカセは古来農家の女達の夜なべや雨降り時の内職であった。それを集めて歩くのが綛買<かせがい>いであった。一句は、綛買いが午後四時ごろやってくる。いつもは、女は一日千秋の想いで彼を待っているのだが、今日はあいにくの雨。馬車引きの亭主が在宅している。

 塀に門ある五十石取        孤屋
<へいにもんある ごじっこくどり>。午後四時、綛買いの男は50石取りの貧乏侍の家に内職製品を回収に行く。この時代、下級武士の女房達は内職に精を出していた。

此嶋の餓鬼も手を摺月と花      芭蕉
<このしまの がきもてをする つきとはな>。前句の侍屋敷があるのは離島の寒村。だが人心は丸く、人々はおろか島に住んでいる餓鬼までが、月や花を愛でるやさしさがある。餓鬼は、宗教的救済の外にいるものの意だが、ここでは子供を指すか?

 砂に暖のうつる青草        野坡
<すなにぬくみの うつるあおくさ>。この島に春が来て、砂浜では陽光に温められて青草がすくすくと育っている。のどかな理想郷の景気付け。

新畠の糞もおちつく雪の上      孤屋
<しんはたの こえもおちつく ゆきのうえ>。一転して前句の砂浜を山地の開墾地とした。秋のうちに新たに開墾した畑に積もった雪も溶け出して、雪の上に撒いておいた下肥も雪と供に溶けてしまった。青草が生えるのも間近であろう。作付けのできる喜び。

 吹とられたる笠とりに行      利牛
<ふきとられたる かさとりにいく>。春の突風にかぶっていた帽子が飛ばされた。飛んでいった場所は下肥を撒いた開墾地だ。やれやれ。

川越の帯しの水をあぶながり     野坡
<かわごえの おびしのみずを あぶながり>。「帯しの水」は腰帯の位置まである水深の川の意。笠を飛ばされた場所が川の真ん中。それを取りに行きたいのだが水深が深くて怖くて行けない。

 平地の寺のうすき藪垣       芭蕉
<ひらちのてらの うすきやぶがき>。川の近くには寺があって、薮垣があるがひどく薄っぺらでこれでは防水にも防風にもならないのではないか。前句の場所の情景を付けた。

干物を日向の方へいざらせて     利牛
<ひものをひなたの かたへいざらせ>。薮垣の内側の寺の縁側では洗濯物を干していた。陽が西に傾いて、生垣のために日がかげってきたので、縁側のほし物を後ろに下げた。

 塩出す鴨の苞ほどくなり      孤屋
<しおだすかもの つとほどくなり>。前句の干物は鴨の干物を塩漬けにしたもの。それをこもに包んでおいたのだがそれをしばっておいた紐をいま解いている。

算用に浮世を立る京ずまひ      芭蕉
<さんように うきよをたつる きょうずまい>。幾多の戦乱に見舞われた京の人は実に賢い。だから、食べ物でも保存食をしっかりと作れるのである。この鴨料理などもその一つ。

 又沙汰なしにむすめ産<ヨロコブ>    野坡
<またさたなしに むすめよろこぶ>。とはいえ、嫁に行った娘はなんの前触れも無く出産したことを言ってよこした。算用は立つのかしら?

どたくたと大晦日も四つのかね    孤屋
<どたくたと おおつごもりも よつのかね>。とんだ出産騒ぎに大晦日も午後10時になっていよいよ除夜の鐘も鳴り出した。どさくさ紛れの一日。

 無筆のこのむ状の跡さき      利牛
<むひつのこのむ じょうのあとさき>。深夜にいたって手紙の代筆を依頼に来た客がいる。何を書くのかさっぱり要領を得ない。前後の関係がつかめないので文章にならない。

中よくて傍輩合の借りいらゐ     野坡
<なかよくて ほうばいあいの かりいらぬ>。実は前句の依頼者は朋輩で気の置けない関係。だから、お互い持ちつ持たれつ。貸し借りはあっても無い。

 壁をたゝきて寐せぬ夕月      芭蕉
<かべをたたきて ねせぬゆうづき>。長屋のとなりの朋輩。なんだかんだと話しかけてくるから眠れない。外には夕月がかかっている。

風やみて秋の鴎の尻さがり      利牛
<かぜやみて あきのかもめの しりさがり>。先程まで壁を叩いていた晩秋の風が止んで、カモメ達も尻尾を下げてこころなしかくつろいでいるようにさえ見える。かもめは尻を少し上向にしている鳥である。

 鯉の鳴子の綱をひかゆる      孤屋
<こいのなるごの あみをひかゆる>。「鯉の鳴子」は、生簀の鯉をかもめの食害から守るためのがらがら音のする警報機のこと。家や見張り番小屋から紐でひいて振動させる。前句を鴨がやってきた状態と解した。

ちらばらと米の揚場の行戻り     芭蕉
<ちらばらと こめのあげばの いきもどり>。「ちらばら」はちらほらの意。米の揚場は船着場。米の舟運がなされていたのであろう。堅田辺りのイメージがあったかもしれない。こんな時刻になると昼にあんなに喧騒を極めた船着場もひっそりとしている。鯉の鳴子を振る夕暮れの景。

 目Kまいりのつれのねちみやく   野坡
<めぐろまいりの つれのみゃく>。「ねちみゃく」は撞着すること。堂々巡りで結論に至らないこと。目黒不動に参詣の客がなにやら相談しながら歩いているがちっとも結論に達しない。米の揚場の江戸湾の船着場から来た商人たちのビジネス会話でもあろうか。

どこもかも花の三月中時分      孤屋
<どこもかも はなのさんがつ なかじぶん>。まさに桜花爛漫。三月の中旬、花の季節。

 輪炭のちりをはらふ春風      利牛
<わずみのちりを はらうはるかぜ>。輪炭は、茶事などに使う円形の炭。炭俵に縁のある言葉で満尾した。

  芭蕉

  野坡

  孤屋

  利牛

   各九句


                 杉風
雪の松おれ口みれば尚寒し
<ゆきのまつ おれぐちみれば なおさむし>。雪の重みに耐えかねて折れてしまった松の枝。その傷口を見ると寒さが一入強く迫ってくる。

 日の出るまへの赤き冬空      孤屋
<ひのでるまえの あかきふゆぞら>。大雪の降った翌朝。天はよく晴れて日の出の前の東の空は焼けるように真っ赤に焼けている。寒気の厳しい冬の朝。

下肴を一舟濱に打明て        芭蕉
<げざかなを ひとふねはまに うちあけて>。「下肴」とは雑魚で値段の安い魚貝のこと。夜明けと共に港に戻ってきた漁船からは安物の魚がぶちまかれている。冬の朝の漁港の景。

 あいだとぎるゝ大名の供      子珊
<あいだとぎるる だいみょうのとも>。大名行列が行くが、早朝の眠気でもあるか列は、その間が途切れがち。港から見える街道筋の景。

身にあたる風もふはふは薄月夜    桃隣
<みにあたる かぜもふわふわ うすづきよ>。春の宵。大名行列は今夜の泊りへと急ぐ。もう少しで休めるかと思うと気が急いて急ぐ供の者あり、月に見惚れて歩の遅くなる者、いきおい行列の間隔は乱れる。

 粟をかられてひろき畠地      利牛
<あわをかられて ひろきはたけぢ>。先ごろまで粟畠だったのが刈り取られてみるとばかにだだっ広い空間が出現した。そこを通って風がそよいでくるらしい。

熊谷の堤きれたる秋の水       岱水
<くまがやの つつみきれたる あきのみず>。毎年のようにやってくる秋の洪水。熊谷の土提は例年のように決壊してここ辺りは水浸しとなった。粟の畑も例外ではない。泣く泣く刈り取っていまは広々としている。むなしい秋の景色。

 箱こしらえて鰹節賣る       野坡
<はここしらえて かつおぶしうる>。百姓達は仕方なく行商の魚屋に早変わり。にわかに箱を作ってこれに鰹節を入れて、日々の活計に売り歩く。

二三疊寐所もらふ門の脇       子珊
<にさんじょう ねどころもらう もんのわき>。寝るところも無いので地主の屋敷の門の脇に二三畳の寝所を借りて住むことになった。

 馬の荷物のさはる干もの      沾圃
<うまのにもつの さわるほしもの>。行商に連れ歩く馬をつないでおくと、この家の女中が干し物の邪魔だと言っていい顔をされない。

竹の皮雪踏に替へる夏の來て     石菊
<たけのかわ せっだにかえる なつのきて>。重い雪踏から軽い竹の皮製の草履に履き替えられる夏が来た。そうなればなったで、行商の馬の荷も増える。だから、干し物に荷がさわったりしてあちこちの民家で不評をかっているのであろう。

 稲に子のさす雨のばらばら     杉風
<いねにみのさす あめのばらばら>。夏の盛りは稲妻がやってきて稲に沢山の実をつける。そこへ雷雨が容赦なく降り付ける。

手前者の一人もみえぬ浦の秋     野坡
<てまえしゃの ひとりもみえぬ うらのあき>。「手前者」とは分限者のこと。この貧しい浦の浜には豊かな農民など一人もいない。

 めつたに風のはやる盆過      利合
<めったにかぜの はやるぼんすぎ>。こういう貧しい集落には盆過ぎの秋風と共に風邪が流行るものだ。

宵々の月をかこちて旅大工      依々
<よいよいの つきをかこちて たびだいく>。旅の大工は、この貧しい漁村に来て仕事をしているのだが、涙を抑えながら秋の月の下、遠く故郷を思っていることだろう。

 背中へのぼる兒をかはゆがる    桃隣
<せなかへのぼる こをかわゆがる>。大工は、家においてきた子供のことを想像して、家にいれば子供はきっと自分の背中に上ってくるであろうと想像しながら子への愛情をひしひしと感じている。

茶むしろのきはづく上に花ちりて   子珊
<ちゃむしろの きわづくうえに はなちりて>。「茶むしろ」蒸した茶葉を干すむしろのこと。「きわづく」汚れ目の着いた部分をさす。そこに桜の花びらが降り注いでいる。大工の故郷の思い出の情景。

 川からすぐに小鮎いらする     石菊
<かわからすぐに こあゆいらする>。屋敷の裏の川では生簀があって、そこに川を遡上する稚鮎が入ってくるような仕組みを作ってある。

朝曇はれて気味よき雉子の声     杉風
<あさぐもり はれてきみよき きじのこえ>。川の中では若鮎が上り、朝の雲は消えて雉の声がこだまする新緑の候のすがすがしさ。

 背戸へ廻れば山へ行みち      岱水
<せどへまわれば やへいくみち>。家の裏口へ廻ればそこは山道へつづく上り口。

物思ひたヾ鬱々と親がゝり      孤屋
<ものおもい ただうつうつと おやがかり>。親がかりの若者、どうやえら青春の憂いに身を沈めているらしい。山に行って一人物思いにふけりたいのである。

 取集めてはおほき精進日      曾良
<とりあつめては おおきいもいび>。前句の「親がかり」は夫に死別して出戻りのこの家の娘。自家の忌み日、婚家のそれと合わせてみれば連日のように忌日があるから、毎日が精進潔斎である。

餅米を搗て俵へはかりこみ      桃隣
<もちごめを つきてたわらへ はかりこみ>。精進日のためにもち米を精米して俵に詰めて準備をしておく。

 わざわざわせて薬代の礼      依々
<わわわざわせて やくだいのれい>。薬代のお礼にといってもち米をわざわざ1俵持参した。前句の精米はそのためだったのである。

雪舟でなくばと自慢こきちらし    沾圃
<せっしゅうで なくばとじまん こきちらし>。ところがこの医者としては鼻持ちならないブランド狂で、絵といったら雪舟でなくてはいけないとか、なんとか。持って行った餅米などには目もくれない。

 となりへ行て火をとりて來る    子珊
<となりへいきて ひをとりてくる>。絵を持っていって見てもらうとその家の主人は、「絵は雪舟でなくてはねぇ」などと言いながら隣の部屋に灯りを取りに行ってくる。

又けさも仏の食で埒を明       利牛
<またけさも ほとけのめしで らちをあけ>。前句で火を取りに行ったのは寺の住持。火をとって戻っていったのをみすまして仏壇に捧げた朝の供え物を盗んで朝食とする乞食がいる。

 損ばかりして賢こがほ也      杉風
<そんばかりして かしこがおなり>。前句の乞食、実は損ばかりしている商人で、そのくせ本人はそれが正しい人の行為であるといわんばかり。結果的に乞食同然に寺の供え物を盗んで食べるような境涯に落ちぶれた。

大坂の人にすれたる冬の月      利合
<おおざかの ひとにすれたる ふゆのつき>。損ばかりしてそのくせしたり顔の男はすれっからしの大坂商人。いまや、寒々しい冬の月を眺める身とはなった。

 酒をとまれば祖母の氣に入     野坡
<さけをとまれば ばばのきにいる>。癖の悪い酒をやめたら祖母の態度がよくなった。祖母は姑でこの男の女房の母であろう。大店では遺産相続は女系であった。

すゝけぬる御前の箔のはげかゝり   子珊
<すすけぬる おまえのはくの はげかかり>。「御前」は仏壇のこと。線香の煙ですすけて、金箔なども剥げかかっている。零落した大坂の商家。

 次の小部屋でつにむせる声     利牛
<つぎのこべやで つにむせるこえ>。「つにむせる」は唾にむせること。仏間の隣室では話に夢中の女達。不謹慎にも口角泡を飛ばして喋っていて唾にむせて大きな咳をする。

約束にかヾみて居れば蚊に食れ    曾良
<やくそくに かがみておれば かにくわれ>。実は前々句の部屋は仏間ではなくて、ここに女が潜んできて隠れている。隣室でむせる声がするので見つからないかと心配で震えている。

 七つのかねに駕籠呼に來る     杉風
<ななつのかねに かごよびにくる>。「七つ」は朝の4時。吉原からの朝帰りの男。駕籠を呼んで朝帰りをしようというのであろう。

花の雨あらそふ内に降出して     桃隣
<はなのあめ あらそううちに ふりだして>。時は春。桜花爛漫。花魁は居続けをしてくれとせがむ。そうはできないと引く手を振り切る。そんな痴話喧嘩をしている間に雨になった。やらずの雨か。

 男まじりに蓬そろゆる       岱水
<おとこまじりに よもぎそろゆる>。春の雨の中女達に混じって男も蓬摘みの仲間に入っている。折りしも春の雨が降り出して、みんなはあらそって近くの人家の軒に走っていく。桜の咲く活気の季節。

  杉風 五   野坡 三

  孤屋 二   沾圃 二

  芭蕉 一   石菊 二

  子珊 五   利合 二

  桃隣 四   依々 二

  利牛 三   曾良 二

  岱水 三

          撰者芭蕉門人

              志田氏 野 坡

              小泉氏 孤 屋

              池田氏 利 牛

  元禄七歳次甲戌六月廿八日

俳諧炭俵下巻之終

 

  京寺町通

     井筒屋庄兵衛

  江戸白銀丁

     本屋  藤助



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冬枯の礒に今朝みるとさか哉:公羽を翁と誤って芭蕉の作品とした間違い。