芭蕉db

山本荷兮

やまもと かけい

(〜享保元年8月25日、享年69歳)

Who'sWho/年表basho


 本名山本周知、名古屋の医者。通称は武右衛門および太一または太市。橿木堂、加慶は別号。貞亨元年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮であったが、内紛によって後に袖を分かつ。荷兮は、結局保守派で、芭蕉が次々と唱導する俳諧革新、特に「軽み」にはついていくことが出来なかった。元禄6年11月には、『曠野後集』を出版し、その序文に幽斎・宗因など貞門俳諧を賞賛し、「ただいにしへこそこひしたはれる」とまで書いて反抗した。そのため、蕉門の去来など理論派からは大いに非難された。晩年は、まことに復古調の連歌師になった。
 離反する以前には、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂。また、『更科紀行』では、奴僕を提供して芭蕉一行の旅の安全を支援するなどしている。

email02.gif (1023 バイト)

荷兮宛書簡(元禄3年1月2日)


荷兮の代表作