芭蕉最後の西上の旅の途次、島田の宿から曾良宛に書いた書簡。この旅では曾良は箱根まで芭蕉一行を見送ったのでその謝礼が書かれ、江戸深川の人々への気遣いと、寿貞尼に関する記述が有る。特に寿貞尼については、彼女が芭蕉の発った跡の芭蕉庵に転居することになっていたことが文面から伺える。
はこねまで御大義(儀)忝:<はこねまでごたいぎかたじけなく>。曾良は、これが師の芭蕉との最後の旅と思ったのであろう、箱根まで見送ったのである。地誌にも精通していた曾良は寿貞尼の子次郎兵衛に道々人文地理を教えたのであろう。
漸々三嶋新町ぬまづ屋九良(郎)兵へと申飛脚宿、能宿とり申候:<ようようみしましんまちぬまづやくろべえともうすひきゃくやど、よきやどとりもうしそうろう>と読む。三嶋は現静岡県三島市。飛脚宿葉は、信書以外に金銭の送金・小包郵便も扱った。
つかもと孫兵へ(衛)宿に居合、先と留候:<つかもとまごべえやどにいあわせ、まずととどめそうろう>。塚本孫兵衛は、船宿主人で門人如舟。
持病心無二御座一、定而無事に上着うたがひなく候へ共:<じびょうごころござなく、さだめてぶじにじょうちゃく・・>と読む。持病の発病の感じは無いので、きっと無事に上方に到着できると思いますが、の意。
与風持病も出可レ申哉などヽ被レ存候故、嶋田の逗留幸と休み申候:<ふとじびょうもいでもうすべくやなどとぞんぜられそうろうゆえ、しまだのとうりゅうさいわいとやすみもうしそうろう>と読む。持病が心配なので船止めを幸いと島田で体を休めています、の意。
寿貞も定而移り居可レ申候。御申きかせ乍二慮外一奉レ頼候:<じゅていもさだめてうつりおりもうすべくそうろう。おもうしきかせりょがいながらたのみたてまつりそうろう>と読む。寿貞はこのとき病気であったが、芭蕉の出た芭蕉庵に移り住んだらしい。
浄永(求)へも御伝被レ成可レ被レ下候:<じょうきゅうへもおつたえなされくださるべくそうろう>と読む。浄求はWho'sWho参照。いうことか。