芭蕉db

寿貞尼

(じゅていに)

(生年不詳〜元禄7年6月2日)

Who'sWho/年表basho


 判明している中では芭蕉が愛した唯一の女性。 出自は不祥だが、芭蕉と同じ伊賀の出身で、伊賀在住時において「二人は好い仲」だった。江戸に出た芭蕉を追って彼女も江戸に出てきて、その後同棲していたとする説がある。ともあれ、事実として、寿貞は、一男( 二郎兵衛)二女(まさ・ふう)をもつが彼らは芭蕉の種ではないらしい。 「尼」をつけて呼ばれるが、いつ脱俗したのかなども不明。芭蕉との関係は若いときからだという説、妾であったとする説などがあるが詳細は不明。ただ、芭蕉が彼女を愛していたことは、『松村猪兵衛宛真蹟書簡』や、「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などの句に激しく表出されていることから読み取ることができる 。ただし、それらを異性への愛とばかり断定できない。
 寿貞は、芭蕉が二郎兵衛を伴って最後に上方に上っていた元禄7年6月2日、深川芭蕉庵にて死去。享年不詳。芭蕉は、6月8日京都嵯峨の去来の別邸落柿舎にてこれを知る。
 なお、伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」という人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼であるが、 「6月2日」は出来過ぎである。後世に捏造したものであろう。
 寿貞尼の芭蕉妾説は、風律稿『こばなし』のなかで他ならぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 。その子二郎兵衛もつかい申されし由。浅談。」(風律著『小ばなし』)が残っていることによる。 これによれば、二郎兵衛は芭蕉の種ではなく、寿貞が連れ子で母親と一緒に身辺の世話をさせたということと、寿貞には他に夫または男がいたことになる。ただし、野坡は門弟中最も若い人なので、芭蕉の若い時を知る由も無い。だから、これが事実とすれば、野坡は誰か先輩門弟から聞いたということになる。

浅談:浅尾庵野坡のこと

風律著『小ばなし』:風律は多賀庵風律という広島の俳人。ただし、本書は現存しない。

芭蕉の種:寿貞の子供達は猶子」桃印(芭蕉甥)を父親とするという説もある。この説は、芭蕉妾説と同根である。すなわち、芭蕉の婚外の妻として同居していた寿貞と桃印が不倫をして駆け落ちをした。そうして彼ら二人の間に出来たのが二郎兵衛ら三人の子供だというのである。出奔した二人は、よほど後になって尾羽打ちはらして芭蕉の下に戻ってきた。そのときには桃印は結核の病を得ていたという。
 なお、この説では、芭蕉の深川隠棲のもとになったのも彼ら二人の駆け落ち事件が絡んでいたともいう。すなわち、駆け落ちをして行方不明になった桃印は、藤堂藩の人別帳のチェックが出来なくなったので、芭蕉は困り果てて、桃印を死亡したことにしてしまった。そこで、一家は日本橋に住むことは不都合となって、芭蕉は仕方なく深川へ転居したのだというのである。