ころもがへや白きは物に手のつかず 路通
<ころもがえや しろきはものに てのつかず>。陰暦4月朔日は衣更え。もともとは宮中行事だったものが庶民の世界にまで普及して季節感を刺激した。衣更えでいきなり白い袷に着替えるのだが、汚れないかと気にかかって仕事にも手がつかない有様だ。
更衣襟もおらずやだゞくさに 傘下
<ころもがえ えりもおらずや だだくさに>。「だだくさ」は無造作の意。衣更えだというが、我等庶民は何のことはない世間の習慣に従ってやるだけのことだから、ただ着ているものを白の袷にかえるだけのことだ。
ころもがへ刀もさして見たき哉 釋鼠彈
<ころもがえ かたなもさして みたきかな>。衣更えとなると初夏の気分。ちょっとした開放感もある。衣をかえたついでに一本差してみたくなった。鼠弾は僧侶なので、坊主が刀を差したいというのが俳諧なのである。
肖柏老人のもちたまひしあらし山といふ香
を、馬のはなむけに文鱗がくれけるとて、
雪の朝越人が持ちきたるを忘れがたく、明る
わか葉の比、文鱗に申つかはしける。
髭に焼香もあるべしころもがえ 荷兮
<ひげにたく こうもあるべし ころもがえ>。肖柏老人の師である宗祇は香をこよなく愛して髯にまで香をたいたという。ところで、越人は、肖柏老人が持っていたという嵐山という名前の香を文鱗から貰ったといって昨年の雪の日に焚いて見せてくれたので、衣更えの日に一句をしたためて越人に贈ったのである。
一句は、宗祇先生のように髯に焚く香をあなたは持っているのできっと衣更えには新しい袷にその香を焚き染めたのでしょうね。
山路にて
なつ来てもたゞひとつの葉の一つ哉 芭蕉
いちはつはおとこなるらんかきつばた 一井
「いちはつ」は、アヤメ科の多年草。中国原産。高さ約30〜60センチメートル。葉は剣形で淡緑色。五月頃花茎を出し、紫・白の花をつける。火災を防ぐという俗信から、時に藁屋根の棟に植えられる(「大字林」)。「かきつばた」は、イチハツに似ているが、アヤメ科の多年草。湿地に生える。ハナショウブに似るが葉は幅が広く、中脈は発達しない。高さ約70センチメートル。初夏、茎頂の苞の間に三個内外の濃青色・白色・斑入りなどの花を開く。かいつばた。かおよばな(「大字林」)。
イチハツは男の名前であろう。かきつばたは、「かおよ花」というくらいだから女に違いない。他愛もないことを詠んだ。
柿の木のいたり過たる若葉哉 越人
<かきのきの いたりすぎたる わかばかな>。「いたり過ぎたる」は、行き届いて粋なことをいう。柿の木は、若葉を一気に広げて日蔭を作る。その下に行くと生気が降ってくるといわれている。それが「いたり過ぎたる」ということなのである。
切かぶのわか葉を見れば櫻哉 岐阜不交
<きりかぶの わかばをみれば さくらかな>。切り株から若葉が芽を出している。それを見ると桜なのだ。こんな太くなった桜を誰が切ったのだ!?。
若葉からすぐにながめの冬木哉 同藤羅
<わかばから すぐにながめの ふゆきかな>。常緑の木は、若葉のときからして既に冬の装いだ。
わけもなくその木その木の若葉哉 亀洞
<わけもなく そのきそのきの わかばかな>。木々の芽吹きの姿、何でこんなに多様にと思うくらいさまざまな形をして生まれてくる。そんな必要があったのだろうか?
ひらひらとわか葉にとまる故(胡)蝶哉 竹洞
<ひらひらと わかばにとまる こちょうかな>。蝶がひらひら飛んできて若葉にとまる。思わず落ち葉かと思ってしまう。
ゆあびして若葉見に行夕かな 鈍可
<ゆあびいして わかばみにゆく ゆうべかな>。湯浴みをしてから新緑を見に行くことになった。気持ちのよい夕方。
はげ山や下行水の澤卯木 夢々
<はげやまや したゆくみずの さわうつぎ>。禿山の麓に卯の花が咲いている。その根元には澤水がちょろちょろと流れている。
上ゲ土にいつの種とて麥一穂 玄寮(察)
<あげづちに いつのたねとて むぎひとほ>。「上ゲ土」は、何かの作業で土置き場を作って土を盛り上げておいた場所のこと。そこのてっぺんに麦が一本生えている。これが何時蒔かれた種なのか分からない。
枯色は麥ばかり見る夏の哉 生林
<かれいろは むぎばかりみる なつのかな>。麦秋の景色。何処もかしこも緑一色なのに、麦畑だけが冬景色のように枯色を呈している。作者生林については詳細未詳。
麥かりて桑の木ばかり残りけり 作者不知
<むぎかりて くわのきばかり のこりけり>。麦を刈って畑はさっぱりした。いまや、畑の畦にある桑の木だけが残った。今度はカイコの作業だ。
むぎからにしかるゝ里の葵かな 鈍可
<むぎからに しかるるさとの あおいかな>。「むぎから」は麦藁のこと。麦の脱穀が終わって大量のムギワラができた。これをとりあえず積み重ねた場所に葵が生えていたので麦藁の下敷きになってしまった。葵の花と麦の収穫は同一時期。
しら芥子にはかなや蝶の鼠いろ 嵐蘭
<しらかしに はかなやちょうの ねずみいろ>。しらけしの薄い花びらがはかなげに咲いている。そこへ白い蝶が飛んできたが、シラケシの白さの前では蝶の色は灰色にしか見えない。
鳥飛であぶなきけしの一重哉 落梧
<とりとびて あぶなきけしの ひとえかな>。ケシの花は二日ぐらいではかなく散ってしまう。花は薄いしはかなさの代名詞みたいなもの。空飛ぶ鳥が揺るがす空気でも、その花は散ってしまうくらいのはかなさなのだ。
けし散て直に實を見る夕哉 岐阜李桃
<けしちりて すぐにみをみる ゆうべかな>。ケシの花ははかなく散るが、後に大きなケシ坊主をつける。花が散ってがっかりする間もなく実のことを期待するようにもなるのである。
大粒な雨にこたえし芥子の花 東巡
<おおつぶな あめにこたえし けしのはな>。大粒の雨が降ったが、芥子の実はしっかりついている。よくまあ落ちずにいたもんだ。作者東巡は、岐阜の人。
散たびに兒ぞ拾ひぬ芥子の花 吉次
<ちるたびに ちごぞひろいぬ けしのはな>。芥子の花が散るたびに子供が走っていって拾っている。作者吉次は、伊賀の人。
深川の庵にて
庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ 嵐雪
<あんのよも みじかくなりぬ すこしずつ>。夏至が近づくにつれて芭蕉庵の夜も短くなる。こうして毎晩、芭蕉庵で俳諧の話などをしていると、それがよく分かります。
さびしさの色はおぼえずかつこ鳥 野水
<さびしさの いろをおぼえず かっこどり>。さびしさの色が何色なのかは知らないが、郭公の声を聞くほど寂しいものは無い。
宵の間は笹にみだるゝ螢かな 櫻井元輔
<よいのまは ささにみだれる ほたるかな>。「笹」は「酒<ささ>」に語呂をかけている。蛍が宵の内に笹薮の中を乱れ飛んでいるが、あれは晩酌を飲んで酔っ払った千鳥足なのだ、というのである。
作者櫻井元輔は、15世紀末摂津の人。一説に1506年までの生存が確認されている。宗祇の門弟で、宮中の役人を勤めた。
草刈の馬屋に光るほたるかな 一髪
<くさかりの うまやにひかる ほたるかな>。夕暮れ時、作業を終えた馬を馬小屋に連れて行くと、干草の中で蛍が光っている。草刈のときに草ごとここへ連れて来たものであろう。
窓くらき障子をのぼる螢かな 不交
<まどくらき しょうじをのぼる ほたるかな>。夕闇迫る刻限。障子の窓はそこだけがボーっと明るい。そこを蛍が這い上がっていくのが内側から見える。
闇きよりくらき人呼螢かな 風笛
<くらきより くらきひとよぶ ほたるかな>。「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」(和泉式部)からのパロディー化。蛍は、暗黒の闇の中に居ながら、暗愚な人間に光を投げかけてくれる。
作者風笛<ふうてき>については詳細不明。
道細く追はれぬ澤の螢かな 青江
<みちほそく おわれぬさわの ほたるかな>。一匹の蛍を追ってここまで来たがもはや沢の道は狭く前には行けない。
あめの夜は下ばかり行螢かな 含呫
<あめのよは したばかりゆく ほたるかな>。雨夜の蛍は、空高く飛行することはなく草原の中ばかりで光っている。
くさかりの袖より出るほたる哉 卜枝
<くさかりの そでよりいずる ほたるかな>。一日草刈作業をして家に帰ってきて見ると夕暮れ。畑装束の袖の中から蛍が光りながら出てきた。「物思へば澤の蛍もわが身よりあくがれいづるたまかとぞみる」(和泉式部)のパロディー化。
水汲て濡たる袖のほたるかな 鴎歩
<みずくみて ぬれたるそでの ほたるかな>。水汲みをして濡れた袖に蛍がとまっている。作者はそれをじっと見ている。
はじめて葎室をとぶらはれける比
こゝらかとのぞくあやめの軒端哉 秋芳
<ここらかと のぞくあやめの のきばかな>。前詞の「葎室<りっしつ>」は作者の住居のこと。そこを訪れたのが芭蕉か否かは句からは不明。時は五月五日の菖蒲の節句の時候で、何処の家の軒端にも悪魔祓いの菖蒲などがさしてあって紛らわしい。あなたはそんな今日拙宅を探し探して来てくれました。
蚊のむれて栂の一木の曇けり 小春
<かのむれて とがのひときの くもりけり>。「栂」は、マツ科の常緑高木。山地に自生。幹は直立し、30メートルに達する。葉は線形で枝に二列に密生する。雌雄同株。雌花・雄花とも枝端に単生。球果は小さい長卵形。材は建材・器具材・パルプに、樹皮からはタンニンをとる。近縁種にコメツガ・カナダツガなど(「大字林」)。
栂の木の周りに蚊柱が立った。するとさすがに栂の木もかすんでしまった。
かやり火に寝所せまくなりにけり 杏雨
<かやりびに ねどころせまく なりにけり>。蚊遣りの煙がもうもうと立ち上って辺りは見えない。まるで寝所が狭くなったように感じられる。
雨のくれ傘のぐるりに鳴蚊かな ニ水
<あめのくれ かさのぐるりに なくかかな>。薄暗くなりかけた雨の暮れ方。笠の周りにはぐるりと蚊が取り巻いて今にも刺しに来そうな情況になっている。むずむずする句。
蚊の痩て鎧のうへにとまりけり 一笑
<かのやせて よろいのうえに とまりけり>。痩せこけた蚊が床の間に飾ってある鎧の肩にとまった。そこから血を吸おうというのかい?
藻の花をかづける蜑の鬘かな 胡及
<ものはなを かずけるあまの かづらかな>。高貴な女性などがつける髪飾りを「玉藻飾り」などという。サンゴや真珠などの宝物を髪飾りとしたのである。一句は、海女が海の底から上がってくる。途中で海草が頭にまつわりついて、これが海女の髪飾りなのだ。
塩引て藻の花しぼむ暑さかな 兒竹
<しおひきて ものはなしぼむ あつさかな>。潮が引いた後の夏の海岸。海草が干上がってすっかりしぼんでいる。兒竹<じちく>については詳細不詳。
足伸べて姫百合艸おらす晝ね哉 此橘
<あしのべて ひめゆりおらす ひるねかな>。庭に咲いた姫百合を家人に折らせて床の間に飾った。その匂いの充満している座敷に足を伸ばして昼寝をする。なんとも気持ちがいい。此橘<しきつ>については詳細不詳。
竹の子に行燈さげてまはりけり 長虹
<たけのこに あんどんさけて まわりけり>。竹の子が芽吹く頃になった。ちょうちんを下げて夜の見回りに出てみる。泥棒対策なのか? 情況視察なのか?
筍の時よりしるし弓の竹 去来
<たけのこの ときよりしるし ゆみのたけ>。「栴檀は双葉より芳し」というが、弓になるような竹は、竹の子のときから印をつけて育てられるそうだ。
聞おればたゝくでもなき水鶏哉 野水
<ききおれば たたくでもなき くいなかな>。「くいな」とは、ツル目クイナ科の鳥の総称。日本で古来、鳴き声を「叩(たた)く」と表現されたのは夏鳥であるヒクイナ(「大字林」)。水鶏が「たたく」と言うから、待っていたが叩かずに何処かへ行ってしまった。
五月雨に柳きはまる汀かな 大津一龍
<さみだれに やなぎきわまる みぎわかな>。降り続く五月雨に川が増水して、岸辺の柳の根方まで水が来た。もはや、柳の運命はきわまった。一龍<いちりゅう>は近江大津の人。
この比は小粒になりぬ五月雨 尚白
<このごろは こつぶになりぬ ごがつあめ>。もう梅雨も沢山。明けないものかと思案長首。しかし、よく見ればこの頃は雨粒も小さくなってきたぞ。雨粒が小さくなったからどうだ?というのではないところが面白い。
五月雨は傘に音なきを雨間哉 亀洞
<さみだれは かさにねなきを あままかな>。今日の雨は傘を差していても音がしないほど細かな雨粒だ。毎日降り続く梅雨時ではこういうのを晴れ間ならぬ雨間と言うべきだ。
岐阜にて
おもしろうさうしさばくる鵜縄哉 貞室
<おもしろう そうしさばくる うなわかな>。岐阜で鵜飼を見たときの句。「さうし」が意味不明だが、これを「三四」と書き、鵜匠が持つ縄の数が12本であるところから3×4=12を洒落た言葉ではないかと解釈されている。鵜飼の面白さは鵜が魚を捕まえるところだというが、私の見るところ12本もの縄を操る鵜匠の縄さばきこそが醍醐味だ。
おなじ所にて
おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉 芭蕉
おなじく
鵜のつらに篝こぼれて憐也 荷兮
<うのつらに かがりこぼれて あわれなり>。水の中に潜って喉一杯に鮎を呑み込んだ鵜が船べりに帰ってくる。このときかがり火に鵜の顔がはっきりと見える。その律儀な顔を見るとなんだか同情心をくすぐられることだ。
同
聲あらば鮎も鳴らん鵜飼舟 越人
<こえあらば あゆもなくらん うかいぶね>。前句を受けて。。。過酷なのは鵜ばかりではない。鵜飼によって塩焼きにされてしまう鮎だって、あわれそのものだ。もし鮎に声が出せたらきっと大声で泣くことだろうよ。
先ぶねの親もかまはぬ鵜舟哉 大津淳兒
<さきぶねの おやもかまわぬ うぶねかな>。鵜飼の仕事は鮎を捕ること。月の出るまでの短い時間に鮎を捕る。親のことなど心配している暇は無いから、ただひたすら魚を追い回す。殺生と親不孝と、罪深い鵜舟だ。淳児<じゅんじ>は近江大津の人。
曲江にかがりの見えぬうぶねかな 梅餌
<きょくこうに かがりのみえぬ うぶねかな>。「曲江」というのは中国の漢の武帝が作った池で、曲がりくねっているところからこの名がついた。鵜舟を曲江に入れたら、曲がっているから先の鵜舟のかがり火は見えないだろうと、想像した句。
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり 路通
<かものすの みえたりあるは かくれたり>。鴨など水鳥は水草の上に巣を作る。水嵩が増して水草が水中に没するときに埋まってしまわないように決して水草に固定してなどは作らない。一句は、そんな鴨の巣が増水した湖の波の間に間に浮かんでいる様を詠んだ。
松笠の緑を見たる夏野哉 卜枝
<まつかさの みどりをみたり なつのかな>。松笠は普通は実がはじけて地面に落ちてからお目にかかるものだから茶色の色をした枯れたものである。夏場は木について葉と同じ緑色をしていて目にはつかない。それを見たという新鮮な気持ちを詠んだ。
虹の根をかくす野中の樗哉 鈍可
<にじのねを かくすのなかの あうちかな>。「あふち」は「おうち=樗」のこと、センダンとも言う。「栴檀は双葉より芳し」の栴檀ではない。夏場になって急に大きくなってきれいな緑を呈す。白または紫の花をつける。一句は、虹が出たが、その根方が樗の陰になって見えないというのである。
藺の花や泥によごるゝ宵の雨 同
<いのはなや どろによごるる よいのあめ>。「藺」はイグサ(=藺草)のこと。藺草の鼻はちっぽけな白い小さな花。強い夕立にあって藺草の白い可憐な花が泥に汚れている。
撫子や蒔繪書人をうらむらん 越人
<なでしこや まきえかくひとを うらむらん>。『枕草子』第111段によれば、「絵に、描き劣りするもの。ナデシコ、菖蒲、桜。」とある。だからナデシコは蒔絵絵師を恨んでいることであろう。うまく自分の姿を書いてもらえないので。
冷じや灯のこる夏のあさ 藤羅
<すさまじや ともしびのこる なつのあさ>。夏の夜は短い。宵の内に灯した灯明の灯りが夜が明けても灯っている。なんとも暑苦しくて不愉快なものだ。
夏の夜やたき火に簾見ゆる里 且藁
<なんつのよや たきびにすだれ みゆるさと>。一体この里に何が起こったというのだ。かがり火が焚かれ、簾が見える。はては、高貴な人が一晩宿泊しているのだな。
庵の留主に
すびつさへすごきに夏の炭俵 其角
<すびつさえ すごきになつの すみだわら>。「すびつ」は、炭櫃<すみびつ>のこと。夏に炭櫃を見るだけでもすごいことだというのに、炭俵があなたの庵の入り口に積んでありました。これは大変なことですね。
ゆうがほのしぼむは人のしらぬ也 野水
花の盛りの宵のうちの夕顔を愛でる人は多いが、これが何時萎むか、本当は見た人はいないのだ。
夕貌は蚊の鳴くほどのくらさ哉 偕雪
<ゆうがおは かのなくほどの くらさかな>。夕顔が咲く時刻といえば、大体蚊が鳴き始め活動を開始するほどの明るさの時なのだ。楷雪<かいせつ>については詳細不詳。
山路来て夕がほみたるのなか哉 津島市柳
<やまじきて ゆうがおみたる のなかかな>。山路を過ぎて、野中に出たら夕顔が有った。そして夕顔を見たらホッとした。もう夕闇が迫る。
名はへちまゆふがほに似て哀也 長虹
<なはへちま ゆうがおににて あわれなり>。ヘチマは夕顔にそっくりなのにヘチマと言われてあまり尊重されない。可哀そうに。
楠も動くやう也蝉の聲 昌碧
<くすのきも うごくようなり せみのこえ>。夏のうるさいものの代表は雷・蚊と並んで蝉の声。そのすさまじさは巨大な楠すら動かさんかというぐらいだ。この蝉は、クマゼミであろう。
雲の峰腰かけ所たくむなり 野水
<くものみね こしかけどころ たくむなり>。入道雲がむくむくと盛り上がる。さまざまな形に変化するが、ちょうど腰かけるに具合のよいような形を作った。あれはきっと、雲の「峰」というから峰から麓を眺めるのによいように腰掛を作ってくれたのであろう。「たくむ」は工夫すること。
夕立に干傘ぬるゝ垣穂かな 傘下
<ゆうだちに ほしがさぬるる かきほかな>。「垣穂」は「垣」に同じ。垣根に干しておいた傘を取る暇も無く夕立が降ってきて折角乾燥した傘がまた濡れてしまった。
すゞしさに榎もやらぬ木陰哉 玄旨法印
<すずしさに えのきもやらぬ こかげかな>。「榎」と「得退き」をかけている。榎の大木は黒々とした日影を作ってくれる。だから猛暑の夏の一休みにこの木陰はなんともありがたい。そういう涼しさのために木の下の通行人はなかなか立ち去りがたいのである。
玄旨法印<げんしほういん>は細川幽斎の号。(1534-1610)
安土桃山時代の武将・歌人。名は藤孝。三淵晴員の子。細川元常の養子。忠興の父。剃髪して玄旨・幽斎と号した。はじめ足利家のち織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕える。和歌を三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派の正統を継承。近世歌学の祖と称さる。著書に『聞書全集』・『耳底(じてい)記』・『詠歌大概抄』。
涼しさよ白雨ながら入日影 去来
<すずしさよ ゆうだちながら いりひかげ>。夕立がきて雨が激しく降っている。しかし、西の方には夕陽がみえてこの夕立も上がるらしい。とすればありがたいことに今夜は涼しい夜になるだろう。夕立がジブリになると蒸してしまって涼しくない。
簾して涼しや宿のはいりぐち 荷兮
<すだれして すずしややどの はいりぐち>。エアコンの無い時代。涼しさを演出するには聴覚や視覚にうったえた。
はき庭の砂あつからぬ曇哉 同
<はきにわの すなあつからぬ くもりかな>。「はき庭」とは、植木の殆どない土だけの庭。庭は農民にとっては農作業のためにあったのである。そんな庭だが、今日はどんより曇っているから庭の砂も暑くはない。
おもはずの人に逢けり夕涼み 鳴海如風
<おもわずの ひとにあいけり ゆうすずみ>。夕涼み。夕もやの中に思いがけない人に逢う。男なのか女なのか?
飛石の石龍や草の下涼み 津島俊似
<とびいしの とかげやくさの したすずみ>。庭の飛び石の陰からトカゲが飛び出してきたかと思うと、一瞬の中に下草の中に隠れた。トカゲも樹下ならぬ草の中の下涼みと洒落こんだのだろうか。
涼しさや樓の下ゆく水の音 仝
<すずしさや ろうのしたゆく みずのおと>。高楼の下に一本の川が流れている。高い楼の上のことだから風も通り、川水の清冽さも加わって涼しそうだ。
挑燈のどこやらゆかし涼ミ舟 卜枝
<ちょうちんの どこやらゆかし すずみぶね>。納涼舟。屋形の周辺に提灯を沢山ぶら下げてそれが川面に映って涼しさを演出している。
すゞしさをわすれてもどる川辺哉 未學
<すずしさを わすれてもどる かわべかな>。川涼み。川岸に行ってみるとその涼しさに生き返った気分になる。しかし、長時間居ると少し寒くなる。暖かさが恋しいなどと言いながら家路を急ぐ。
吹ちりて水のうへゆく蓮かな 岐阜秀正
<ふきちりて みずのうえゆく はちすかな>。蓮池を通り過ぎてゆく一陣の風。その風にハスの花が崩れて水面に落ちた。作者秀正<しゅうせい>は、岐阜の人。
蓮みむ日にさかやきはわるゝとも 松坂晨風
<はちすみん ひにさかやきは わるるとも>。ここの「さかやき(月代)」は、男子が額から脳天までの毛を剃った髪型で、安土桃山時代から武士に間で流行し、江戸の入ると庶民までが取り入れたヘアスタイル。剃ってしまったので直射日光に弱いのである。それでもハスの花は日中に咲くので見に行きたい。
笠を着てみなみな蓮に暮にけり 古梵
<かさをきて みなみなはすに くれにけり>。多勢の人たちが蓮池の周りに集まってハスを見ている。異口同音に日よけの日傘をかぶっているのが面白い。
河骨に水のわれ行ながれ哉 芙水
<こうほねに みずのわれゆく ながれかな>。「河骨」は「川骨」<こうほね>とも。スイレンの一種の水生植物。川底に生えているコウホネがしっかり水を堰き止めているために、そこで川の流れが二分されている。水草の強靭さを表現した句。芙水<ふすい>については詳細未詳。
はらはらとしみずに松の古葉哉 長虹
<はらはらと しみずにまつの ふるはかな>。こんこんと湧き出る清冽な清水に、松葉がしきりと散りこんでいる。松葉が水の中に見えるので益々清水が透明に感じられる。
すみきりて汐干の沖の清水哉 俊似
<すみきりて しほひのおきの しみずかな>。潮が引いて普段は海底になっている所に清水の湧き出しが見える。しかもその澄み切った美しさと冷たさ。
連あまた待せて結ぶし水哉 文潤
<つれあまた またせてむすぶ しみずかな>。よほど身分の高いお方であろう。大勢の供を待たせたまま本人は心行くまで清水の冷たさとおいしさを堪能している。文潤<ぶんじゅん>については詳細不明。
引立て馬にのまするし水哉 潦月
<ひきたてて うまにのまする しみずかな>。あまりおいしい清水の水。自分だけ飲んだのではもったいない。ぜひ愛馬にも飲まそう。馬が喜んでいるかどうかは怪しい。潦月については詳細不詳。
かたびらは浅黄着て行清水哉 尚白
<かたびらは あさぎきてゆく しみずかな>。清水の祭でもあろうか? 土地の古老たちは、あさぎ色の帷子を来て清水詣でをしている。
直垂をぬがずに結ぶしみずかな 一髪
<ひたたれを ぬがずにむすぶ しみずかな>。ひたたれを着ているのだからこれも身分の高い人なのであろう。長い袖の直垂を脱がずに清水を手ですくって飲んでいる。それなのに一滴も袖を汚さない。さすがあっぱれなものだ。「結ぶ」は清水に関しては手ですくって水を飲むこと。
虫ぼしや幕をふるえばさくら花 卜枝
<むしぼしや まくをふるえば さくらばな>。春の桜の花見に使った紅白の幕。その虫干しをしようと広げてみると桜の花びらがパラパラと落ちてきた。
麻の露皆こぼれけり馬の路 岐阜李晨
<あさのつゆ みなこぼれけり うまのみち>。馬道の両側には人の背丈ほどの麻畑。そこを馬を引いて通ると朝露がいっせいに落ちた。馬が触ったのか音に驚いたか?
釣鐘草後に付たる名なるべし 越人
<つりがねそう のちにつkたる ななるべし>。「つりがねそう」はホタルブクロのこと。釣鐘というのは仏教伝来以後のものなのだから、釣鐘草の名前も仏教伝来以後に付けられたに違いない。どうでもよいことにこだわっている。
綿の花たまたま蘭に似たるかな 素堂
<わたのはな たまたまらんに にたるかな>。木綿の花がランに似ているという。それはたまたまであろう。あの美の象徴欄の花と実用一点張りの綿の花が似るわけが無いからね。木綿の花は、トロロ葵にそっくりの黄色い花。これはこれで実に美しいので、素堂が蔑むのが私には分からない。