芭蕉db

服部嵐雪

(承応3(1654)〜宝永4年(1707.10.13))

年表Who'sWho/basho


 生年月日不詳。下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる。 新左衛門。下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身。貞亨4年春宗匠として立机。若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようである。
 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人。芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。
 元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。いずれ才能ある人々の師弟関係であったために、暗闘や角逐もあったのだが、相互に強い信頼関係もまたあったのである。

嵐雪の代表作