阿羅野脚注

 


曠野集 員外

   歳旦

 

誰か華をおもはざらむ*。誰か市中にあ
りて朝のけしきを見む。我東四明の麓に
有て*、花のこゝろはこれを心とす*。よ
つて佐川田喜六の、よしの山あさなあさ
なといへる哥*を、実にかんず。又
  麥喰し鴈と思へどわかれ哉
此句尾陽の野水子の作とて*、芭蕉翁の傅
へしをなをざりに聞しに、さいつ比、田野
へ居をうつして*、実に此句を感ず。むか
しあまた有ける人の中に、虎の物語せしに、
とらに追はれたる人ありて、獨色を變じた
るよし*、誠のおほふべからざる事左のごと
し。猿を聞て實に下る三声のなみだといへ
るも*、實の字老杜のこゝろなるをや*。猶
鴈の句をしたひて
麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし   素堂
<むぎをわすれ はなにおぼれぬ かりならし>。(發句)「ならし」は「なり」と同義ながら、古典的表現。素堂の教養が思わず披瀝されている? 一句は、雁はいよいよ旅立つというときになるとあれ程執着していた麦畑など忘れ、しかも間もなく花の季節が来るというのに、決然として北を指して旅立ってしまう。

この文人*の事づかりてとゞけられしを、
三人*開き幾度も吟じて
 手をさしかざす峰のかげろふ    野水
<てをさしかざす みねのかげろう>。(脇)旅立つ雁に手をかざすように山越えの峰の陽炎が立っている。

橇の路もしどろに春の来て      荷兮
<かんじきの みちもしどろに はるのきて>。(第三)かんじきをはいてしか歩けないほど雪の深かった山道も、いまや春が来て雪が解けて泥んこ道となっている。

 ものしづかなるおこし米うり    越人
そのぬかるんだ道を物静かな「おこし」を売る行商人が通う。「おこし米」は、糯米(もちごめ)や粟(あわ)を蒸し、乾かしてから炒ったものを、水飴(みずあめ)と砂糖で板状に固めた菓子( 『大辞林』)。

門の石月待闇のやすらひに       水
<かどのいし つきまつやみの やすらいに>。おこし売りの商人は、夜も行商を続けているが、月の出るまでの間、門の前の石に腰かけて休んでいる。

 風の目利を初秋の雲         兮
<かぜのめききを はつあきのくも>。門の前の石に腰かけて風の様子を伺って天気を占い、秋の雲の動きを予想するのだ。

武士の鷹うつ山もほど近し       人
<もののふの たかうつやまも ほどちかし>。 この季節ともなると鷹の巣立ち。鷹狩の武将達はこの巣立ちの小鷹を捕まえるのだが、風の向きを読んで行う。そんな鷹を捕獲する山はここから近い。

 しをりについて瀧の鳴る音      水
<いおりについて たきのなるおと>。山道に付けてあった枝折に沿って歩いてきたら、滝の鳴る音が聞こえてきた。深山幽谷の雰囲気は鷹の棲む山の香りを伝える。枝折は、枝を折って道筋を案内する標識のこと。

袋より經とり出す草のうへ       兮
<ふくろより きょうとりいだす くさのうえ>。この山に入ってきた男は鷹子を捕る武士ではなくて、修行中の僧。滝の音のする草の上に座して経を読み始めたのである。

 づぶと降られて過るむら雨      人
<づぶとふられて すぎるむらさめ>。この僧侶、すぐ直前まで通り過ぎていく村雨にずぶ濡れになってしまったのである。草の上で濡れた衣服を乾かしているのである。

立かへり松明直ぎる道の端       水
<たちかえり たいまつねぎる みちのはた>。山道を下って村里に出た頃にはすっかり闇夜となってしまったので、松明を村人から値切って買った。

 千句いとなむ北山のてら       兮
<せんくいとなむ きたやまのてら>。京都北山の寺では今宵千句興行が開催されているのだが、それに参加する人々が松明をもって山道を上る。前句の松明を求めたのを武士から俳諧人に入れ替えた。

姥ざくら一重櫻も咲残り        人
<うばざくら ひとえざくらも さきのこり>。ここは標高が高いので、今日の街中では散ってしまった桜も咲き残り、姥桜や一重桜が今を限りと咲き誇っている。姥桜は、葉より早く花が咲く桜。山桜や八重桜は葉が出てから花が開くのに対照的。歯が無いのに花が咲くというので「姥」、葉の方が先に出るので出っ歯などと言葉遊びから出た命名。

 あてこともなき夕月夜かな      水

<あてこともなき ゆうづきよかな>。「あてこともない」は想定外のこと、の意。山の端に月が上った。思いもかけない美しい月だ。

露の身は泥のやうなる物思ひ      兮
<つゆのみは どろのようなる ものおもい>。 いやいや、はかない露のような失われた「あてこともなき」恋の道。苦しい想いだけが残る。前句の、想定外を失恋に替えてしまった。

 秋をなをなく盗人の妻        人
<あきをなおなくぬすっとのつま>。前句の「泥のやうなる」身を泥棒の妻の身に替えて、秋ともなれば己の身の上の不幸を思わずにはいられない。

明るやら西も東も鐘の声        水
<あくるやら にしもひがしも かねのこえ>。盗人の妻の身を思いまんじりともしない秋の長い一夜も開けるらしい。周りの寺々の鐘が身にしみる。夫はまだ盗人家業から帰っては来ない。

 さぶうなりたる利根の川舟      兮
<さぶうなりたる とねのかわぶね>。夜明けの利根川の岸辺に場所を変えて。晩秋の朝の船着場はすっかり寒くなってきた。

冬の日のてかてかとしてかき曇     人
<ふゆのひの てかてかとして かきくもり>。冬の日は、晴れて照っていたと思うと急に曇って、利根の川風が身に染む寒さとなってくる。

 豕子に行と羽織うち着て       水
<いのこにゆくとて はおりうちきて>。「豕子」は亥の子で、十月の亥の日に餅を搗く風習があった。今日はその祝いに羽織を来て川舟に乗って外出だ。

ぶらぶらときのふの市の塩いなだ    兮
<ぷらぷらと きのうのいちの しおいなだ>。手土産には昨日朝市で買ったいなだ(関東地方で出世魚ブリの若い時の呼び名の一つ)の塩漬けをぷらぷらと振りながら。

 狐つきとや人の見るらむ       人
<きつねつきとや ひとのみるらん>。ぷらぷらと塩いなだをぶら下げて街道を行く自分を見たら、人は狐つきとでも見るだろうか?

柏木の脚氣の比のつくづくと      水
<かしわぎの かっけのころに つくづくと>。「柏木」は源氏物語の主人公柏木。彼は光源氏の妻・女三宮と密通をする。それに悩みながら死んでいくのだが、脚気にも罹っていたという。

 さゝやくことのみな聞えつる     兮
 <ささやくことの みなきこえつる>。柏木が脚気の病で病床にいると、周囲のどんな小さな噂話でも聞こえてくる。健康な者よりも病人の方が周囲を気にするもの。

月の影より合にけり辻相撲       人
<つきのかげ よりあいにけり いじずもう>。聞かれたくないことが聞こえるといえば、辻相撲はご法度。今日も今日とて、明るい月に誘われて町内の若い者達が集まって、自然と辻相撲が始まった。こういうのは何時の間にか公儀に聞こえて叱られるものだ。

 秋になるより里の酒桶        水
<あきになるより さとのさけおけ>。相撲をとっているのは新酒の仕込みに町内の酒屋に集まった若い衆。屋敷の内には大きな酒樽が、中を掃除するのであろう、庭に引き出されてごろごろしている。

露しぐれ歩鵜に出る暮かけて      兮
<つゆしぐれ かちうにいずる くれかけて>。秋の夕暮れ、川では鵜舟を使わずに浅瀬を歩いて捕獲する鵜による鮎漁(これを歩鵜という)が始まる。夕暮れの露に濡れながら川べりを歩いていく鵜匠。

 うれしとしのぶ不破の萬作      人
<うれしとしのぶ ふわのまんさく>。「不破の万作」は、関白秀次のお小姓役。秀次の男色の相手であった。前句の鵜匠は、実は万作の恋人ではないか?

かしこまる諫に涙こぼすらし      水
<かしこまる いさめになみだ こぼすらし>。何を諌めたのか、万作が鵜匠に扮した主君を諌めたのであろう。主君はそれを聞きながら涙をこぼしている。

 火箸のはねて手のあつき也      兮
<ひばしのはねて てのあつきなり>。まるで火箸がはねて、手に火傷をしたような心持なのだろう。火傷は恋の火遊びの結果であろう。

かくすもの見せよと人の立かゝり    人
<かくすもの みせよとひとの たちかかり>。火遊びには秘密がつきものである。それを周囲の者は野次馬根性で見たがって、集まってくる。

 水せきとめて池のかへどり      水
<みずせきとめて いけのかえどり>。いま池替えをしようというので水を止めたので、深かった水の消えた池の中に大勢の人が入ってきた。前句の意味は、中の一人が何かをつかまえて、それを懐に隠したので 皆が寄ってたかって見せろと言っている、というのである。

花ざかり都もいまだ定らず       兮
<はなざかり みやこもいまだ さだまらず>。池替えをするように遷都をしたものの、桜が咲いてもまだ新しい都は完成しない。平清盛の福原遷都を思い出したか?

 捨て春ふる奉加帳なり        人
<すててはるふる ほうがちょうなり>。遷都につれて大きな寺院は帝と共に移っていった。跡には反故となった奉加帳が大量に捨てられていったのである。

墨ぞめは正月ごとにわすれつゝ     水
<すみぞめは しょうがつごとに わすれつつ>。前句の奉加帳を、自分の勧進ボランティアとしての転身ととって。ボランティア活動に入ろうと思いつつ、毎年正月に酒を呑んでいるうちに志が冷めてしまって未だに実行していない。

 大根きざみて干にいそがし      兮
<だいこんきざみて ほすにいそがし>。切干大根を刻んでいるうちに年月を過ごしてしまった。


                亀洞
遠浅や浪にしめさす蜊とり
<とおあさや なみにしめさす あさりとり>。春の海の潮干。遠浅の海では、人々は沖合い遥かまでアサリを拾いに出ている。その姿が波間に標識(標=しめ)を立てたように見えることだ。

 はるの舟間に酒のなき里      荷兮
<はるのふなまに さけのなきさと>。船着場が春の大潮シーズンで底が現れて使い物にならなくなった。舟の到着の間合いが大きくなって酒が入荷しなくなってしまった。舟間<ふなま>は、舟と舟の入港間隔のこと。ここは、船便に頼って生活している離れ小島か道の無い入り江の寒村なのであろう。

のどけしや早き泊に荷を解て     昌碧
<のどけしや はやきとまりに にをときて>。ここはまたのどかな土地。たまたま満潮の時刻に間に合って舟で着いたものの日の高いうちに宿に入ることになってしまった。旅の荷物でもゆっくりほどこうか。

 百足の懼る藥たきけり       野水
<むかでのおする くすりたきけり>。どうも部屋には百足が出そうだから、旅装の中にあった百足除けの薬を撒いておこうか。

夕月の雲の白さをうち詠       舟泉
<ゆうづきの くものしろさを うちながめ>。今夜は月夜。白い雲流れる空に早くも夕月がでてきた。旅に明け暮れてきた毎日が嘘のようにほっとした気分で流れていく雲を眺めている。

 夜寒の簔を裾に引きせ       釣雪
<よざむのみのを すそにひききせ>。この天気では、夜中には冷えるかもしれない。足元の蓑を引き寄せて寒さに備える。宿屋から貧しい苫屋になってきた。

荻の聲どこともしらぬ所ぞや     筆
<おぎのこえ どこともしらぬ ところぞや>。前句を、蓑を掛けて寝るところから野外と見て。晩秋の何処とも分からない土地に野宿をしている旅人は、沼地に生えた荻の葉ずれの音を聞きながら不安な一夜を過ごしている。

 一駄過して是も古綿        亀洞
<いちだすぐして これもふるわた>。荻の野を行く馬の運ぶ荷物、さっき通り過ぎて行った馬の一駄は古綿だったが、今通るのもまた古綿だ。一体どうして?

道の邊に立暮したる宜禰が麻     荷兮
<みちのべに たちくらしたる きねがあさ>。「宜禰 」は祢宜に同じ。神官のこと。一日中街道に立って布教活動をしていたが、何しろ古綿を運ぶ馬が来るだけで誰も立ち止まって聞いてはくれない。「麻」は麻で作った幣<ぬさ=御幣>のこと。

 楽する比とおもふ年栄       昌碧
<らくするころと おもうとしばえ>。この祢宜(=神主)は、相当のご高齢で、普通ならもう楽隠居の身分だろうに、どうしてまたこんな埃だらけの街道で布教活動などしているのだろう?

いくつともなくてめつたに藏造    釣雪
<いくつとも なくてめったに くらづくり>。この老人は、年齢など気にせずに、滅多なことでは働くことを止めずに今日まで頑張ってきた。その結果が、蔵造りのいらかを誇る金持ちになってしまった。前句の老祢宜を、資本家に変えてしまった。

 湯殿まいりのもめむたつ也     舟泉
<ゆうどのまいりの もめんたつなり>。「湯殿まいり」は山形の湯殿山信仰を指し、「もめむたつ」は木綿の生地を裁って白装束の参詣装束を作ることであろう。この金持ち老人は、貯まった金を湯殿山参りに使おうというのであろうか。

涼しやと莚もてくる川の端      野水
<すずしやと むしろもてくる かわのはた>。前句の「湯殿」を夏の風呂と取って、風呂上りに夕涼みに筵を持って川べりに来て涼んでいる。

 たらかされしや彳る月       荷兮
<たらかされしや たたずめるつき>。「たらかされる」は騙されること。川端でたたずんでいる男の肩には月光がさんさんと降り注いでいる。待てどくらせど女は来ない。どうやら騙されたのでは?前句の夕涼みの男は、女との逢引を企んでいたとする。

秋風に女車の髭おとこ        亀洞
<あきかぜに おんあぐるまの ひげおとこ>。秋風の中、一台の女用の牛車がやって来た。御簾を開ければなんと中にはひげ面の男がにたにた笑いながら乗っていた。男は謀られたのであろう。

 袖ぞ露けき嵯峨の法輪       釣雪
<そでぞつゆけき さがのほうりん>。ここは「十三参り」で有名な京都嵯峨野の法輪寺。秋の露をしげく置く境内に牛車は入っていく。

時々にものさへくはぬ花の春     昌碧
<ときどきに ものさえくわぬ はなのはる>。法輪寺の「十三参り」とは、4月13日(旧暦の3月13日)に、数えで13歳の子どもたちが、厄をはらい知恵を授かるように虚空蔵菩薩にお参りする行事。お参りをすませ、桂川にかかる渡月橋を渡り切る前に振り返ると、せっかく授かった福や知恵が失われてしまうという言い伝えがある。(「セコムの食通信」参照)13歳という年頃は恋を知り初める年頃。恋に身を焦がして、食欲を失うことがある。髭面の男の入っていった法輪寺から一転して十三参りに転じた。

 八重山吹ははたちなるべし     野水
<やえやまぶきは はたちなるべし>。13歳の少女が実のならない山吹の花なら、八重咲きの山吹は二十歳の成熟した女に相当するのではないか?

日のいでやけふは何せん暖に     舟泉
<ひのいでや きょうはなにせん あたたかに>。今日は朝からいい天気。一日何をして過ごそうか。二十歳の青年の退屈な春の一日。

 心やすげに土もらふなり      亀洞
<こころやすげに つちもらうなり>。この暖かい初夏の一日を田の畦の構築作業に使う。そのために、土壁になるような良い土を貰いに行くことにした。

向まで突やるほどの小ぶねにて    荷兮
<むこうまで つきやるほどの こぶねにて>。土を向こう岸で小舟に積んでもらって、それを押してもらうとこちらの岸に着くという、簡単な作業。

 垢離かく人の着ものの番      昌碧
<こりかくひとの きもののばん>。前句を、小舟にのって水垢離をする人の脱いだ着物の晩をする寺か神社の雑役夫とする。

配所にて干魚の加減覚えつゝ     釣雪
<はいしょにて ひうおのかげん おぼえつつ>。いま水垢離をしている人は、許されて赦免となって帰国するのであろう。ここ配所にて、魚の干物を作る技を習得した。これは離れ小島で生きる術だったのだが。

 哥うたふたる聲のほそぼそ     舟泉
<うたうとうなる こえのほそぼそ>。干魚を作りながら歌謡などを歌う。か細いような小さな声ではあるが。この配所の男は、よほど高貴な男であるらしい。

むく起に物いひつけて亦睡り     野水
<むくおきに ものいいつけて またねむり>。前句の歌を唄っていたのは雑役の雇われ男。主人はというと、むっくと起きてものを言いつけたと思ったらまた布団かぶって寝てしまった。

 門を過行茄子よびこむ       荷兮
<もんをすぎゆく なすびよびこむ>。前句で主人に言われたのは茄子を買っておくことだったので、折からやって来た八百屋を呼び込んでナスを買うことにした。

いりこみて足軽町の藪深し      亀洞
<いりこみて あしがるちょうの やぶふかし>。この小間使いの足軽の住む街は入り組んだところにあって、周りは藪だらけ。

 おもひ逢たりどれも高田派     釣雪
<おもいあいたり どれもたかだは>。「高田派」は浄土真宗高田派のこと。この街の住人はお互いに思いやりの深い人たち。

盃もわするばかりの下戸の月     昌碧
<さかづきも わするばかりの げこのつき>。この街の住人が集まって月見の宴を張っているのだが、誰も彼も下戸ばかりだから、月を愛でてばかりいて杯はちっとも回らない。

 やゝはつ秋のやみあがりなる    野水
<ややはつあきの やみあがりなる>。前句の下戸は、病気上がりのためと解して。夏中病んでいていまようやく秋の冷気の中で回復してきたばかり。だから未だ酒を頂くには至らない。

つばくらもおほかた帰る寮の窓    舟泉
<つばくらも おおかたかえる りょうのまど>。「寮」は寺院の修行僧の住む建物。ここの窓辺に巣食った燕達もそろそろ南の海に帰る時節。

水しほはゆき安房の小湊       亀洞
<みずしおはゆき あわのこみなと>。「しほはゆき」は塩辛いこと。寮のある場所は「小湊」で、ここは房総の日蓮宗誕生寺。海辺に近いので飲む水も塩辛いのである。

夏の日や見る間に泥の照付て     荷兮
<なつのひや みるまにどろの てりつけて>。ここの夏の太陽は非常に強い。だから泥もすぐに乾いて白くなる。

 桶のかづらを入しまひけり     昌碧
<おけのかづらを いれしまいけり>。「おけのかづら」は桶の「たが」のこと。からからに乾燥した桶はたががすぐはずれてしまう。だからこれを直してすぐに小屋にしまっておく。

人なみに脇差さして花に行      釣雪
<ひとなみに わきざしさして はなにゆく>。農作業を終えたらば人並みに脇差を差して花札賭博に行く。任侠に変化。

 ついたつくりに落る精進      野水
<ついたつくりに おちるしょうじん>。あれほど真面目に田作りに働いてきたのに、その精進の成果も落ちて、賭博はつきに見放されている。悪銭身につかず。


                 舟泉
美しき鰌うきけり春の水
<うつくしき どじょううきけり はるのみず>。春になってせせらぎの水かさも増してドジョウの棲む場所でも水が澄んでくる。だから、ドジョウがチョロチョロと水面に空気を吸いに来るときでも泥で濁ることが無い。春の躍動感を写す。

 のうらのかまきりの卵      松芳
<やなぎのうらの かまきりのかい>。その川べりの柳の小枝には、肌色をしたカマキリの生みつけていった卵が着いている。これがやがて溶解して中からカマキリの子供が現れる。

夕霞染物とりてかへるらん      冬文
<ゆうがすみ そめものとりて かえるらん>。春の着物のための染物を紺屋に注文しておいたのが出来上がったのであろう。それを持って家路を急ぐ人がいる。家族の中の若い娘達のわき立つ喜びが目に浮かぶ。

 けぶたきやうに見ゆる月影     荷兮
<けぶたきように みゆるつきかげ>。東の空に上ってきた朧月は、夕もやに煙ったように見える。

秋草のとでもなき程咲みだれ     松芳
<あきくさの とでもなきほど さきみだれ>。前句でけむたいのは春の夕霞ではなくて、野の草花がとんでもないほどに咲き乱れていて、月もはばかるほどの美しさにけむたがっているのである。

 ひきたくる勝相撲とて      舟泉
<ゆみひきたくる かちずもうとて>。秋草の咲き競う野原には、急ごしらえの土俵があって、秋祭りの恒例の奉納相撲大会の真っ最中。勝ち相撲に授けられる弓を勝者はふんだくるように受け取っている。勝者の興奮が伝わってくる付け。

けふも亦もの拾はむとたち出る    荷兮
<きょうもまた ものほろわんと たちいづる>。前句の勝ち相撲の男、実はなんでも金目のものなら拾ってくるという強欲男。今日も今日とて何か拾うものは無いかと思って家を出てきたらこの奉納相撲に出っくわして、勝手次第というわけで参加して勝ったのである。

 たまたま砂の中の木のはし     冬文
<たまたますなの なかのきのはし>。今日もまた何か拾おうと思ってやってきたら、砂の中に埋もれた流木の木端が見つかったのでそれを拾ってきた。

火鼠の皮の衣を尋きて        舟泉
<ひねずみの かわのころもを たずねきて>。前句で流木の木っ端など引っ張り出すためにやってきたのではなくて、「火鼠の皮」を探しにやってきたのだが、全く見つからない。最早絶望的だ。「火鼠<かそ>」は中国の想像上の動物。南海の火山の火中にすむ白鼠で、その毛皮は火に入れても焼けることがないという。かそ。( 『大辞林』)

 涙見せじとうち笑ひつゝ      松芳
<なみだみせじと うちわらいつつ>。ちっとも見つからない火鼠。顔で笑って心で無くしかない。

高みより踏はづしてぞ落にける    冬文
<たかみより ふみはずしてぞ おちにける>。踏み台から落っこちてしたたか脛をぶっつけた男。前句で顔で笑って心で泣いたのは、この痛みに耐えかねた話なのだ。

 酒の半に膳もちてたつ       荷兮
<さけのなかばに ぜんみちてたつ>。あの馬鹿男、酒宴の途中で自分のお膳だけ持って二階に行って食べようとして、途中の階段から転げ落ちたのだ。その時に向こう脛をしたたかに打ったのだ。

幾年を順礼もせず口おしき      松芳
<いくねんを じゅんれいもせず くちおしき>。もう長いこと諸国順礼に出ていない。だから、仲間の集まりでも劣等感にさいなまれて、早々に退出してきた。

 よまで双帋の繪を先にみる     舟泉
<よまでそうしの えをさきにみる>。何年も順礼に出ていないので、絵草子をもらったが、文章は読まずにまっ先に挿し絵をみる。なんと楽しいことか。早く旅に出たい。

なに事もうちしめりたる花の貌    荷兮
<なにごとも うちしめりたる はなのかお>。 前句の「双紙」をめくっているのは、しっとりとした美女。物憂げに双紙をめくっているが、熱心に読んでいる風は無い。

 月のおぼろや飛鳥井の君      冬文
<つきのおぼろや あすかいのきみ>。この女性は、他ならぬ「狭衣物語」に出てくる飛鳥井の姫君。

灯に手をおほひつゝ春の風      舟泉
<ともしびに てをおおいつつ はるのかぜ>。春の宵、一陣の風に消えそうになる灯りを手でさえぎる姫君の姿が大きな影となって見える。

 數珠くりかけて脇息のうへ     松芳
<じゅずくりかけて きょうそくのうえ>。姫君は、その前、数珠を手にして、それを読経と共に繰り始めていたのだが、やがてその手を脇息の上に置いてじっと物思いにふけっている。

隆辰も入歯に聲のしはがるゝ     冬文
<りゅうたつも いればにこえの しわがるる>。脇息に手をついて読経を休んでいるのは、年老いた隆辰で、入れ歯のために声がしわがれて聞こえる。飛鳥井の姫君から隆辰に取り替えてしまった。「隆辰」は隆達(1527〜1611)で、堺の日蓮宗僧侶だが、当時流行していた小唄に作曲をして隆達節を完成させたという。老いさらばえた隆達を引っ張り出したのである。

 十日のきくのおしき事也      荷兮
<とうかのきくの おしきことなり>。「十日の菊」は、重陽の節句の翌日の菊で時期はずれを意味する。隆達といえども、もはや年老いて「十日の菊」となりはえたのである。

山里の秋めづらしと生鰯       松芳
<やまざとの あきめずらしと なまいわし>。山里ではめったに口にできない生鰯を売りに来た。十日の菊と言われようと、隆達は鄙の里では生鰯だよ。

 長持かふてかへるやゝさむ     舟泉
<ながもちこうて かえるややさむ>。山里では珍しい生鰯をついでに買ったのだが、実は今日はこの秋嫁に行く娘の長持を買いに町場に出て来たのだ。さみしさと肌寒さを感じながら家路を急ぐ。

ざぶざぶとながれを渡る月の影    荷兮
<ざぶざぶと ながれをわたる つきのかげ>。橋が無いので川の中を渡って帰っていく。川面には月影が映って一緒に川を渡っていく。長持は馬の背中にある。

 馬のとをれば馬のいなゝく     冬文
<うまのとおれば うまのいななく>。長持ちを載せた馬を引いて行くと、道々の集落に飼われている馬が一行に反応していななく。

さびしさは垂井の宿の冬の雨     舟泉
<さびしさは たるいのしゅくの ふゆのあめ>。冬の雨の日の中山道垂井宿の昼下がり。馬の足音以外には何も見えない。そのさみしさと言ったら無い。「垂井」は岐阜県不破郡垂井町、赤坂と関が原の間の宿場町。

 ふまへて蕎麥あふつみゆ     松芳
<むしろふまえて そばあふつみゆ>。「あふつ」は煽ることで「蕎麦あふつ」は蕎麦の脱穀時に蕎麦の実とそば茎などを分別する作業のことらしい。垂井の宿の民家で冬の雨の日に土間でそんな作業をやっているのであろう。

つくづくと錦着る身のうとましく   冬文
<つくづくと にしききるみの うとましく>。こんな貧しい生活をしている庶民にとって、錦着る身の武士などが参勤交代で通るのを見ると実にうとましくなる。

 暁ふかく提婆品よむ        荷兮
<あかつきふかく だいばぼんよむ>。そんなうとましさを感じたおのれのいたらなさにたまらず、夜明けに提婆品を読む。提婆品は法華経のお経。

けしの花とりなをす間に散にけり   松芳
<けしのはな とりなおすまに ちりにけり>。仏像の前にある花生けにさしてあったケシの花が元気がなくなっていたので水を替えようと思って触れた瞬間に花びらが散ってしまった。お経を終えてからの行動であろうか。

 味噌するをとの隣さはがし     舟泉
<みそするおとの となりさわがし>。ここは三軒長屋、隣の家族も起きてきて朝の味噌汁の味噌すりを始めたらしい。その音がうるさい。

黄昏の門さまたげに薪分       荷兮
<たそがれの かどさまたげに たきぎわけ>。その隣家では、夕暮れに入口で薪の束ねなどをやるので通行の邪魔になる。迷惑な家族だ。

 次第次第にあたゝかになる     冬文
<しだいしだいに あたたかになる>。家の外でそんな作業ができるというのも、もう季節は春になって一日一日と暖かくなってきたからである。

春の朝赤貝はきてありく兒      舟泉
<はるのあさ あかがいはきて ありくちご>。この間まで寒いから家の中にばかりいた幼児が、暖かさに誘われて表に出てきて、赤貝を履いて表を歩いている。赤貝に紐を通して、それを手に持って履物のようにして歩く遊び。

 顔見にもどる花の旅だち      松芳
<かおみにもどる はなのたびだち>。父親は、この季節に行商の旅に出る。一度は出かけたのだが、この子の顔をもう一度見たくなって戻ってきた。別離の愛惜。

きさらぎや曝をかひに夜をこめて   冬文
<きさらぎや さらしをかいに よをこめて>。この男は、二月になると毎年、曝しの布を仕入れに夜をてっして出かけるのである。

 そら面白き山口の家        荷兮
<そらおもしろき やまぐちのいえ>。空が白んできた頃、山のふもとの家に着いた。峠に上る前に、ここで一休みか?


                 荷兮
ほとゝぎす待ぬ心の折もあり
<ほととぎす またぬこころの おりもあり>。ホトトギスと言えば、皆が首を長くして待っていると言われている。たしかに多くの人はホトトギスの渡るのを今か今かと待っている。しかし、この私は全くそんなことは無いから、来るなら来い、来たくなければ来なくたってちっとも困らない。やせ我慢の句。

 雨のわか葉にたてる戸の口     野水
<あめのわかばに たてるとのくち>。外は新緑の雨が降っている。私は、悲しみに戸口を閉じているのだから、ほとぎすよ啼かずに渡っておくれ。藤原俊成の歌「昔思ふ草の庵の夜の雨に涙なそへそ山ほととぎす」(「新古今」夏)を引用。

引捨し車は琵琶のかたぎにて     同
<ひきすてし くるまはびわの かたぎにて>。この雨の中に乗り捨ててある牛車の車輪はびわの木を使ったもので、実に堅い。ただ少し不恰好なのかもしれない。

 あらさがなくも人のからかひ    荷兮
<あらさがなくも ひとのからかい>。その不恰好さを、万事あらさがしの好きな口の悪い人々が笑う。

月の秋旅のしたさに出る也      同
<つきのあき たびのしたさに いずるなり>。そんな嘲笑の中を、あまりに秋の月がきれいなので、これから旅に出る。

 一荷になひし露のきくらげ     野水
<いっかにないし つゆのきくらげ>。秋の夜露をあびたキクラゲを背負ってこれから行商の旅に出る。前句の風流人の旅を百姓の行商に取り替えてしまった。

初あらしはつせの寮の坊主共      水
<はつあらし はつせのりょうの ぼうずども>。前句のキクラゲを担いでいるのは百姓ではなく、奈良初瀬山の麓の長谷寺の学生寮の坊主達で、精進料理の食材であるキクラゲを調達しているとすりかえた。木枯らしを呼ぶ晩秋の山風が吹いてきた。長谷寮の学僧たちが、冬籠りの食糧の収集に忙しい。

 菜畑ふむなとよばりかけたり     兮
<なばたけふむなと よばりかけたり>。僧侶達が、小さく伸び始めた菜を踏みつけて歩いていくので、農家の庭先から百姓が怒って大声を出している。

土肥を夕夕にかきよせて        仝
<つちごえを ゆうべゆうべに かきよせて>。なにしろこの菜畑は、彼が丹精込めて夕な夕なに堆肥をかけ、土寄せをして管理してきたのだから。それを踏みつけられてはたまらない。

 印判おとす袖ぞ物うき        水
<いんぱんおとす そでぞものうき>。その土寄せ作業の折にでも、判子を畑に落としたのかもしれない。何度探しても見つからない。あれが無いと困ることが沢山ある。

通路のついはりこけて逃かへり     仝
<かよいじの ついはりこけて にげかえり>。「ついはり」は障害物。「通路」は恋の道への通路であろう。夜忍んで行って障害物に頭をぶっつけて、大きな音がしたのであわてて逃げたときに、前句の印判を落っことしたらしい。

 六位にありし戀のうはきさ      兮
<ろくいにありし こいのうわきさ>。そんなことがあったのは、未だ駆け出しの若い六位の時分だったなぁ。前句の秘密は、忍ぶ恋の昔を回顧しての話。

代まいりたヾやすやすと請おひて    仝
<だいまいり ただやすやすと うけおいて>。その頃は若気の至りで、損得の勘定もなく人に頼まれればあちらの神社、こちらの寺院と代参をしてあげたものだ。他人の恋の成就の代参などもあったのであろう。

 銭一貫に鰹一節           水
<ぜにいっかんに かつおひとふし>。代参の謝礼がなんと銭一貫にカツオ節1本というのだから、なんと安い謝礼だったこと。

月の朝鶯つけにいそぐらむ       仝
<つきのあさ うぐいすつけに いそぐらん>。「鶯つけ」は、鶯の声付けで、鳴き声の学習。未だ有明の月が残る中、鶯を連れて鳴き声を学習に行く。その塾の講師料が銭一貫目と鰹節1本。

 花咲けりと心まめなり        兮
<はなさけりと こころまめなり>。この鶯を連れて行く人は、心のまめな人で、花を愛するやさしい人。

天仙蓼に冷食あまし春の暮       仝
<またたびに ひやめしあまし はるのくれ>。マタタビは通常は木天蓼と書く。「猫にママタビ、女郎に小判」と言うほど猫の欲しがるものという。マタタビは、旅人が疲れてもマタタビを食べると、また元気になって旅ができるからという説があるが怪しい。しかし、ここでは冷や飯にマタタビの汁を絞ってかけて食しているようだ。心まめな男の朝の食事風景。

 かけがねかけよ看經の中       水
<かけがねかけよ かんきんのうち>。看経<かんきん>は、禅宗などで無声で経を読むこと。声を出して読むことは読経である。食事の後は、もう一度看経の時間。門の鍵をかけて精神を集中する。

たヾ人となりて着物うちはをり     仝
<ただひとと なりてきるもの うちはおり>。この看経の男、以前を辿れば高貴な身分。今は読経三昧の世捨て人。薄手の着物をはおっただけの簡素な身なりでお勤めに専念している。

 夕せはしき酒ついでやる       兮
<ゆうべせわしき さけついでやる>。それでも夕餉の時には晩酌もするので、せわしい時でもお酒を注いでやる。

駒のやど昨日は信濃けふは甲斐     水
<こまのやど きのうはしなの きょうはかい>。前句は、旅の宿でのこと。夕方は特に忙しい時間だが、客には酒を注ぐサービスをしているのである。そんな駒に乗った旅人は昨日は信濃、今日はこうして甲斐の国にいる。

 秋のあらしに昔浄瑠璃        兮
<あきのあらしに むかしじょうるり>。旅の宿で秋の嵐=台風がやって来た。客がみんな足止めをくらったので、宿の主人は客を慰めようと田舎浄瑠璃を催してくれた。

めでたくもよばれにけらし生身魄   水
<めでたくも よばれにけらし いきみたま>。「生身魄<いきみたま>」とは、長生きをしている高齢者を慰める敬老宗教行事。招待されて浄瑠璃を見せてもらった。実にめでたくありがたい。

 八日の月のすきといるまで      兮
<ようかのつきの すきといるまで>。「すきと」はすっきり、「いる」は入るで、八日の月が山入端にすっかり入ること。そんな時刻まで浄瑠璃生身魄を祝ってもらった。

山の端に松と樅とのかすかなる     水
<やまのはに まつともみとの かすかなる>。月が沈んでいった山入端を見ると、そこは松やモミの樹林がぼーっと霞んで見える。

 きつきたばこにくらくらとする    兮
<きつきたばこに くらくらとする>。ボーっと霞んで見えると言えば、まるできついタバコを呑んで頭がくらくらするような按配だ。

暑き日や腹かけばかり引結び      仝
<あつくひや はらかけばかり ひきむすび>。くらくらするのはタバコばかりではない。この猛暑もまた頭がくらくらする。暑さの中で腹かけだけ結んであとは裸だ。

 太鼓たゝきに階子のぼるか      水
<たいこたたきに はしごのぼるか>。腹かけ姿の勇ましいなりは、祭の太鼓の練習のため。これから二階に上がって早速練習だ。

ころころと寐たる木賃の艸枕      兮
<ころころと ねたるきちんの くさまくら>。ごろごろと木賃宿で寝転がっていては体にも精神にも毒だ。だから、前句では太鼓を叩きに二階に上ったのである。

 氣だてのよきと聟にほしがる     水
<きだてのよきと むこにほしがる>。そんな積極性が気立てがよいとして、婿に欲しがる人がいる。

忍ぶともしらぬ顔にて一二年      仝
<しのぶと しらぬぁおにて いちにねん>。この男を娘の婿にしたいと思って家人はいるが、当人同士は一二年前からできていて、人目を忍ぶ仲。しかし、知らん顔してしらばっくれている。何という娘だ。

 庇をつけて住居かはりぬ       兮
<ひさしをつけて すまいかわりぬ>。いよいよ婿取りだというので、家を改造して庇を増設したりしたから、大分住まいも変化した。

三方の數むつかしと火にくぶる     仝
<さんぼうの かずむつかしと ひにくぶる>。「三方」は、檜の白木で作った折敷<おしき>を、三方に刳<く>り形のついた台につけたもの。神饌<しんせん>を載せたり儀式用の台とする( 『大辞林』より) 。三方の数が縁起の悪い数なので一つを焼却廃棄した。  

 供奉の艸鞋を谷へはきこみ      水
<ぐぶのわらじを たにへはきこみ>。前句を、貴人の神社参詣とする。参拝の後、三方と一緒に、供奉の家人ら一行の草鞋をも谷底に捨てた。

段々や小塩大原嵯峨の花        仝
<だんだんや おしおおおはら さがのはな>。小塩・大原・嵯峨は京都の桜の名所。供奉の人々というのは、貴人の桜見物のお供らである。

 人おひに行はるの川岸        筆
<ひとおいにゆく はるのかわぎし>。そんな花見客を相手に川渡しの背負いの仕事がある。


月さしのぼる気色は、昼の暑さもなくな
るおもしろさに、柄をさしたらばよき團
と、宗鑑法師の句をずむじ出すに、夏の
夜の疵といふ、なを其跡もやまずつヾき

月に柄をさしたらばよき團哉
<つきにえを さしたらばよき うちわかな>。真まるの月に柄をつければ、団扇になる。夏の夜の涼しさはこれで保証されるのだが、夏の夜の唯一の欠点は蚊の居ることだ。

 蚊のおるばかり夏の夜の疵     越人
<かのおるばかり なつのよのきず>。こんなロマンティックな気分にさせてくれる夏の月だが、蚊が出てきて刺すのばかりは玉に瑕だ。

とつくりを誰が置かへてころぶらん  傘下
<とっくりを たれがおきかえて ころぶらん>。蚊ばかりではない。夏の月を見ようとお酒を持参した人が、縁台に徳利など置くものだからこれにつまずいて転んでしまったよ。

 おもひがけなきかぜふきのそら    同
<おもいがけなき かぜふきのそら>。立ち上がった瞬間に突風が吹いて、吹き飛ばされるように足元がふらついて徳利をけとばしたのさ。

眞木柱つかへおさへてよりかゝり    人
<まきばしら つかえおさえて よりかかり>。眞木柱は、神社社殿の中心的な柱。強風に煽られて左右に揺れる眞木柱に支えられ寄りかかってかろうじて嵐をやり過ごす。

 使の者に返事またする        同
<つかいのものに へんじまたする>。前句は、病的な不調による急激なめまい。だから、手紙を持ってきた使いの者を待たせて、返書を認めているところだ。

あれこれと猫の子を選るさまざまに   筆
<あれこれと ねこのこをよる さまざまに>。使いの者というのは、実は猫の子を貰いに来た人のこと。彼は、あれが良いだのこれが好いだのと選り好みを言っている。様々に。

 としたくるまであほう也けり     下
<としたくるまで あほうなりけり>。この男、年ばかりとって、相も変わらず馬鹿なやつで、たかが猫の子一匹貰うのにあれだこれだと考えがまとまらない。

どこでやら手の筋見せて物思ひ     同
<どこでやら てのすじみせて ものおもい>。何処とかで手相を見てもらったら、これこれの婦人が現れるであろうと託宣が出た。それを真に受けて未だに嫁とりのできないほどの馬鹿なやつなのだ。

 まみおもたげに泣はらすかほ     人
<まみおもたげに なきはらすかお>。待ち人はもういないと手相に出たと告げられて、少女は涙にくれる。その悲しい顔。

大勢の人に法華をこなされて      同
<おおぜいの ひとにほっけを こなされて>。この泣いている人というのは、日蓮宗か法華宗か、とにかく法華経の信者。その法華経をあしざまに言われて悔し泣きをしているのである。

 月の夕に釣瓶縄うつ         下
<つきのゆうべに つるべなわうつ>。悔しい思いをこらえながら、本業であるつるべ縄を編む仕事に精を出す月明かりの降る夜のこと。

喰ふ柿も又くふかきも皆澁し      同
<くうかきも またくうかきも みなしぶし>。夜なべ仕事の合間に食べようと持参した柿の実。どれを食べてもみんな渋柿ばかり。何ともついていない。

 秋のけしきの畑みる客        人
<あきのけしきの はたけみるきゃく>。こんな渋柿しかないのかいと言って、これを出された客は不満そうに秋の実りの畑を恨めしそうに眺めている。

わがまゝにいつか此世を背くべき    同
<わがままに いつかこのよを そむくべき>。秋の閑な景色を見るにつけても、何時の日か、自分の心のままに俗世間から遁世したいものだとしみじみと思う。

 寐ながら書か文字のゆがむ戸     下
<ねながらかくか もじのゆがむと>。この男、世の中に背を向けて生きているので、万事が不精。表戸に貼り付けてある表札なども寝床で寝ながら書いたかと思えるようなゆがんだ文字になっている。

花の賀にこらへかねたる涙落つ     同
<はなのがに こらえかねたる なみだおつ>。「花の賀」は白寿だの古希だの還暦だのという長寿の祝い。前句のゆがんだ文字を書いたのはこの花の賀を祝われる老人。手も不自由なほどに老いさらばえているが、長寿を祝われて感涙に咽せんでいるのである。

 着ものゝ糊のこはき春風       人
<きものののりの こわきはるかぜ>。祝宴に臨んで着せてもらった着物は、少し糊が効き過ぎていて、春風に裾が揺れる度にちくちくと痛む。しかし、今日はそれも晴れがましさだ。

うち群て浦の苫屋の塩干見よ      同
<うちむれて うらのとまやの しおひみよ>。春風の吹く海辺にみんなで出ていって、浦の苫屋の春を楽しもうではないか。いま、海は大潮の季節。

 内へはいりてなほほゆる犬      下
<うちははいりて なおほゆるいぬ>。みんなで潮干を見ていると、浦の苫屋の犬が、遠来の客に驚いてさかんに吠える。土間の中に引き入れられてもまだ吠えている。よほど気に食わぬようだ。

酔ざめの水の飲たき比なれや      同
<よいざめの みずののみたき ころなれや>。前句で家に入ったのは、この家の主人で酔って帰宅したもの。主人が家に入ってもまだ飼い犬は外で吠えている。その声に目が覚めたが、それは酔い覚めの水を飲みたかったかららしい。

 たヾしづかなる雨の降出し      人
<ただしずかなる あめのふりだし>。酔い覚めの水を飲みたくて起きてみると、外では春雨が降りだしたらしい。音も無く雨の湿った香りが鼻をつく。

歌あはせ獨鈷鎌首まいらるゝ      同
<うたあわせ とくこかむくび まいらるる>。「独鈷」密教で用いる仏具の一。種々の金属・象牙などを主材料とし、中央に握り部分があり、両端がとがっている杵形(きねがた)の仏具。とこ。独鈷杵(とつこしよ)。( 『大辞林』)。「鎌首」は蛇が頭を持ち上げたときの鎌に似た曲線的な首の形。雨の日に、連歌の会を開催したら、独鈷や鎌首のような歌人が集まってきた。恐らく閑な暮らしをしている僧侶らなのであろう。

 また献立のみなちがひけり      下
<またこんだての みなちがいけり>。集まっている人々の宗派はみな違っているものだから、献立などもみな違ったことを言うので主はてんてこ舞いをしている。

灯臺の油こぼして押かくし       同
<とうだいの あぶらこぼして おしかくし>。前句の献立は、家の料理人として採用した男の仕事ップリの悪さで、注文した献立どおりに出てきたためしがないのである。その彼に、灯台の油を補給しておくように命じておいたが、油をすっかりこぼしてしまったのに押し隠して黙っていた。

 臼をおこせばきりぎりす飛      人
<うすをおこせば きりぎりすとび>。灯油をこぼした上に臼を起こして持っていこうと動かすと、臼の下にはコオロギがごろごろ。もう秋だ。

ふく風にゑのころぐさのふらふらと   同
<ふくかぜに えのころぐさの ふらふらと>。「ゑのころぐさ<狗尾草>」は、イネ科の一年草。路傍に普通に見られる雑草。高さ 30〜50cm。茎は叢生(そうせい)し、基部で分枝する。夏、茎頂に緑色の円柱状で芒(のぎ)の多い、子犬の尾に似た花穂をつける。ネコジャラシ(『大辞林』)今はもう秋。エノコログサが秋風にたなびいている。

 半はこはす筑やまの秋        下
<なかばはこわす つきやまのあき>。築山を作り変えようと一部分を壊して工事中。そこでもエノコログサがふらふらと揺れている。

むつむつと月みる顔の親に似て     同
<むつむつと つきみるかおの おやににて>。前句の築山は再建ではなく破壊と取って。壊している男の顔つきときたらむっとした顔で、先代同様に親しめない顔。いま、秋の月をその男が見ている。何を思っているのであろうか?

 人の請にはたつこともなし      人
<ひとのこいには たつこともなし>。この男、他人から請われたことに応えたことなど全く無いという。

にぎはしく(瓜)や苴やを荷ひ込    下
<にぎわしく うりやあざやを にないこみ>。「苴<かいしき>」は器に盛る食べ物の下に敷く木の葉。多く、ナンテン・カシワ・ユズリハなど常緑樹の葉を用いた。のちには紙も用いた (『大辞林』)。前句の男は、儲け一点張りの商人で、勢力的に瓜だの苴だのを商っていた。そういう男だから、人の請いに応えるなどもっての外。

 干せる疊のころぶ町中        人
<ほせるたたみの ころぶまちなか>。前句の様子は、商業が活発な町の様子で、商品がさかんに運び込まれるので民家で干している畳などは馬や天秤棒が当たって倒される始末。

おろおろと小諸の宿の昼時分      下
<おろおろと こもろのしゅくの ひるじぶん>。干した畳が風で倒れるような信州小諸の町を旅人がおろおろと歩いていく。時刻は正午ごろ。

 皆同音に申念佛           人
<みなどうおんに もうすねんぶつ>。旅人とは団体の一行で、信濃の善光寺に参る信徒。読むお経も実によく声を合わせて。

百万もくるひ所よ花の春        下
<ひゃくまんも くるいどころよ はなのはる>。「百万」は、能の一。四番目物。現行曲は世阿弥の改作。奈良の女曲舞師(くせまいし)百万が、我が子の行方知れずに狂乱し、嵯峨(さが)の釈迦堂の大念仏に紛れ入り、僧に伴われた我が子にめぐり会うという話 (『大辞林』より)。この能は春三月に行われる。前句の念仏は、「百万」の大念仏。

 田楽きれてさくら淋しき       人
<でんがくきれて さくらさびしき>。「田楽」は、豆腐田楽のこと。能の興行が終わったら、田楽も無くなった。桜も散ってしまって、淋しくなった。


深川の夜                 越人
雁がねもしづかに聞ばからびずや
<かりがねも しずかにきかば からびずや>。「からびずや」は「からびたる」「枯らびたる」の反意語。越人は、芭蕉の『更科紀行』に随伴してついに江戸まで行ってしまった。この折、芭蕉庵の夜半に聞いた雁の渡る声を、枯れた声としたのである。これには、源氏物語夕顔の巻で八月十五夜の明け方京都五条の宿で光源氏が聞いた雁の声が伏線としてあって、更にこの後で不幸の予兆として光源氏が聞いたふくろうの声が「枯れた」感じで耳に残ったのだが、越人はふくろうなど出さなくても、 ここ深川で聴いた「雁」だって十分に「枯れた」声を出してるぞと言ったので俳諧となったのである。

 酒しゐならふこの比の月      芭蕉
<さけしいならう このごろのつき>。お客にお酒を強いる(すすめる)ことの多い近頃の月の晩は殊の外に雁の声も枯れた声に聞こえる。越人は酒豪で、深川に居候をしながらも毎晩酒を呑んだであろう。それは、雁の渡りのロマンティックな情景とは大いに異なるのだが。

藤ばかま誰窮屈にめでつらん     仝
<ふじばかま たれきゅうくつに めでつらん>。雁の声を、秋の夜のロマンとしたように、だれが秋の七草フジバカマに袴を着せるようなかたぐるしい愛で方をしたのでようね?

 理をはなれたる秋の夕ぐれ     越人
<りをはなれたる あきのゆうぐれ>。秋の夕暮れは、理ではなくて、情の世界でありたいものですね。酒をじっくり呑んで楽しむような。

瓢箪の大きさ五石ばかり也      仝
<ひょうたんの おおきさごこく ばかりなり>。理を離れるのはいいが、瓢箪の話をするに5石以上も入るようなお化け瓢箪の話をすると、大言壮語の嘘だということになるね。荘子の故事より引用。

 風にふかれて歸る市人       芭蕉
<かぜにふかれて かえるいちびと>。前句をそのまま上の句と読んで。5国も入る大きな容積の瓢箪を市で見た人々も秋の夕暮れ、夕風に吹かれながら三々五々家路を急ぐ。

なに事も長安は是名利の地      仝
<なにごとも ちょうあんはこれ みょうりのち>。 白氏文集「長安は古来冥利の地。空手金なければ行路難し」から。前句の街から帰る人々を、競争に敗れた人々として。

 のおほきこそ目ぐるほしけれ   越人
<いのおおきこそ めぐるおしけれ>。冥利の地たる都会には、田舎と違って医者がむやみに多いのに驚かされることだ。

いそがしと師走の空に立出て     芭蕉
<いそがしと しはすのそらに たちいでて>。そのいまいましい医者どもが、如何にもせかせかと忙しそうに師走の街に出てくることだ。

 ひとり世話やく寺の跡とり     越人
<ひとりせわやく てらのあととり>。前句の師走の街に出てきたのは、医者ではなくて寺の住職。師走の空の下、街には行路病者や物乞いの者たちが集まってくる。彼らを救済しようと独りヴォランティア活動に専念する寺の住職。

此里に古き玄蕃の名をつたへ     芭蕉
<このさとに ふるきげんばの なをつたえ>。「玄蕃」は、地域を仕切る「ボス」の意。前句の寺の跡とりはそういう「玄蕃」の役割を帯びている。

 足駄はかせぬ雨のあけぼの     越人
<あしだはかせぬ あめのあけぼの>。その玄蕃が、日課としているボランティア活動も阻止されるほど強い雨が、春の夜明けだというのに降っている。だから、足駄を履いて出かけるわけにいかない。

きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉
<きぬぎぬや あまりかぼそく あでたかに>。昨夜は女の家に泊った。一夜明けると春のやらずの雨。女はか細く、しかしあでやかに着飾っている。帰るに帰れない男の未練。

 かぜひきたまふ声のうつくし    越人
<かぜひきたはう こえのうつくし>。女は風邪を引いたか、声が少し変わって、それがまた魅力を新たな美しさを引き立ててもいる。

手もつかず昼の御膳もすべりきぬ   芭蕉
<てもつかず ひるのごぜんも すべりきぬ>。「すべる」は総べること、終わること。風で食欲が無いのか、昼の食事に手もつけずに食事の時間が終わってしまった。

 物いそくさき舟路なりけり     越人
<ものいそくさき ふなじなりけり>。「いそくさく」は磯臭いこと。前句の食欲不振は風邪のためではなくて、船路を辿ってここまで来ると何もかも磯の匂いが着いてしまって、食欲も減殺されたのである。

月と花比良の高ねを北にして     芭蕉
<つきとはな ひらのたかねを きたにして>。「比良の高ね」は比良岳のことで、前句の磯臭い船旅は琵琶湖の船旅らしい。比良の高嶺を北に見るのは、琵琶湖でも大津に近いあたり、芭蕉の愛した膳所付近の眺望であろう。

 雲雀さえづるころの肌ぬぎ     越人
<ひばりさえずる ころのはだぬぎ>。今は春、湖水の葦原には雲雀が子育てを初め、漁夫は肌脱ぎになって漁をする。

破れ戸の釘うち付る春の末       仝
<やぶれどの くぎうちつくる はるのすえ>。春もたけなわとなって改めて家の周りの修理をする。肌脱ぎになっての作業である。

 見世はさびしき麥のひきはり     蕉
<みせはさびしき むぎのひきはり>。この男の家は、零細な商店で、大麦の引き割り(押し麦)を陳列しているだけの貧乏商店。

家なくて服裟につゝむ十寸鏡      人
<いえなくて ふくさにつつむ ますかがみ>。この商店は、昔は豪商で、当主の妻がお嫁に来たときの嫁入り道具の服紗に包んだ手鏡以外には何も無くなって、家さえも売り払ってしまったのである。

 ものおもひゐる神子のものいひ    蕉
<ものおもいいる みこのものいい>。一家のこの先の運命を巫女に占ってもらったのだが、はかばかしい答えは返ってこなかった。その巫女の物言いを反芻しているのであろう。

人去ていまだ御坐の匂ひける      人
<ひとさりて いまだおましの においける>。そのまま神殿に座って考えている。巫女が去った後の座のあたりから彼女の残り香が漂ってくる。

 初瀬に籠る堂の片隅         蕉
<はつせにこもる どうのかたすみ>。「初瀬」は奈良県桜井市長谷寺。高貴のお方の匂いの残る堂に参篭している。

ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に      人
<ほととぎす ねずみのあるる さいちゅうに>。「あるゝ」は暴れること。堂に籠っていると堂内に巣食っていた鼠どもが暴れまくっている。そのとき堂外の空をホトトギスが鋭い声を上げながら渡って行った。

 垣穂のさゝげ露はこばれて      蕉
<かきほのささげ つゆはこぼれて>。 「ささげ」は大角豆で、小豆に似た紫色をした豆。小豆に似て和菓子の餡として利用される。家の中では鼠が乱暴狼藉を働いているが、庭先の露に濡れた大角豆の垣根ではホトトギスが夏の到来を告げている。

あやにくに煩ふ妹が夕ながめ      人
<あやにくに わずらういもが ゆうながめ>。露に濡れた大角豆の垣根では、恋する乙女がものおもいに耽っている。

 あの雲はたがなみだつゝむぞ     蕉
<あのくもはたが なみだつつむぞ>。「くもはた」は雲端。夕暮れの赤い雲は、恋する女の涙をさそう。

行月のうはの空にて消さうに      人
<ゆくつきの うわのそらにて きえそうに>。「源氏物語」の「夕顔の巻」の歌「山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ」

 砧も遠く鞍にいねぶり        蕉
<きぬたもとおく くらにいねぶり>。前句の月は有明の月。残夢の月を砧の音を聞きながら馬の鞍の上から眺めている。

秋の田をからせぬ公事の長びきて    人
<あきのたを からせぬくじの ながびきて>。「公事」は訴訟や裁判のこと。法廷闘争のためにこの主人は秋の田の刈り取りも出来ない始末。だから、早朝から鞍の上で眠るような多忙な生活を送っているのであろう。

 さいさいながら文字問にくる     蕉
<さいさいながら もじといにくる>。そのための訴訟書類の提出のために、しばしば自分のところへ文字の読み書きを尋ねに来る百姓がいる。

いかめしく瓦庇の木藥屋        人
<いかめしく かわらびさしの きぐすりや>。文字を尋ねにくる男は、かわら庇の立派なつくりの薬局業を営む家の主人。

 馳走する子の痩てかひなき      蕉
<ちそうするこの やせてかいなき>。この生薬屋の子供は病弱で、ご馳走を食べさせているのだが痩せてしまって養生の甲斐が無い。

花の比談義参もうらやまし       人
<はなのころ だんぎまいりも うらやまし>。花の春、この痩せて病弱な少年はあちこちの寺院参りをする子供や大人達のことをうらやましく思っている。

 田にしをくふて腥きくち       蕉
<たにしをくうて なまぐさきくち>。寺院参りをする人々は、タニシを食う季節ゆえ、朝晩タニシを食う。これは仏教で言うナマグサ(殺生)になるのだが。そんなことはお構い無しに「談義参り」に出かけている。


翁に伴はれて來る人のめづらしきに    其角
落着に荷兮の文や天津厂
<おちつきに かけいのふみや あまつかり>。「落着き」は、客人が来たときに最初に出す茶菓のこと。ここでは、落着がわりにあなたには同郷の荷兮さんから手紙が来ていますので、それを御見せしよう。これはこの季節に北へ渡る空翔る雁からの便りかも知れませんよ。越人は、この日芭蕉に同道して其角亭を訪れたのである。貞亨5年9月『更科紀行』の後。

 三夜さの月見雲なかりけり     越人
<みよさのつきみ くもなかりけり>。「三夜」は十五夜の名月をはさんだ三日間、月齢14,15,16日のこと。ここは、さる「更級」の月の話で、三日間ともよい天気でしたという報告。

菊萩の庭に疊を引づりて         
<きくはぎの にわにたたみを ひきづりて>。前句の三夜を今のこととして、良い天気なので、菊や萩の咲き乱れる庭にゴザを敷いて、その上で月見をしている気持ちのよさ。

 飲てわするゝ茶は水になる      角
<のみてわするる ちゃはみずになる>。美しい月に感動して見とれているうちに、注いでおいたお茶が冷たくなってしまいました。

誰か来て裾にかけたる夏衣        仝
<だれかきて すそにかけたる なつごろも>。前句で「茶が水になる」のは、昼寝をしたためで、寝ている間に誰かが裾に夏用の掛け布団をかけてくれたのである。

 齒ぎしりにさへあかつきのかね    人
<はぎしりにさえ あかつきのかね>。ぐっすり寝ながら、この人は歯ぎしりをしている。外では遠くの寺の鐘が夜明けを告げている。

恨たる泪まぶたにとヾまりて      人
<うらみたる なみだまぶたに とどまりて>。前句の歯ぎしりは、一晩待ち暮らしたにも拘らず通って来なかったつれない男への恨み。思わず知らずいとおしさに涙がこぼれるのである。

 静御前に舞をすゝむる        角
<しずかごえんにに まいをすすむる>。義経から引き離されて鎌倉に拉致された静御前は、頼朝にすすめられて舞を舞う。悔しさに涙しながら。

空蝉の離魂の煩のおそろしさ      仝
<うつせみの かげのやまいの おそろしさ>。「離魂」は離魂病。二重人格となる病気(魂が肉体から離れて、もう一人全く同じ姿の人間になると信じられた病気。影の病( 『大辞林』))のこととされていた。静御前はこのとき夢遊病者のようになっていた。恐ろしいことだ。

 あとなかりける金二万兩       人
<あとなかりける きんにまんりょう>。こういう病の恐ろしいことといったら、治療費に費やした金二万両あるといわれていた長者が没落してあとかたも無くなった例がある。

いとをしき子を他人とも名付けたり   仝
<いとおしき こをたにんとも なづけたり>。前句の二万両の跡継ぎは、放蕩の末勘当されてしまったので、二万両の遺産を受け継ぐ人が亡くなってしまったのである。

 やけどなをして見しつらきかな    角
<やけどなおして みしつらきかな>。前句の子供は、火傷をして、その傷害を癒すために出家させたので、後継できなかったのであるが、それを見る辛さのむごいことよ。

酒熟き耳につきたるさゝめごと     仝
<さけくさき みみにつきたる ささめごと>。「ささめごと」は小声のささやき、男女のむつごと。顔に火傷をして直った顔を鏡で見て辛い思いをしているというのに、男は私の耳元でささやく。いやらしい奴!

 魚をもつらぬ月の江の舟       人
<うおをもつらぬ つきのえのふね>。秋の夜を川舟が閑に流れている。見れば魚を釣っているのでもない。酒の匂いがするのと一緒に謡の声が川風と共に流れてくる。酒仙の風流人の琵琶行であろう。

そめいろの富士は浅黄に秋のくれ    仝
<そめいろの ふじはあさぎに あきのくれ>。秋の暮れ方の富士。全山黄金色に染まっている。そのこの世のものとも思えない美しさに漁師は見とれて魚を獲るのを一時忘れている。

 花とさしたる草の一瓶        角
<はなとさしたる くさのひとかめ>。窓の外には前句の富士がそびえている。家の中では秋の七草を大甕に活けてある。晩秋の夕暮れ。

饅頭をうれしさ袖に包みける      仝
<まんじゅうを うれしさそでに つつみける>。前句の花は、この家の幼児が花瓶にさした雑草。その子に饅頭を与えると喜んですぐに袖に入れてしまった。

 うき世につけて死ぬ人は損      人
<うきよにつけて しぬひとはそん>。こんなうまいものが浮世には有るのだから、死んでは損々。

西王母東方朔も目には見ず       仝
<せいおうぼ とうほうさくも めにはみず>。西王母は、中国の神話上の女神。玉山または崑崙(こんろん)山に住む、人面・虎歯・豹尾の女神。のち、神仙思想の発展とともに仙女化され、周の穆(ぼく)王が西に巡狩した時、瑶池で宴を開き、漢の武帝に降臨して仙桃を与えたという。道教の成立後は東王父と一組の神格とされた( 『大辞林』)。また、東方朔は、(前 154 頃-前 93 頃) 中国、前漢の文人。字(あざな)は曼倩(まんせん)。武帝の側近として仕えた。奇言・奇行で知られ、後世、仙人的存在とされ、西王母の植えた桃の実を盗んで食べ八千年の寿命を得たなど種々の説話が残る。「答客難」「非有先生論」などの文章がある( 『大辞林』)。こんな二人も今は死んでしまったのであろう、目には見えない。

 よしや鸚鵡の舌のみじかき      角
<よしやおうむの したのみじかき>。 目に見えないだけじゃない。オウムのようなもので舌が短くて喋ることできない有様だ。

あぢなきや戸にはさまるゝ衣の妻    仝
<あじなきや とにはさまるる きぬのつま>。「衣の妻」は着物の端。なんとまあ、家に入ろう思ったら戸に着物が挟まって動けなくなってしまった。この失敗を鸚鵡が見ていて喋りやしないかしら。

 戀の親とも逢ふ夜たのまん      人
<こいのおやとも あうよたのまん>。前句で戸に着物が挟まったのは、女が恋人の家を忍んできた情景として、こんな機会が与えられた幸運を「恋の親」と信じていたいものだ。

やゝおもひ寐もしねられずうち臥て   仝
<ややおもい ねもしねられず うちふして>。そんなことを思って臥していると、なかなか寝つかれないで恋に身を焦がしていることだ。

 米つく音は師走なりけり       角
<こめつくおとは しはすなりけり>。眠られずにいると何処からとも無く餅つきの音がしてくる。そういえば今日はもう年の瀬近く。

夕鴉宿の長さに腹のたつ        仝
<ゆうがらす しゅくのながさに はらのたつ>。ねぐらに帰るカラスが飛んでいく。私も宿場の宿に帰るのだが、この宿場ときたら腹が立つほどに縦に長くてなかなか着けない。

 いくつの笠を荷ふ強力        人
<いくつのかさを になうごうりき>。腹が立つのは無理も無い。商売ものの笠を目一杯持たされている強力に取ってはこの長い宿場を抜けるのは容易ではないのだから。

穴いちに塵うちはらひ草枕       仝
<あないちに ちりうちはらい くさまくら>。「穴いち」は、近世の子供の遊び。地面にあけた小穴に、1mほど離れた線外から銭あるいは小石などを投げ、穴に入ったものを勝ちとする。穴打ち。銭(ぜに)打ち(『大辞林』)。前句で「強力」をしていたのは穴一をやりたくなるような子供。荷を下ろすなり、穴一に興じている。

 ひいなかざりて伊勢の八朔      角
<ひいなかざりて いせのはっさく>。「八朔」は、陰暦八月朔日(ついたち)の称。古く農家で、新穀の贈答や豊作祈願・予祝などの行事が行われ、のち一般化して、贈答の慣習を生んだ。(『大辞林』)「ひいな」は雛。さすが伊勢地方では、八朔の日に雛飾りまでするか?

滿月に不斷櫻を詠めばや        仝
<まんげつに ふだんざくらを ながめばや>。「不断桜」は、サトザクラの一品種。一〇月頃から四月頃まで咲き続ける。三重県鈴鹿市の白子不断ザクラは天然記念物。 (『大辞林』)。なんと言ったって伊勢では白子神社の不断桜のように八月十五夜の夜に桜が見られる。

 念者法師は秋のあきかぜ       人
<ねんじゃほうしは あきのあきかぜ>。「念者」とは、男色関係の兄貴分。念友。念人。⇔若衆(わかしゆ) (『大辞林』)。普段桜と違って私の男色相手の坊さんはすっかり秋になってちっとも姿を現してくれない。

夕まぐれまたうらめしき帋子夜着    仝
<ゆうまぐれ またうらめしき かみこよぎ>。秋の夕暮れに男色相手は、なんと紙子を着て寝ている。ガサゴソ音がするので密会は不向きな夜着である。これは明らかな拒絶のサイン。

 弓すゝびたる突あげのまど      角
<ゆみすすびたる つきあげのまど>。前句の紙子を着て寝ているのは貧しい人。くすびたような突き上げ窓の支え捧が窓辺に見えるだけの汚い家。

道ばたに乞食の鎮守垣ゆひて      仝
<みちばたに こじきのちんじゅ かきゆいて>。路傍に沿って乞食村のような貧乏村の鎮守の社があって、垣根で囲ってある。そこの窓が突き上げ窓になっているのである。

 ものきゝわかぬ馬子の鬮とり       人
<ものききわかぬ まごのくじとり>。前句の社の中ではあちこちからやって来た馬子たちが集まって博打を始めた。彼らときたらものの道理や正邪の分からない者達だから。

花の香にあさつき膾みどり也      仝
<はなのかに あさつきなます みどりなり>花の香りの中にまじって浅葱葱のナマスの緑の匂いが漂ってくる。

 むしろ敷べき喚續の春        仝
<むしろしくべき よびつぎのはる>。「喚續」は東海道鳴海付近の歌枕。ここに筵を敷いて江戸から来た其角さんを私は接待して花の香りと浅葱のナマスをご馳走したい。


                 嵐雪
もらじ新酒は人の醒やすき
<われもらじ しんしゅはひとの さめやすき>。「もらじ」は、「盛らない」の意。新酒は、秋の風流で古来多くの風流人が愛でてきたのですが、私はあなたにすすめませんよ、なぜかといえば新酒はすぐに醒めるというからです。本当は自分が飲みたくてケチっているの だが、それを詠むことで飲み相手を誘ってもいる。

 秋うそ寒しいつも湯嫌       越人
<あきうそさむし いつもゆぎらい>。いえいえ、晩秋のこの寒さを払うのに醒め易くてもいいですから新酒一杯頂きたいですな。わたしは風呂嫌いで風呂で温まるよりお酒がいいですな。

月の宿書を引ちらす中にねて      仝
<つきのやど しょをひきちらす なかにねて>。湯嫌いの男は、風呂にも入らずに秋の夜長を調べものに熱中していたのであろう。そのまま寝てしまったと見えて書物を広げっぱなしのまま月光の差し込む部屋に寝転がっている。

 外面藥の草わけに行         雪
<そともくすりの くさわけにいく>。前句の「月の宿」は山中のあばら小屋。ここに本草家(=薬学者)が薬草探しに来て、疲れて寝ていたのである。「外面薬」は皮膚病の特効薬でも指すか??

はねあひて牧にまじらぬ里の馬     仝
<はねあいて まきにまじらぬ さとのうま>。山中には牧場があって馬が放たれているのだが、里からあずけられた馬は山の馬と交わらずに跳ね回っているばかり。本草家が山中に入ってもうろうろするばかりで、目指す草を見つけ得ないでいることを馬にたとえたのであろう。

 川越くれば城下のみち        人
<かわこえくれば しろしたのみち>。牧になじめない馬を引いて川を渡って引き返してきたところ、はからずも城下に続く道に出た。

疱瘡貌の透とをるほど歯のしろき    人
<おもがおの すきとおるほど はのしろき>。城下へ出てみると、痘痕<あばた>はあるものの、透き通るほど歯の白い女にあった。さすがにお城下だ。

 唱哥はしらず声ほそりやる      雪
<しょうがはしらず こえほそりやる>。 透き通るほど白いきれいな歯並びの口から歌声がこぼれてくる。前句を琴か三味線を弾く女性に仮託した。

なみだみるはなればなれのうき雲に   同
<なみだみる はなればなれの うきぐもに>。口ずさむ音曲によって悲しい別れの記憶が呼び覚まされたか、女の目から涙が零れ落ちる。前句の唱歌が遠く離れた人を想う歌だったのであろう。

 後ぞひよべといふがわりなき     越
<のちぞいよべと いうがわりなき>。前句で泣いていたのは女ではなくて男。離れ離れになった女房を想って泣いていたのである。周りの者は、後妻をもらえば彼女を忘れられるなどと無体なことを言う。

今朝よりも油あげする玉だすき     人
<けさよりも あぶらあげする たまだすき>。「玉だすき」は「たすき」の美称。妻を亡くした男が彼女の法事の準備であろうたすきがけで精進料理の素材のアブラゲを作っている。だから、親戚の者たちは早く後妻をもらえというのであろう。

 行燈はりてかへる浪人        嵐
<あんどんはりて かえるろうにん>。近所の住む飲み友達の浪人が見るに見かねて応援に来てくれた。行灯の張替えをして帰っていく。

着物を碪にうてと一つ脱        雪
<きるものを きぬたにうてと ひとつぬぎ>。前句の浪人は、お金が無いので着物を砧で打ち直してもらった料金が払えないので行灯張りで支払っていったのである。

 明日は髪そる宵の月影        越
<あすはかみそる よいのつきかげ>。明日は仏門に入る。そうすればまず剃髪するであろう。今着ている着物は不要となるので、砧で打ち直して何かに使ってもらいたい。武士か浪人か?

しら露の群て泣ゐる女客        人
<しらつゆの むれてなきいる おんなきゃく>。仏門に入るという一家の主にしたがって前夜から寺にやってきた家中の女どもは、俗世界で男に接するのはこれが最後かと思うと悲しくてみんな泣き伏している。

 つれなの醫者の後姿や        雪
<つれなのいしゃの うしろすがたや>。前句を一家の主の臨終の場面と見てつけた。臨終を宣言すると医者は、自分の仕事は終わったとばかりに去っていく。その無感動な後姿。

ちる花に日はくるれども長咄      越
<ちるはなに ひはくるれども ながばなし>。前句の医者は、暇をもてあまして表で主人と長話。家の中では女房がもういい加減に長話をやめたらといらいらしている。それもそのはずもうすっかり日が傾いている。

 よぶこ鳥とは何をいふらん      人
<よぼこどりとは なにをいうらん>。「呼子鳥」とは何だという議論をしているので、長話になっているのである。


                 野水
初雪やことしのびたる桐の木に
<はつゆきや ことしのびたる きりのきに>。初雪が今年すっかり成長した桐の木に降り積もっていますよ。「桐」は「梧」に通ずるので、相棒の「落梧」への賞賛を込めて。

 日のみじかきと冬の朝起      落梧
<ひのみじかきと ふゆのあさおき>。冬の日は短いので朝は早起きを心がけている。幸い私も今朝は桐の枯れ枝に積もった初雪を見ました。

山川や鵜の喰ものをさがすらん     仝
<やまがわや うのくいものを さがすらん>。雪の日はえさが少ない。山川のカワウ達は盛んに食い物を探そうと冷たい水の中にもぐっていく。

 賤を遠から見るべかりけり     野水
<しずをとおから みるべかりけり>。前句で、えさを探しているのは鵜自身ではなくて鵜を飼っている鵜飼。お金が無くて餌にも困窮している文字通り「賤<しず>」である。雪の朝、こういう貧しい風景は遠くから見ておればこそ絵にも詩にもなる。

おもふさま押合月に草臥つ       同
<おもうさま おしあいつきに むたびれつ>。名月見ようと月の名所に来てみると押し合いへし合いの混雑。すっかりくたびれてしまった。集まっているのは貧乏人ばかり。こういう風景は、遠くから見ればこそほほえましいのかもしれないが、今はいまいましい。

 あらことごとし長櫃の萩      落梧
<あらことごとし ながびつのはぎ>。橘為仲(1014年〜1085)は、公家で歌人。陸奥守として陸奥から帰任の折、宮城野の萩を長櫃にいれて都への土産に持ち帰ったという。月見に来て、この萩を見た人々の印象は、たかが萩など持ってくるとは大げさな、というものだった。

川越の歩にさゝれ行穐の雨       水
<かわごしの ぶにさされゆく あきのあめ>。大河の近くの住民は、貴人の行列が川越をするときには人足として調達される。今日も今日とて人足として駆り出されて晩秋の冷たい水の中。運ぶものはといえば長持に入れた宮城の萩だという。ばかばかしい。

 ねぶと痛がる顔のきたなさ      梧
<ねぶといたがる かおのきたなさ>。ところがお知りに腫れ物(ねぶと=お尻など肉のついている部分にできやすいという)ができていてその痛いこと痛いこと。顔も歪んでしまう痛さにさぞや汚い顔になっていることであろう。

わがせこをわりなくかくす縁の下    水
<わがせこを わりなくかくす えんのした>。私の彼氏が忍んできたのに、根太ができてしまって顔の汚い私は会うわけにはいかないので、彼を縁の下に隠してしまった。男の方こそいい面の皮だが。

 すがゝき習ふ比のうきこひ      梧
<すががきならう ころのうきこい>。「すががき」は、江戸初期の箏(そう)または三味線で、歌のない器楽曲(『大辞林』)。吉原の女たちが飾り窓の中で爪弾いて客を集めたという。「すががきの音に引き寄せられて、つい居続けの朝の雪」などという都都逸がある。ここは華街。前句の話は、すががきを習い始めの若い女郎が初恋のころにあった話。

更る夜の湯はむつかしと水飲て     水
<ふけるよの ゆはむつかしと みずのみて>。若い花魁と一夜を過ごした深夜。夜更けに喉が渇いたが、湯を所望するのは気が引けるので枕元にある水で我慢した。

 こそぐり起す相住の僧        梧
<こそぐりおこす あいすみのそう>。台所に水を取り行くついでに、相部屋の僧が居眠りを始めていたのでくすぐって起こしてやった。彼らは寝ずの修行中なのであろうか?

峯の松あぢなあたりを見出たり     水
<みねのまたう あじなあたりを みいでたり>。水を求めて寺の廊下に出てみると、夜はうっすらと明けて峰の松がすばらしい眺めを作っていた。だから相棒の僧を起こしてあれを見ろと誘ったのである。

 旅するうちの心(寄)奇麗さ       梧
<たびするうちの こころきれいさ>。旅を続けているとだんだん心が澄明になってくる。だから、こんな松の美しさにも敏感になるのである。

烹た玉子なまのたまごも一文に     水
<にたたまご なまのたまごも いちもんに>。煮た卵も生の卵も同じ卵。だから両方とも同じ値段一文で売っている峠の茶屋。旅すればこそこんな心優しい情景にも会うことができる。

 下戸は皆いく月のおぼろげ      梧
<げこはみないく つきのおぼろげ>。酒の飲めない下戸の者たちは、この卵を欲しいと言って、朧月の早朝に前句の茶屋に出かけて行くというのだが、「月」をここに入れるために少々バカバカしい話になってきた。

耳や歯やようても花の數ならず     水
<みみやはや ようてもはなの かずならず>。 耳や歯がどんなに良くてももう歳ですから花のある話には加われません。年寄りの繰り言。前句の卵を買いに行く客の言い草。

 具足めさせにけふの初午       梧
<ぐそくめさせに きょうのはつうま>。とはいえ今日は初午のよき日。この年寄りめが、若殿の武具の初着に神社に参詣するのです。前句はここでは謙遜の意となる。「具足めさせ」は、「具足召させ」で、具足の着用の意と取る。

いつやらも鶯聞ぬ此おくに       同
<いつやらも うぐいすききぬ このおくに>。あれは、いつの頃だったか、やはり初午で参詣したときのことだが、この神社の奥の森で鶯の声を聞いたことがあったっけ。今日また鶯のきれいな声が聞こえることだ。

 山伏住て人しかるなり        水
<やまぶしすみて ひとしかるなり>。ただし、この奥山には山伏が住んでいて、信仰も無いのに山に入ってくるものを叱ったりするのでうっかり入れない。

ぐはらはらとくさびぬけたる米車    梧
<がらがらと くさびぬけたる こめぐるま>。車軸の楔の抜けてガラガラとやかましい音を立てて山車が行く。あの森に住む山伏に違いない。

 挑(堤)灯過て跡闇きくれ      水
<ちょうちんすぎて あとくらきくれ>。車の取っ手に付けた提灯と共にうるさい車が行ってしまった後はまた真っ暗な静寂がやってきた。神社に続く夜の参道。

何事を泣けむ髪を振おほひ       梧
<なにごとも なきけんかみを ふりおおい>。前句の行列は葬送の列だったのである。それを見送る一人の女。髪は乱れ、頬は涙で濡れている。

 しかじか物もいはぬつれなき     水
<しかじかものも いわぬつれなさ>。そして何を悲しんでいるのかと尋ねてもつれなく押し黙って答えない。

はつかしといやがる馬にかきのせて   梧
<はずかしと いやがるうまに かきのせて>。恥ずかしいからいやだと嫌がる女を強引に馬に乗せてここまで来たのだが、そのためにふくれっ面をして口をきかないのだ。

 かゝる府中を飴ねぶり行       水
<かかるふちゅうを あめんぶりゆく>。馬の口つきの男は街中というのにでっかい飴をほうばりながら歩いていく。

雨やみて雲のちぎるゝ面白や      梧
<あめやみて くものちぎるる おもしろや>。急なにわか雨も上がって、雨を降らせた雲も千切れちぎれに流れていく。その雨後の景色も面白い。前句は、街を飴をしゃぶりながら歩く風流人。

 柳ちるかと例の莚道         水
<やなぎちるかと れいのえんどう>。「莚道<むしろみち>」は貴人などが通行の便のため、または儀礼のために作った通路で、そこに敷物を敷いた。「例の」は不明。あの莚道にはもう柳の葉は散って落ちたか。

軒ながく月こそさはれ五十間      同
<のきながく つきこそさわれ ごじっけん>。軒の庇が長くて廊下から月が見えないので、50間もある長い莚道を作らせて庭先まで行って月を見るというのである。余程の貴人であろう。

 寂しき秋を女夫居りけり       梧
<さびしきあきを めおとおりけり>。そんな名月の秋に、夫婦二人きりで寂しく暮らす夫婦が居た。何か深い訳があるのであろう。

占を上手にめさるうらやまし      水
<うらないを じょうずにめさる うらやまし>。しかし、この夫婦は占いの上手という。だからひっきりなしに運勢を聞こうと訪ねる人がいる。だから生活も安定していてうらやましいことだ。

 もてはやすいにしへの酒      仝
<きびもてはやす いにしえのさけ>。占いに来た客にはキビで作った古代酒をふるまっているという。

朝ごとの干魚備るみづ垣に       梧
<あさごとの ひうおそなうる みずがきに>。毎朝人々は干魚を氏神さまに供える。それと一緒にキビを原料に醸した古代の酒も。

 誰より花を先へ見てとる        同
<たれよりはなを さきへみてとる>。早朝に神社に参詣するものだから誰よりも早く参道に咲く花を見つけることができる。

春雨のくらがり峠こえすまし      水
<はるさめの くらがりとうげ こえすまし>。くらがり峠は、芭蕉が死の一月前に越えた峠。大和と河内の国境の峠。春雨の降るくらがり峠を越え終わると一面の桜。奈良方面から河内平野に降りてきたのである。

 ねぶりころべと雲雀鳴也       梧
<ねぶりころべと ひばりなくなり>。峠を越えると晴。空にはひばりがさえずっている。よく聞いていると眠っていけ、休んでいけといっているようだ。


                 一井

一里の炭賣はいつ冬籠り
<ひとざとの すみうりはいつ ふゆごもり>。炭製造を専業とする一村全部の百姓達。こうして冬に炭を売り歩くのだが、私たちは冬籠りの真っ最中だというに、あなたたちは何時冬籠りをするのでしょう。

 かけひの先の瓶氷る朝       鼠彈
<かけひのさきの かめこおるあさ>。こんな筧の先まで凍ってしまうような凍てつく寒い朝だというのに。
 

さきくさや正木を引に誘ふらん    胡及
<さきくさや まさきをひきに さそうらん>。「さきくさ」は「三枝」で三つに枝分かれした樹木にかかる枕詞。転じて広く樹木にもかかる。こんな凍てつく寒い日は雪が積もって正木を引き出すには好都合。その人夫募集の勧誘に来たのであろう。

 肩ぎぬはづれ酒によふ人      長虹
<かたぎぬはずれ さけにようひと>。「かたぎぬ」は、袖無しの上衣のこと。酔っ払って肩衣をはだけてふらつきながら歩いている。今日は、寺院の堂塔の建立の祝賀行事。前句で正木を引いたのはその祝いの行列だったのでる。

夕月の入ぎは早き塘ぎは       鼠彈
<ゆうづきの いりぎわはやき つつみぎわ>。秋の夕暮れは釣瓶落とし。夕月が西の山に消えていく夕暮れ、前句の酔っ払いは長い堤をふらふらと歩いていく。

 たはらに鯽(鮒)をつかみこむ秋   一井
<たわらにふなを つかみこむあき>。夕闇が近づいてきたので大急ぎで池のフナを俵に詰め込んで作業を急ぐ。フナを甘露煮にしておいて越冬用の蛋白源にしたのである。

里深く踊教に二三日         長虹
<さとふかく おどりおしえに にさんにち>。田舎に新しい都会で流行の踊りを教えにやって来て二三日。そのお礼にと里人たちは俵にフナの干したのをつかみこんでくれた。

 宮司が妻にほれられて憂      胡及
<ぐうじがつまに ほれられてうき>。踊りを教えているうちに村の宮司の妻にほれられてしまって困ってしまったよ。嘘か本当かはわからないが?

問はれても涙に物の云にくき     一井
<とわれても なみだにものの いいにくき>。言い寄る宮司の妻は涙ながらに、自分に好意を持っているかどうか尋ねるが、なんとも言い難い。

 葛篭とヾきて切ほどく文      鼠彈
<つづらとどきて きりほどくふみ>。旅先で恋人が死んだ。その形見を納めたつづらが届いたので開けてみると中には手紙が入っていた。それを呼んでいると周囲の者達から何が書いてあるのかと尋ねられるが、涙が先で答えられない。

うとうとと寐起ながらに湯をわかす  胡及
<うとうとと ねおきながらに ゆをわかす>。前句は郵便馬車の運ぶ葛篭とした。その馬が着いたのであわてて起きて眠気まなこのまま湯を沸かす。郵便を扱う名主の家の女房か?

 寒ゆく夜半の越の雪鋤       長虹
<さえゆくよわの こしのゆきすき>。今夜は一段と冷え込んだ。外はしんしんと雪が降っている。雪下ろしをしないと家がもたないので、家人はおきて雪下ろしの準備に取り掛かる。女房は眠い目をこすりながら囲炉裏を炊いて湯を沸かす。

なに事かよばりあひてはうち笑ひ   鼠彈
<なにごとか よばりあいては うちわらい>。屋根の上では大勢で声を掛け合いながら雪掻き作業中。どっと笑い声が起こったのは誰かがおかしいことを言っては励ましあっているのであろう。

 蛤とりはみな女中也        一井
<はまぐりとりは みなじょちゅうなり>。大笑いしながら賑やかに蛤を拾っているのは女性ばかり。女中は、海女をわざとお女中とひやかし半分に呼んだものであろう。

浦風に脛吹まくる月涼し       長虹
<うらかぜに はぎふきまくる つきすずし>。女たちは脛をまくりあげて風にひらひらさせながらハマグリを捕っている。すでに夕月が出て夕闇の迫る海岸の景。

 みるもかしこき紀伊の御魂屋    胡及
<みるもかしこき きいのおたまや>。「紀伊の御魂屋」は紀州徳川家の建立した和歌の浦の東照宮。ここの海岸に吹きつける秋の風。月は海の上にあって風は着物のすそを巻き上げる。神域は静寂に包まれている。

若者のさし矢射ておる花の陰     一井
<わかものの さしやいておる はなのかげ>。この神社には弓矢の道場があって、通し矢の練習をする。いま、若武者が一心不乱に訓練している。社の中は桜の満開。

 蒜くらふ香に遠ざかりけり     鼠彈
<ひるくらうかに とおざかりけり>。ところがこの若者ときたらニンニクを大量に食ったと見えてその匂いのすさまじいこと。幻滅!!

はるのくれありきありきも睡るらん  胡及
<はるのくれ ありきありきも ねむるらん>。何処で遊んできたのか、春の夕方。街道を居眠りしながら歩いている若者がいる。ニンニクのくさいにおいを発しながら。

 帋子の綿の裾に落つゝ       長虹
<かみこのわたの すそにおちつつ>。その若者、紙子の綿がすその方に落ちて固まってしまっている。

はなしする内もさいさい手を洗    鼠彈
<はなしするうちも さいさいてをあらい>。この男、話をしている間にも何度も何度も手を洗いに行く。強迫神経症にでもかかっているのかもしれない。

 座敷ほどある蚊屋を釣けり     一井
<ざしきほどある かやをつりけり>。座敷いっぱいの蚊帳をつった部屋に床を敷いて寝ている。どうも病気らしい。

木ばさみにあかるうなりし松の枝   長虹
<きばさみに あかるうなりし まつのえだ>。「木ばさみ」は植木屋用のはさみ。剪定ばさみ。はさみを使って松の整枝をしてもらったら庭が明るくなってうれしい。病人の伏せる蚊帳の中まで明るくなった。

 秤にかゝる人々の輿        胡及
<はかりにかかる ひとびとのきょう>。植木屋たちは秤を取り出してお互いの体重測定を始めた。誰が重いだの軽いだのと言い合いながら笑い興じている。

此年になりて灸の跡もなき      一井
<このとしに なりてやといの あともなき>。男たちはみな健康で、背中に灸の痕が無い。実に健康な者たちばかりが秤にのって騒いでいる。

 まくらもせずについ寐入月     鼠彈
<まくらもせずに ついねいるつき>。健康だけが取り柄で、横になればすぐ眠れる。だから月など見たことも無い。老人の日常生活の告白。

暮過て障子の陰のうそ寒き      胡及
<くれすぎて しょうじのかげの うそさむき>。枕もしないで寝入ってしまって気がついたら障子に月影が映っている。思わずぶるっと寒気がした。

 こきたるやうにしぼむ萩のは    長虹
<こきたるように しぼむはぎのは>。手でしごいたように萩の葉が眠っている。肌寒くなった秋の夕暮れ。

御有様入道の宮のはかなげに     鼠彈
<おんありさま にゅうどうのみやの はかなげに>。萩の葉がしごいたように萎んでしまったその有様同様、お姫様が尼に入道した。そのはかなさ。

 衣引かぶる人の足音        一井
<きぬひきかぶる ひとのあしおと>。いまや仏門に入った女を訪ねてくる男。女物の衣を引きかぶって足音を忍ばせてやってくる。

毒なりと瓜一きれも喰ぬ也      長虹
<どくなりと うりひときれも くわぬなり>。瓜にはアレルギー性の有害物質がある。だからこれを食べない。前句の衣をかぶるのは病気のゆえ。

 片風たちて過る白雨        胡及
<かたかぜたちて すぐるゆうだち>。「片風」は一方向に吹く風?一陣の風と共に夕立が通っていった。こんなときは体が冷えるので、冷野菜の瓜は食べないのである。

板へぎて踏所なき庭の内       一井
<いたへぎて ふみどころなき にわのうち>。突風を伴って嵐が過ぎ去って行った後の庭。板塀などが剥ぎ取られて庭の中は足の踏み場もない有様。

 はねのぬけたる黒き唐丸      鼠彈
<はねのぬけたる くろきとうまる>。「唐丸」は、ニワトリの一品種。鳴き声を賞玩する目的で作られた。とさかは単一で羽は黒い。鳴き声は五〜一三秒と長く、やや高音。新潟で改良された。天然記念物。(『大辞林』)荒れた庭の中を平然として年取った唐丸が歩いていく。一種の貫禄。

ぬくぬくと日足のしれぬ花曇     長虹
<ぬくぬくと ひあしのしれぬ はなぐもり>。鳥が庭を横切ったのは花曇の春の日。日差しがないので日足は分からないが、ただただ暖かい。

 見わたすほどはみなつゝじ也    胡及
<みわたすほどは みなつつじなり> 。その暖かさに誘われたか見渡す限りつつじの花が咲いている。

 

京寺町通二條上井筒屋

  筒井庄兵衛板


 目録へ

誰か華をおもはざらむ:この序文は山口素堂のもの。この世に生を受けた者で花の美しさを心にとどめない人は居ない。

我東四明の麓に有て:我は素堂。東四明の四明は天台山のこと。東四明は江戸の天台山で上野東叡山寛永寺のこと。素堂は上野不忍池端に住んでいた。

花のこゝろはこれを心とす:花について片時も心に無いということが無い生活をしている。
佐川田喜六の、よしの山あさなあさなといへる哥:佐川田喜六<さがわだきろく>は、山城の人、昌俊。淀藩主永井尚政の家臣。武士ながら文に通じた人。寛永20年没。その歌に、「吉野山花咲くころの朝な朝なこころにかかる峰の白雲」がある。

此句尾陽の野水子の作とて:「このくびようのやすいしのさくとて」と読む。尾張の蕉門の野水の作った句「麥喰し鴈と思へどわかれ哉」である。この句の意は、雁は私の畑を散々荒らした憎い鳥だが、北に向かって帰るのを思うと別離の情が彷彿としてわきあがってくる。

さいつ比、田野へ居をうつして:素堂は、貞亨2年から2年ほど葛飾に移り住んだことがある。

獨色を變じたるよし:ひとりいろをへんじたるよし、と読む。初めて実感したの意。

猿を聞て實に下る三声のなみだといへるも:杜甫の歌による。猿の鳴く声を聞くと、涙が自然にこぼれてくる。

實の字老杜のこゝろなるをや:上の實<まこと>の字は、杜甫の実の心であろう。

この文人:山口素堂のこと。

三人:野水、荷兮、越人も三人。