あら野の序
芭蕉桃青
『あら野』の成立は、本序文によれば元禄2年(1689年)3月となっているが、芭蕉が序文を書いたのがこの日付ということで、上梓されたのは元禄3年らしい。
題名の「あらの」は、西行の歌「雲雀たつあら野におもふ姫ゆりの何につくともなき心かな」によるのは、序文文中の引用から想像がつく。
ともあれ、詩歌の世界の「荒野」に彷徨う人々を救済するという壮大な計画を内心に秘めながら、この膨大な集の編纂に着手したのである。
尾陽蓬左、橿木堂主人荷兮子、集を編て名をあらのといふ:「尾陽蓬左<びようほうさ>」は尾張の国の蓬莱宮=熱田神宮の左側、つまり名古屋のこと。橿木堂主人荷兮子<きょうぼくどうしゅじんかけいし>は山本荷兮のこと。名古屋の荷兮が、この句集を編集して、阿羅野と名付けた。
何故に此名有事をしらず:<なにゆえにこのなあることをしらず>。どうしてこういう名前が付けられたのかを私は知らない。
予はるかにおもひやるに:私がはるか江戸から想像するに。
ひとゝせ、此郷に旅寝せしおりおりの云捨、あつめて冬の日といふ:先年、この名古屋の地に私が滞在したときに、句会を開いた成果を「冬の日」と名付けました。
其日かげ相續て、春の日また世にかゝやかす:<そのひかげあいつづきて、はるのひまたよにかがやかす>よ読む。その『冬の日』に続けて、『春の日』を世に問うたらこれもまた評判がよくて。
いさゝか實をそこなふものもあればにや:前期二作品はそれなりによい出来栄えではあったが、「花実」(外形と内実)に乖離もあって、まだ未熟なものでもあった。芭蕉は、『冬の日』・『春の日』の二作品は華美に過ぎたとして不満だったのである。
いといふのいとかすかなる心のはしの、有かなきかにたどりて:陽炎のようにはかなくさまよう心は、あるかなきかのかすかな道を探しあぐねて・・・
道芝のみちしるべせむと:かすかな「花実」一致の世界を求めて、まよえる心の道しるべを荷兮はしようと言って。
此野の原の野守とはなれるべらし:<このののはらののもりとはなれぶべし>。荷兮が、この迷いやすい野原の道標をしてくれるそうです、の意。