芭蕉db

更科紀行

(貞亨5年8月11日頃:45歳)


田毎の月 「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)より

芭蕉DBへ


 更科の里、姥捨山の月*見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、またひとり、越人*といふ。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子*が奴僕をして送らす。おのおのこころざし尽すといへども、駅旅のこと心得ぬさまにて、共におぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、なかなかにをかしきことのみ多し。
 何々といふ所にて、六十ばかりの道心の僧、おもしろげもをかしげもあらず、ただむつむつとしたるが、腰たわむまで物おひ、息はせはしく、足はきざむやうに歩み来たれるを、伴ひける人のあはれがりて、おのおの肩にかけたる物ども、かの僧のおひね物*とひとつにからみて、馬に付けて、我をその上に乗す。高山奇峰、頭の上におほひ重なりて、左は大河ながれ、岸下の千尋の思ひをなし、尺地も平らかならざれば、鞍のうへ静かならず。ただあやふき煩ひのみやむ時なし。
 桟橋*・寝覚*など過ぎて、猿が馬場*・立峠*などは四十八曲りとかや。九折かさなりて、雲路にたどる心地せらる。歩行より行く者さへ、目くるめき魂しぼみて、足さだまらざりけるに、かの連れたる奴僕いとも恐るるけしき見えず、馬の上にてただねぶりにねぶりて、落ちぬべきことあまたたびなりけるを、あとより見上げて、あやふきこと限りなし。佛の御心に衆生のうき世を見たまふもかかることにやと、無常迅速のいそがはしさも、わが身にかへりみられて、阿波の鳴門は波風もなかりけり*
 夜は草の枕を求めて、昼のうち思ひまうけたるけしき、結び捨てたる発句など*、矢立とりいでて、灯のもとに目を閉ぢ、頭たたきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物思ひするにやと推量し、我をなぐさめんとす。若きとき拝みめぐりたる地、阿彌陀のたふとき、数をつくし、おのがあやしと思ひし事ども*話しつづくるぞ、風情のさはりとなりて、何を言ひいづることもせず。とてもまぎれたる月影の、壁の破れより木の間がくれにさし入りて、引板の音*、鹿追ふ声、ところどころに聞えける。まことに悲しき秋の心、ここに尽せり。「いでや、月のあるじに酒ふるまはん」と言へば、杯持ち出でたり。世の常に一めぐりも大きに見えて、ふつつかなる蒔絵をしたり。都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、思ひもかけぬ興に入りて、碧碗玉卮*の心地せらるも所がらなり。

あの中に蒔絵書きたし宿の月

(あのなかに まきえかきたし やどのつき)

桟橋や命をからむ蔦葛

(かけはしや いのちをからむ つたかずら)

桟橋や先づ思い出づ駒迎へ

(かけはしや まずおもいいず こまむかえ)

霧晴れて桟橋は目もふさがれず  越人

(きりはれて かけはしはめも ふさがれず

姨捨山

俤や姥ひとり泣く月の友

(おもかげや おばひとりなく つきのとも)

十六夜もまだ更科の郡かな

(いざよいも まださらしなの こおりかな)


姨捨山 藤田繁一画

更科や三夜さの月見雲もなし  越人

(さらしなや みよさのつきみ くももなし)

ひよろひよろと尚露けしや女郎花

(ひょろひょろと なおつゆけしや おみなえし)

身にしみて大根からし秋の風

(みにしみて だいこんからし あきのかぜ)

木曽の橡浮世の人の土産かな

(きそのとち うきよのひとの みやげかな)

送られつ別れつ果ては木曽の秋

(おくられつ わかれつはては きそのあき)

善光寺

月影や四門四宗もただ一つ

(つきかげや しもんししゅうも ただひとつ)

吹き飛ばす石は浅間の野分かな

(ふきとばす いしはあさまの のわきかな)

 


文集へ年表へ


 芭蕉は、美濃で休養を十分に取った後、貞亨5年8月11日、多数の美濃の門人に、それこそ盛大に見送られて『更科紀行』の旅に出発した。この旅には門人越人が同行し、また荷兮が下僕を一名つけてくれた。この旅は、姥捨て山(更科)の秋の月を見ようというのが目的であったが、旅全体は『笈の小文』の旅の付録といった位置付けになっている。
 しかし、『笈の小文』の旅がどちらかというとよく知った場所の反復であったし、行く先々で多くの門人に囲まれて安全な旅だったのに対して、木曽街道の旅は物理的にも危険があり、追い剥ぎや山賊などの不安もないではなかったから気楽なものとは言いがたかった。それだけにこの旅は多くの秀句を生み出し、収穫の極めて多い旅となった。
 来年に迫った『奥の細道』への、肉体的・心理的・文芸的リハーサルとして詩人芭蕉生涯の大きな転機を与えた旅であったのである。


あの中に蒔絵書きたし宿の月

 1998年冬季五輪長野大会。金銀銅のメダルは木曽の漆塗りの文様が使われる。「都の人は、かかるものは風情なしとて、手にも触れざりけるに、・・・・・」という代物の300年の年輪の重みか? 一句にある「蒔絵」は、農民の描いた草深い素朴なもの、オリンピックの権威とはほど遠い。蒔絵とは漆で絵を描いてそれを接着剤として金や銀の粉末や箔を接着し、乾燥させてから磨いてツヤを出す。
 なお、『更科紀行真蹟草稿』には、

月の中に蒔絵書きたし宿の月

とあるから、これが現存する中では初案である。月が重なって落ち着きが悪い。

桟橋や命をからむ蔦葛

  かけはしには蔦が十重二十重に巻きついている。まるで自らの命を惜しむように桟にすがり付いているといった按配である。ここに桟とは、木曽福島と上松<あげまつ>の間、木曽川の絶壁に掛けられた長さ100メートルほどの釣り橋である。木曽街道最難所であった。


木曽福島にある「桟橋や命をからむ蔦葛」の句碑(牛久市森田武さん提供) 

桟橋や先づ思い出づ駒迎へ

 かけはしに来て真っ先に思い出したのは駒迎えの儀のこと。律令時代、朝廷に諸国から献上された馬を8月15日に天皇が紫宸殿前で謁見した。その行事が駒牽きの儀であった。この行事の為に朝廷の役人が逢坂の関まで出迎えに行くのが駒迎えの儀。桟に来て駒迎えを思い出したのは木曽の駒を献上するについてはこの桟を通らなければならないという危険についてだったのであろう。  

俤や姥ひとり泣く月の友

 芭蕉が、門人に自信作として語ったと伝えられる芭蕉秀句の中の一句。主題は「姨捨伝説」であり、それを叙情の世界に再構築したもの。姨捨伝説は、若い息子が妻にそそのかされて老母を姨捨山に捨てたが、姨捨山に出る月の美しさに目が覚めて、母を連れ帰ったとするもの。あるいは、苛斂誅求な圧政に苦しんで老人を捨てたとされるものなどがある。古来、描かれてきた姨捨伝説は前者。ところで姨捨の月は、「田毎の月」として、土佐の高知の桂浜、石山寺の秋の月と並んで日本三名月とも言われた。


俤や姥ひとり泣く月の友」の句碑。姥捨山長楽寺にて森田武さん撮影

十六夜もまだ更科の郡かな

 貞享5年8月16日、信州坂城での作。芭蕉は十六夜、立待の月と三夜連続で信濃の月を愛でていたらしい。「さらしな」には去らないの意が掛詞になっているらしい。 


十六夜もまだ更科の郡かな」の句碑。坂城町十六夜観月殿にて、森田武さん撮影

ひよろひよろと尚露けしや女郎花

 女郎花がひょろひょろと心もとなく立っている。そこに露がかかってなお一層危なげ。「露けし」は露を大量に浴びた感じを表す言葉。芭蕉は全体オミナエシに対して感情移入が多い。
 なお、『更科紀行真蹟草稿』では、

ひよろひよろと転けて露けし女郎花
(ひょろひょろと こけてつゆけし おみなえし)

である。


ひよろひよろと尚露けしや女郎花」の句碑。森田武さん撮影

身にしみて大根からし秋の風

 大根という野菜、痩せ地で育ったものほど背丈が小さく、肉もやせていて、辛い。木曽の山地の大根はだから辛かったのであろう。しかし、ここでは大根の辛さ以上に木曽の秋風の寒さの方が身にしみる。そして、それよりはるかに更科紀行の旅は、身に染みるものがあったのであろう。芭蕉秀句の一つ。なぜか、芭蕉には、大根の秀句が多い。


身にしみて大根からし秋の風」の句碑。四賀村会田岩井堂旧善光寺街道にて。森田武さん提供

木曽の橡浮世の人の土産かな

 トチは日本産マロニエ。ユズリハに似た喬木で30メートル近くにも達する。夏に薄ピンクの凝りついたような花が咲き秋にどんぐり状の実がなる。その実は餅について橡餅という。その橡の実を浮世(の内)にいる人に持って帰って土産としようというのである。実は、この杼の実は越人に渡したのであることは、「としのくれ杼の實一つころころと」(『阿羅野』)から分かる。芭蕉自身は浮世の外にいるという意識が潜在していて面白い。 
 なお、『更科紀行真蹟草稿』では、

世に居りし人に取らせん木曽の橡

とある。


木曽の橡浮世の人の土産かな」木祖郡藪原鳥居峠の句碑(森田武さん撮影)

送られつ別れつ果ては木曽の秋

 「送られつ送りつ果ては木曽の秋」(『阿羅野』)とも伝えられている。言葉の美しさで人口に膾炙した句。 「果て」については、芭蕉はほかに、

@ うきふしや竹の子となる人の果 (『嵯峨日記』)

A しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮(『野ざらし紀行』)

B 毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて「何ごとも招き果てたる薄哉
などがある。これらは、いずれも「死」を意味している。人を送り、またある時は人に送られて、いま死ではなく木曽の山中にいるのである、というのであろう。その意味で、Aに近いか?ただ美しいだけではない一句。
 なお、この折の名古屋の門人達に送った留別の吟は、このほかに、「草いろいろおのおの花の手柄かな」、「朝顔は酒盛知らぬ盛り哉」、「ひょろひょろとなほ露けしや女郎花」など3句がある。


送られつ別れつ果ては木曽の秋」木祖郡楢川村旧平沢宿にて森田武さん撮影

 

月影や四門四宗もただ一つ

 四門も四宗も意味がはっきりしない。四門とは、天台宗などでは、真理に至る四つの立場。有門<(うもん>・空門<くうもん>・亦有亦空門<やくうやくくうもん>・非有非空門<ひうひくうもん>のことと言い、また密教では、曼陀羅の四方の門。東南西北を修行の段階に配して、それぞれ発心門・修行門・菩提門・涅槃門と名づける(以上『大辞林』)。また、信濃の善光寺というがそれは実は4つの寺の綜合であって、それら夫々の門が四方にあって、それぞれ南命山無量寺、北空山雲上寺、不捨山浄土寺、定額山善光寺への入り口となっているのだという。これを四門というというのである。
 また、四宗は仏教における浄土宗・禅宗・真言宗・律宗など四宗 を指すとか、顕・密・禅・戒の四つを言うといったりする。
 芭蕉がどういう意図で四門四宗を言ったのかは不明だが、善光寺の甍を照らしている 中秋の名月は、これこそ真如の月。善光寺という四門四宗の寺を一つにして明るく照らしていて、ありがたい。
 なお、句の配列は芭蕉と越人が歩いた順ではなく、坂城から次の浅間に行ったはず。


月影や四門四宗もただ一つ」長野刈萱堂往生寺にて。牛久市森田武さん撮影

吹き飛ばす石は浅間の野分かな

 この句には、推敲の跡が無数にある。浅間山の溶岩と同じように余程居座りが悪かったのであろう。以下は、『更科紀行真蹟草稿』に残されたもの。


千曲川から見上げた冠着山(国土地理院発行5万分の1地図からKashimir3Dで筆者作図)


木曽路は全て山の中である。
最上部右端の山脈は南アルプス、左端上部は北アルプス、中央部が中央アルプス。南アルプスと中央アルプスの間の谷間が伊那谷で、北端に諏訪湖が見える。中央アルプスと左(西)側の飛騨山脈にはさまれた谷間が木曽街道。
中津川市上空1万m.から「Kashimir3D」で筆者作成。



(since:97/11/20)