阿羅野脚注

  巻之二  歳旦 初春 當座題 仲春 暮春


曠野集 巻之ニ

 

   歳旦

二日にもぬかりはせじな花の春    芭蕉

たれ人の手がらもからじ花の春   古梵
<たれひとの てがらもからじ はなのはる>。誰かの手を借りたというわけではないのに、心改まってすがすがしい新春になるというのは不思議なことだ。

わか水や凡千年のつるべ縄     風鈴軒
<わかみずや およそせんねんの つるべなわ>。「つるべ」を「鶴」に語呂合わせして、若水を汲む新年のめでたさを寿いだ談林風の句。歳旦ゆえに談林的大袈裟になったか。

松かざり伊勢が家買人は誰      其角
<まちかざり いせがいえかう ひとはだれ>。古今集巻18雑歌下の伊勢の歌「家を売りてよめる」として「明日香川ふちにもあらぬわが宿もせにかはりゆく物にぞありける」を引用している(歌の意は、「ふちにも」は「扶持にもありつけず」のこと、「せにかはりゆく」は銭に変わり行くの意をかけている。明日香川はふちにかけた掛詞。)。家を売った伊勢は残念だろうが、その家を買って新年の松飾をして我が世の春を決め込んでいる幸福者もいるのだろうが、それは一体誰だろう? 其角らしい難解の句。

うたか否連歌にあらずにし肴     文鱗
<うたかいな れんがにあらず にしざかな>。「にし肴」とは蓬莱のこと、海老、勝栗、昆布、とろろ、米などを盆に盛って正月飾りとしたり、賞味したりした。この「にし肴」というものは、古来和歌にも読まれず、連歌でも読まれなかった。つまり俳諧だけの主題だというのだからありがたい。

月雪のためにもしたし門の松     去来
<つきゆきの ためにもしたし かどのまつ>。正月の門松は、正月用というだけでなく、月や雪をめでる道具としても使いたいものです。

かざり木にならで年ふる柏哉     一晶
<かざりぎに ならでとしふる かしわかな>。松柏といって松と柏の木はめでたいものとされ、それゆえ松の木は門松となって伐られてしまうが、柏の木は門飾りにならずに寿命をまっとうできる。

元朝や何となけれど遅ざくら     路通
<がんちょうや なんとなけれど おそざくら>。正月は、世間では新しいとかめでたいとかいうけれど、別にそうも思わない。ただ、遅桜が咲いたときのような気がするのだ。どういう気分かよく分からないが。。。

元日は明すましたるかすみ哉   加賀一笑
<がんじつは あけすましたる かすみかな>。元日の朝、一面に春霞がたっている。昨日とは違う霞の景色はやはり新春を表わしているのだろう。

歯固に梅の花かむにほひかな   大垣如行
<はがために うめのはなかむ においかな>。「歯固」とは、正月の三ケ日に長寿を願って食べた食べ物の総称。如行は、経済的に苦しいので梅の花を採ってきて歯固めとしようと思ったら、なんと口に入れた瞬間の香に陶酔したというのである。

ふたつ社老にはたらねとしの春  岐阜落梧
<ふたつこそ おいにはたらぬ としのはる>。「としの春」というのは厄年のこと。男の厄年40歳をいう。これを「初老」というので「老にはたらぬ」と言ったのは、作者は今年38歳なのである。

若水をうちかけて見よ雪の梅     亀洞
<わかみずを うちかけてみよ ゆきのうめ>。「若水」は、正月に一家のとし男などが汲む水で、これを正月の茶や料理に用いた。また、新婚の若婿にこの水をかけたりした。ここは後者の水。新婚の婿にかけるように若水を梅にかけてやれ。そうすれば匂いを若い婿たちと同じように放つことだろう。

伊勢浦や御木引休む今朝の春     
<いせうらや みきひきやすむ けさのはる>。元禄2年の秋が伊勢の遷宮儀式の年であったのは、『奥の細道』の後、芭蕉が見物に行っているのでよく知られている。さて、遷宮用の木工作業の「御木引き」もめでたい正月三ケ日は休みなのであろう。

ことぶきの名をつけて見む宿の梅   昌碧
<ことぶきの なをつけてみん やどのうめ>。元日に咲いた我が家の梅。名をつけるとすれば「寿」の文字が入らなくては意味が無い。

去年の春ちいさかりしが芋頭     元廣
<こぞのはる はるちいさかりしが いものかみ>。去年の春はあんなに小さかった芋の子が、こんなに大きくなってこの正月の雑煮の芋頭となっている。まことにめでたい。作者元廣<げんこう>については詳細不明。

小柑子栗やひろはむまつのかど    舟泉
<しょうこうじ くりやひろわん まつのかど>。。

とし男千秋樂をならひけり      
<としおとこ せんしゅうらくを ならいけり>。ここに「千秋楽」は謡曲高砂の切のこと。厄年の年男が千秋楽を少し習って有るか無いかの機会のために備えているのである。

山柴にうら白まじる竈かな      重五
<やましばに うらじろまじる かまどかな>。「うらじろ」は歯朶のこと。葉の裏が白いことからそう呼ばれるようになった。正月の柴に裏白が混じっている。これは、正月飾りを作る農民が柴も一緒に持ってきたからであろう。なんとなく晴れがましい気分がする。

松高し引馬つるゝ年おとこ      釣雪
<まつたかし ひきうまつるる としおとこ>。「引馬」は、貴人や位の高いものが外出するときに鞍覆い(緞帳風または相撲の化粧まわしみたいな派手な布)をかぶせてきれいに飾った馬。正月のこととて、その馬を引いているのは年男なのであろう。

月花の初は琵琶の木どり哉      
<つきはなの はじめはびわの きどりかな>。「月花」は華やかなことの象徴として使われている。琵琶の型に木どりをしたものが、やがてあの美しい音を奏でるようになるのであろう。

連てきて子にまはせけり萬歳樂    一井
<つれてきて こにまわせけり まんざいらく>。何時も来る萬歳師が今年は子供を連れてきて舞わせている。これが後継者なのであろう。あととりができて実にめでたい。

うら白もはみちる神の馬屋哉     胡及
<うらじろも はみちるかみの うまやかな>。歯朶をつかった正月飾り。この神社では馬小屋の中にまで正月飾りをする。それを神馬が噛み切ったのであろう。小屋の中にうらじろの葉が散乱している。

見おぼえむこや新玉の年の海     長虹
<みおぼえん こやあらたまの としのうみ>。海にやってきました。これがまあ新春の海の景色。すがすがしい気分で一杯だ。この有様をいつまでも記憶しておこう。

今朝と起て縄ぶしほどく柳哉     鼠彈
<けさとおきて なわぶしほどく やなぎかな>。「縄ぶし」は、「縄の結び目」、「縄目」のこと。新しい春が来たというので、うれしくなって柳の苗木を縛っておいた縄の結び目を解いてやった。

さほ姫やふかいの面いかならむ    
<さほひめや ふかいのおもて いかならん>。「ふかいの面」は、狂女を表現するのに使われた女性のお面。佐保姫は、春をつかさどる佐保山の女神で、佐保神ともいう。何時になっても年をとらずに毎年やってくる佐保姫よ、お前の顔はあのふかいの面がよいのじゃないか?

蓬莱や舟の匠のかんなくず      湍水
<ほうらいや ふねのたくみの かんなくず>。ここに「蓬莱」は、蓬莱山(中国神仙思想の想像上の山で仙人が住み不老不死の空間)をかたどって松竹梅・鶴亀・尉姥(じよううば)などを配した祝儀などの飾り物。島台。蓬莱台。やがて舟形になった。正月飾りの蓬莱台は盛り沢山の祝いの品が盛り上がっていて、まるで船大工がかんな屑を引っ掻き回したような情景だ。

佛より神ぞたうとき今朝の春    とめ
<ほとけより かみぞとうとき けさのはる>。まことに日本人の宗教観というものは不徹底で正月は神様、盆は仏様。

のゝ宮やとしの旦はいかならん    朴什
<ののみやや としのあいたは いかならん>。「のの宮」は、『源氏物語』の野宮のこと。六條御息所を光源氏が訪ねたあとの秋の淋しさが主題である。しかし、その野宮といえども正月元旦の朝(旦)ともなれば、きっとそれなりに華やぐのであろう。朴什<ぼくじゅう>については詳細不詳。

かざりにとたが思ひだすたはら物   冬文
<かざりにと たがおもいだす たわらもの>。「たわら物」は、干しアワビとかイリコなどの正月飾り。これらは俵に詰めて搬送されたので俵物という名がついたとされる。こういう物を正月飾りの蓬莱台に載せようと思いついた人は誰なんだろう。

正月の魚のかしらや炭だはら     傘下
<しょうがつの うおのかしらや すみだわら>。よく分からない句。

けさの春寂しからざる閑かな     冬松
<けさのはる さみしからざる しずかかな>。新春の朝。実にしずかだが、それでいて寂しくないのはこの充実感のためであろう。

あいあいに松なき門もおもしろや   柳風
<あいあいに まつなきかども おもしろや>。「あいあい」は、「ところどころに」の意。正月街中を歩いているとどこもかしこも門松が立っているが、ところどころに無い家もある。これがおもしろい。

大服は去年の青葉の匂哉       防川
<おおぶくは こぞのあおばの においかな>。「大服」は、正月の若水で沸かしてお茶を入れ、それに梅干を入れてのむ祝祭用のみもの。この「大服」の緑の香は、去年の春の新茶の緑の香なのだ。

鶯の聲聞まいれ年おとこ     犬山昌勝
<うぐいすの こえききまいれ としおとこ>。正月の主人公は、なんといってもその年の年おとこ。だから、鶯の初音が有ったのか無かったのか、年おとこよ聴いて来て教えておくれ。勿論、鶯の初音を聞く役割が年おとこに有るわけが無いのにこう言ったのが俳諧なのである。作者昌勝<しょうしょう>については不明。

傘に齒朶かゝりけりえ方だな     夕道
<からかさに しだかかりけり えほうだな>。「え方棚」は、正月の飾り付けをする棚。しめ縄で飾るが、そこに歯朶の乾燥したのが飾られる。その棚飾りが門口にでもあれば出入りに際に笠などが触れたであろう。

袖すりて松の葉契る今朝の春     梅舌
<そですりて まつのはちぎる けさのはる>。正月の門松には、袖が触れることで長寿が約束されるという契約があるのである。本当は邪魔な門松だが、今朝ばかりはその邪魔さがうれしい。梅舌は若い人なのにちゃんと故事来歴に通じているのが感心だ。

たてゝ見む霞やうつる大かゞみ    野水
<たててみん かすみやうつる おおかがみ>。正月の鏡餅。鏡餅というのだから何か写るのかもしれない。そうだ、立ててみたら初春の初霞が写るやも知れない。

曙は春の初やだうぶくら       
<あけぼのは はるのはじめや どうぶくら>。「どうぶくら」は、両端がくびれて真ん中が膨らんだ水戸納豆のような構造のこと。転じて最高潮に達したことの表現。清少納言の言うように「春はあけぼの」なのだが、わけても正月を迎えた新春のあけぼのが何と言っても最高によい。

はつ春のめでたき名なり賢魚ゝ    越人
<はつはるの めでたきななり かつおいお>。カツオとは、縁起のいい名前の魚で、正月にぴったりだ。だから春の季題であるべきだが、なぜだか夏の季語になっている。

初夢や濱名の橋の今のさま      
<はつゆめや はまなのはしの いまのさま>。「濱名の橋」は浜名湖にかかる橋で、現在では湖と海が連続しているため長大な橋になっているが、15年ごろまでは浜名湖は閉鎖湖だったといわれている。短い橋で渡れたのである。古来歌枕であったが、この時代には旅人は渡し舟で往来していた。一句は、正月の初夢にいい夢を見ようとて、宝船などの絵を枕の下に入れて寝る。すると消えてしまった浜名の橋同様、ご利益は有るのか無いのか、分からない。

しづやしづ御階にけふの麥厚し    荷兮
<しずやしず みはしにきょうの むぎあつし>。田舎の新春。うぶすながみを祭る神社のきざはしに麦がうず高く積られている。米でなく麦となっているところが俳諧。上五の「しづやしづ>は、常盤御前の「賤やしづ賤のおだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」の調子を借用した。

萬歳のやどを隣に明にけり      
<まんざいの やどをとなりに あけにけり>。「萬歳」は、正月門口で縁起のよい口上を述べながら舞を披露する門付け芸人のこと。その萬歳が我が家の隣に宿泊しながらまわるらしく泊まっている。これと一緒に新春を迎えた。去来に「萬歳や左右にひらいて松の蔭」という名句がある。

巳のとしやむかしの春のおぼつかな  
<みのとしや むかしのはるの おぼつかな>。西行の歌「おぼつかな春は心の花にのみいづれの年かうかれそめけり」から取ったか? 今年は巳の年だというのだが、西行と同じで春と聞けば花のことばかり気になっていたらしく、過去のことなど皆忘れてしまっている。だから、巳の年であるかどうか、私は本当は知らないのだ。

我は春目かどに立るまつ毛哉    般斎
<われははる めかどにたつる まつげかな>。この「まつ毛」は、逆さ睫毛のことで実にチクチクと目の縁を刺して痛いのである。世間では門松を門の前に立てるのに、私はさかさまつ毛を目の前に立てちゃったよ。談林の典型的な句。

我等式が宿にも来るや今朝の春    貞室
<われらしきが やどにもくるや けさのはる>。これは安原貞室の寛文12年の歳旦句の転載。「我等式」は、私たちがごとき卑しい者という意味の自己を卑下した表現。私たちがごとき卑しい者達にも平等に新春はめぐってくる。有り難いことじゃ。


   初春

若菜つむ跡は木を割畑哉       越人
<わかなつむ あとはきをわる はたけかな>。春の七草を摘んだこの畑。しばらくは未だ畑仕事は無いので、薪割り仕事にでもつかうのだ。新春から本格的農繁期までの間はまだ一月、稲の苗床を作る時候までは百姓は一年中で一番のんびりできたのである。

精出して摘とも見えぬ若菜哉     野水
<せいだして つむともみえぬ わかなかな>。初春最初の農作業が若菜摘みでオトソ気分が抜けない。それだけにのどかな雰囲気を残している若菜摘み。

七草をたゝきたがりて泣子哉   津島俊似
<ななくさを たたきたがりて なくこかな>。七草粥は春の七草などを入れて炊いた粥であるが、その七草をまな板の上で刻むときに、「もろこしの鳥と日本の鳥・・・」などと叫びながら家族総出で棒で叩いたといわれている。これを見ていた幼子が自分にもやらせろと言って泣き叫ぶ。どこにもある光景だったのだろう。

女出て鶴たつあとの若菜哉    加賀小春
<おんなでて つるたつあとの わかなかな>。鶴が餌場にしている畑に女たちが若菜を摘むために入っていく。驚いた鶴は飛び立って行く。

側濡て袂のおもき礒菜かな      藤羅
<そばぬれて ふもとのおもき いそなかな>。「磯菜」は、古代には若菜は野で摘んだのではなく磯で摘んだといわれている。磯に野菜があったのか、磯の海草を磯菜と呼んだのかはよく分からない。ただ、これを摘むとなると海は荒れていたであろうし、着ているものはづるづるしていたであろうから、さぞや袂が濡れたことであろう。

吾うらも残してをかぬ若菜哉   岐阜素秋
<わがうらも のこしておかぬ わかなかな>。若菜摘みは、田や畑の所有者に無関係に天下御免で採取できる。裏の畑に大勢の若菜摘みの女たちが入り込んでみんな摘んで行ってしまった。うれしいやら悲しいやら?

石釣てつぼみたる梅折しけり     玄察
<いしつりて つぼみたるうめ おりしけり>。「石釣」とは、紐の先に石をつけてそれを投げて遠方の枝に巻きつける。紐を引き付けると枝についているものを取ったり折ったりすることができる。筆者も、柿や石榴や栗など、山のアケビなどはこうして採集したものだ。ここでは作者は脹らんではいるが未だ開花していない蕾の梅の小枝を折ったというのである。

鷹居て折にもどかし梅の花      鴎歩
<たかすえて おるにもどかし うめのはな>。鷹狩の帰り道。きれいな梅の花が咲いている。一枝折りたいのだが鷹を抱いているために体が自由にならない。

むめの花もの氣にいらぬけしき哉   越人
<むめのはな ものきにいらぬ けしきかな>。梅の花の凛とした美しさは、万事が不満の人の態度に何処か似ている。

藪見しれもどりに折らん梅の花    落梧
<やぶみしれ もどりにおらん うめのえだ>。「見しれ」はきちっと区別して記憶しておくこと、判別しておくこと。この薮はきちっと覚えておこう。帰り道ではここの梅を一枝折っていくから。

梅折てあたり見廻す野中かな     一髪
<うめおりて あたいみまわす のなかかな>。梅を折るまでは無我夢中であったが、折って自分のものになったらゆとりができて辺りを見まわすようにまでなった。

華もなきむめのずはいぞ頼もしき   冬松
<はなもなき むめのずはいぞ たのもしき>。「づはい」は抹消の小枝または若枝。梅の小枝では元気の良い枝は花をつけない。そういう小枝の元気さは生命力を感じさせて末頼もしい。

みのむしとしれつる梅のさかり哉   蕉笠
<みのむしと しれつるうめの さかりかな>。今を盛りと咲いている梅の枝d、なぜか花の無い小枝がある。よくよく見れば、それは梅の小枝ではなくて蓑虫の蓑だった。

網代民部の息に逢て
梅の木になをやどり木や梅の花    芭蕉

うぐひすの鳴そこなへる嵐かな  長良若風
<うぐいすの なきそこなえる あらしかな>。早春の嵐に調子が狂ったのか、初音の鶯が調子をはずして啼く。作者若風<じゃくふう>については詳細不明。

鶯の鳴や餌ひろふ片手にも      去来
<うぐいすの なくやえさひろう かかてにも>。鶯の鳴き声というのはひたすら心血を注ぎながら啼いているとばかり思っていたが、餌を拾いながらその片手間でも啼くのだ。「片手にも」という下五が俳諧。

あけぼのや鶯とまるはね釣瓶   伊賀一桐
<あけぼのや うぐいすとまる まねつるべ>。春のあけぼのの刻限。撥ね釣瓶に鶯がとまって啼いている。

鶯にちいさき藪も捨られじ    津島一笑
<うぐいすに ちいさきやぶも すてられじ>。鶯の巣は薮の中にあるという。我が家の小さな薮だがそれが鶯の栖になると思えばむげに刈り取ってしまえない。風流と動物愛護の原点。

うぐひすの声に脱たる頭巾哉    市柳
<うぐいすの こえにぬぎたる ずきんかな>。冬の間かぶってきた防寒用頭巾。春告げ鳥である鶯の声が聞こえるかと耳をすますために頭巾を脱ぐ。たしかに鶯の声が聞こえたのでことしも頭巾を脱いだ。

鶯になじみもなきや新屋敷     夢々
<うぐいすに なじみもなきや しんやしき>。去年の春過ぎてから作った新しい家屋敷。この春になって鶯が来てくれないので気がついた。昨春は無かったので鶯達が知らないので警戒しているのだ。

うぐひすに水汲こぼすあした哉    梅舌
<うぐいすに みずくみこぼす あしたかな>。朝、井戸端で水を汲んでいて鶯の声を聴いた。声の方角を探していて気を取られ、桶の水をしこたま足にかけてしまった。

さとかすむ夕をまつの盛かな     野水
<さとかすむ ゆうべをまつの さかりかな>。夕暮れのしずかな村。霞がたなびいて松がおぼろに翳っている。間もなく桜が咲いて人々の関心はすべてそちらに行く。だからこそこの季節松が最も美しい。

行々て程のかはらぬ霞哉       塵交
<ゆきゆきて ほどのかわらぬ かすみかな>。深い霞がたなびいている。何処まで行けども変わらない。

行人の簔をはなれぬ霞かな      冬文
<ゆくひとの みのをはなれぬ かすみかな>。春霞の中を旅人が歩いていく。どこまでもどこまでも霞の中を。

かれ芝やまだかげろふの一二寸    芭蕉

かげろふや馬の眼のとろとろと    傘下
<かげろうや うまのまなこの とろとろと>。陽炎とは、春の風を燃やして空に向かって上っていく火の玉のこと。いま馬の目の辺りをとろとろと燃やしながら空に登っていこうというのであろう。

水仙の見る間を春に得たりけり    路通
<すいせんの みるまをはるに えたりけり>。水仙の花の時期は、現在と随分ずれていて旧暦の11月が旬。それだけに忙しい師走を後ろに控え、また正月になる。忙しい時期でその花を愛でる気持ちになるのは春になってから。そのときには水仙の旬は終わっている。

蝶鳥を待るけしきやものゝ枝     荷兮
<ちょうとりを まてるけしきや もののえだ>。既に木々の枝々は、芽吹きを終えて春の盛りの装いだ。そして蝶でも鳥でもやって来るのを待つばかりという風情だ。


   當座題

さし木
つきたかと兒のぬき見るさし木哉   舟泉
<つきたかと ちごのぬきみる さしきかな>。「さし木」は「挿し木」、つまり生きている小枝を土中に挿して根が出て活着するのを待つ。挿し木をして数日たつと誰でもこれが活着したかどうか見たくなって抜いて見たい衝動に駆られるものだ。ここでは、守役を子供にさせたので見事に引っこ抜いてしまったらしい。しかし、作者とても抜いて見たいであろうから満更でもなさそう?

接木
つまの下かくしかねたる継穂かな   傘下
<つまのした かくしかねたる つぎほかな>。接木をしたがその接ぎ穂も短くて、軒端のつまの下すら隠せないほどの寸法だ。意味深な句だが意味不明の部分あり。

椿
暁の釣瓶にあがるつばきかな     荷兮
<あかつきの つるべにあがる つばきかな>。早朝に井戸水を汲んだら井戸桶の中に椿の花が入っていた。椿は8千年の寿命があるというから、これは吉兆だ。

同(椿)
藪深く蝶氣のつかぬつばき哉     卜枝
<やぶふかく ちょうきのつかぬ つばきかな>。薮椿というくらいで薮の中深くツバキが咲いている。薮が深いので蝶も飛んで来ないが、これも気の利かない話ではないか。椿をひっそりと住む女性に擬人化しているらしい。

春雨
はる雨はいせの望一がこより哉    湍水
<はるさめは いせのもいちが こよりかな>。「望一」は伊勢山田の俳人。寛永20年58歳で没したが、盲人で勾当の地位を受け、寛永年代の俳諧の指導的役割を果たした人。この人は又、盲人は世のためになりにくいので、日頃からこよりを編んで人のために供したという。春雨は木々や草花の芽や花を伸ばすので、望一と同じように見えないところで役に立っているのだ。

同(春雨)
春の雨弟どもを呼てこよ       鼠彈
<はるのあめ おとうとどもを よびてこよ>。春雨は長いから退屈で仕方が無い。ひとつ弟共を呼び集めてこの退屈さを吹き飛ばそう。(呼ばれる弟たちこそ迷惑かも)

  白尾鷹
はやぶさの尻つまげたる白尾鷹    野水
<はやぶさの しりつまげたる しずくかな>。「白尾鷹<しらおだか>」とは、鷹狩のときにハヤブサの尾に白い尾を着ける。その姿が、何だか尻はしょりした人の姿にどこか似ているというのである。

蛛の井に春雨かゝる雫かな      奇生
<くものいに はるさめかかる しずくかな>。「蛛の井」は蜘蛛の井桁の巣のこと。そこに虫ではなくて雨がトラップされて、雫に変わっているというのだ。作者奇生<きせい>について詳細不明。

立臼に若草見たる明屋哉     十一歳龜助
<たてうすに わかくさみたる あきやかな>。「立臼」は、米を精米するときなどに使う木製の臼。一句は、空き家の中に臼が一つ捨てられている。それが腐り始めたのであろう若草が中から生えてきた。作者龜助については天才少年であったのであろうが詳細不詳。

すごすごと親子摘けりつくづくし   舟泉
<すごすごと おやこつみけり つくづくし>。親子が土筆を黙々と摘んでいる。土筆は、摘むことにロマンがないこと、文芸的にもあまり珍重されてこなかったこと、食することに風流や豊かさが無い。

すごすごと摘やつまずや土筆     其角
<すごすごと つむやつまずや つくづくし>。誰かが土筆を摘んでいる。あまり熱心にというわけではないが、ひたすら無表情で摘んでいる。

すごすごと案山子のけけり土筆    蕉笠
<すごすごと かかしのけけり つくづくし>。土筆を摘んでいる者が案山子を押しのけて摘んでいる。案山子など眼中に無いといわんばかりに。

土橋やよこにはへたるつくづくし   塩車
<つちはしや よこにはえたる つくづくし>。土橋の脇には土筆がひょうきんな顔をして生えている。

川舟や手をのべてつむ土筆      冬文
<かわぶねや てをのべてつむ つくづくし>。川舟に乗って岸辺に生えている土筆を採る。これもまた舟遊びの醍醐味の一つだ。

つくづくし頭巾にたまるひとつより  青江
<つくづくし ずきんにたまる ひとつより>。面白半分に、一つ又一つと土筆を摘んでは頭巾に入れていたら思いがけず一杯になってしまった。

蘭亭の主人池に鵞を愛されしは筆意
有故也
池に鵞なし假名書習ふ柳陰      素堂
<いけにがなし かながきならう やなぎかげ>。前詞は、<らんていのしゅじんいけにがをあいされしはひついあるゆえなり>と読む。「蘭亭の主人」とは、中国、東晋<しん>の書家王羲之<おうぎし>のこと。隷書をよくし、楷・行・草の三体を芸術的な書体に完成、書聖と称された。文章もよくし、「蘭亭序」「十七帖」などを著す。その王羲之は、池にガチョウを飼っていたのだが、それはガチョウの動きに運筆の基本が入っていたからであるという。ところで一句は、この池にはガチョウはいない。ただし柳の長い枝が水面に落ちて、風が吹くたびに水面に仮名書を習っている。山口素堂らしい漢学知識の句。

風の吹方を後のやなぎ哉       野水
<かぜのふく かたをうしろの やなぎかな>。柳の枝は四方に落ちていてどこが正面とも裏面ともなってはいない。まして風が吹いてくればどの方角の風にも同じようになびいている。風の吹く方角と反対になびくだけ。逆らわないものの柔軟さだ。

何事もなしと過行柳哉        越人
<なにごとも なしとすぎゆく やなぎかな>。「暖簾に腕押し、柳に風」。実に肩肘張らずに生きている。私も柳のように何事も無しとばかりに自然に生きていこう、と柳の木を離れながら思っている。

さし柳たゞ直なるもおもしろし    一笑
<さしやなぎ ただすぐなるも おもしろし>。「さし柳」は挿木の柳。柳の枝を一本地面に挿して挿し木をしている。あのたおやかな柳と違って無骨に一本立っているのが面白い。

尺ばかりはやたはみぬる柳哉     小春
<しゃくばかり はやたわみぬる やなぎかな>。一尺ばかりの小さな柳の木。そこから出ている枝はまだ短いのに、はやくも撓んでみせる。栴檀は双葉よりかんばしとでもいうのか。

すがれすがれ柳は風にとりつかむ   一笑
<すがれすがれ やなぎはかぜに とりつかん>。柳の枝は風を捕まえる名人である。だから柳の枝にすがっていればそのまま風を捕まえられる。

とりつきて筏をとむる柳哉      昌碧
<とりつきて いかだをとむる やなぎかな>。上流から流してきたいかだが、水面まで達した柳の枝に視界をさえぎられて止めざるを得ない。まるで柳の木が停止させているみたいだ。

さはれども髪のゆがまぬ柳哉     杏雨
<さわれども かみのゆがまぬ やなぎかな>。柳の枝は女性の髪に譬えられる。これもその例。柳が風にあおられてもすぐに元に戻ってその髪は崩れてしまうことが無い。

みじかくて垣にのがるゝ柳哉     此橋
<みじかくて かきにのがるる やなぎかな>。通りに面した垣根越しに一本の柳の木がある。その枝は垣根越しに道に出ては来るのだが未だ丈が短くて、枝を取ろうとすると風に吹かれて向こうへ行ってしまう。作者の此橋<しきょう>については詳細不詳。

ふくかぜに牛のわきむく柳哉     杏雨
<ふくかぜに うしのわきむく やなぎかな>。一陣の風に柳の枝がゆれて牛の顔をなでる。牛はうさんくさそうにゆっくりと顔をそむける。

吹風に鷹かたよするやなぎ哉     松芳
<ふくかぜに たかかたよする やなぎかな>。柳の下につながれた鷹だろうか? 柳の枝が風で吹かれて鷹の顔を横切ろうとするやいなやきっと身構えるその敏捷さ。前句との対照性を強調して並べた。

かぜふかぬ日はわがなりの柳哉    挍遊
<かぜふかぬ ひはわがなりの やなぎかな>。風が吹けば風に吹かれて融通無碍に形を変える柳の木。しかし、無風の日には自分の姿でしっかりと立っている。どちらが本当なのだ? 作者挍遊については詳細不詳。

いそがしき野鍛冶をしらぬ柳哉    荷兮
<いそがしき のかじをしらぬ やなぎかな>。三国時代の魏の文人康<けいこう>は、例の竹林の七賢人だが、夏になると柳の木の下で野鍛治が涼しいといって鍛冶屋の仕事をしたといわれている。今見ると、ここにも柳の下で忙しそうに野鍛治をやっている男がいるが、まさか賢人ではあるまい。だから柳の木も彼のことを知るまい。

蝙蝠にみだるゝ月の柳哉       
<こうもりに みだるるつきの やなぎかげ>。春の夜の柳かげ。風が全く無いので柳の枝はじっと垂れ下がったままで微動だにしない。ただ時折、こうもりがそばを飛んでその風に煽られるのか月影にかすかに揺れることがある。

青柳にもたれて通す車哉       素秋
<あおやぎに もたれてとおす くるまかな>。川淵の細い一本道で車がすれ違う。なんせ狭いものだから一台の車が通るのがやっとなのだ。そこで青柳にもたれるように体を預けてやり過ごす。

引いきに後へころぶ柳かな      鴎歩
<ひくいきに うしろへころぶ やなぎかな>。「引くいき」は「引く勢い」のこと。風が吹いて一方へなびいた柳の枝は風が止むと元に戻らずに行き過ぎてさっきとは後ろの方に行き過ぎる。これが人なら後ろへ転ぶことになるだろう。

菊の名は忘れたれども植にけり    生林
<きくのなは わすれたれども うえにけり>。菊を植える季節がやってきた。くやしいことに肝心の菊の名前を忘れてしまった。しかしいま植えないと秋に楽しめない。だから名無しの菊を植えました。


   仲春

麥の葉に菜のはなかゝる嵐哉     不悔
<むぎのはに なのはなかかる あらしかな>。春風が強く吹いて菜の花をたわませている。それが青い麦に倒れ掛かっている。作者不悔<ふかい>については詳細不詳。

菜の花や杉菜の土手のあいあいに   長虹
<なのはなや すぎなのどての あいあいに>。土手にはスギナが青々と茂っている。その向こうに菜の花畑が、そしてまたその向こうには又スギナの土手がある。

なの花の座敷にうつる日影哉     傘下
<なのはなの ざしきにうつる ひかげかな>。南側に開いた広大な菜の花畑。そこから反射する光が表に面した部屋の天井を照らす。春の真っ盛りの昼下がり。

菜の花の畦うち残すながめ哉     清洞
<なのはなの うねうちのこす ながめかな>。田おこしの作業が始まったが、菜の花畑だけは手付かずで残っているので、花の眺めは当分楽しめそう。作者清洞<せいどう>については詳細不詳。

うごくとも見えで畑うつ麓かな    去来
<うごくとも みえではたうつ ふもとかな>。遠くの高い山から麓の畑の農民の作業を見ている。それは全然動いていないようでありながら、やがてみると一面黒々と色が変わって畑の土おこしがはかどっている。

万歳を仕舞ふてうてる春田哉     昌碧
<まんざいを しもうてうてる はるたかな>。作者は尾張の人だから三河万歳であろうか。万歳で出稼ぎに行っていた百姓たちもみんな帰ってきて田おこしの作業が始まった。

つばきまで折そへらるゝさくらかな  越人
<つばきまで おりそえらるる さくらかな>。あまりきれいなので通りがかりの家の桜の枝を一枝所望したところ、椿も添えてくれた。うれしいやら悲しいやら??

広庭に一本植しさくら哉       笑艸
<ひろにわに ひともとうえし さくらかな>。広い庭にただ一本だけが桜の木が植えられている。この桜にすべてをかけようというこの屋敷の主人の心意気が伝わってくる。笑艸<しょうそう>については不詳。

ときどきは蓑干すさくら咲にけり   除風
<ときどきは みのほすさくら さきにけり>。普段の生活では慣れ親しんで、濡れた蓑などを干すのに枝を利用させてもらっている桜の木。その桜に見事に神々しいばかりの花が咲いた。普段の扱いが申し訳なくなってくる。

手のとヾくほどはおらるゝ桜哉    一橋
<てのとどく ほどはおらるる さくらかな>。道端の桜の木。人の手の届く範囲の花は折られてきれいに無くなっている。なんとまあ!?! 一橋<いっきょう>は出羽の人。

うしろより見られぬ岨の桜哉     冬松
<うしろより みられぬそわの さくらかな>。岨<そば、古語ではそわ>とは絶壁のこと。絶壁に咲いている桜の花はこちら側だけが見られるが、向こう側には行けないので永久に見られることがない。残念だ。

すごすごと山やくれけむ遅ざくら   一髪
<すごすごと やまやくれけん おそざくら>。遅桜の満開の山が夕陽に包まれて暮れていく。その美しいこと。しかし、桜が無かったらこの山はどう見えるのであろうか?

はる風にちからくらぶる雲雀哉    野水
<はるかぜに ちからくらぶる ひばりかな>。強く吹いている昼下がりの春風の中を雲雀が天高く上っていく。まるで春風と力くらべをしているみたいに元気に上昇していく。

あふのきに寝てみむ野邊の雲雀哉   除風
<おおのきに ねてみんのべの ひばりかな>。「あふのき=仰き」であおむくこと。天をむいて雲雀を見ていると首が疲れてしまう。いっそのこと春の野辺に寝そべって見ていたらよほど疲れないだろう。

高声につらをあかむる雉子かな    一雪
<たかごえに かおをあかむる きぎすかな>。雉子の顔がなぜあんなに赤いかといえば、雉子は鳴くときに全身に力を込めて顔を真っ赤にしながら「ケーンケーン」と鳴くので、あんなに赤くなったのだ。

行かゝり輪縄解てやる雉子哉     塩車
<ゆきかかり わなときてやる きぎすかな>。「輪縄」は罠のこと。通りがかりに罠に捕らえられた雉子を見つけた。かわいそうなので罠をはずして逃がしてやった。「焼け野のきぎす」というのを思い出したのであろう。

手をついて歌申あぐる蛙かな    山崎宗鑑
<てをついて うたもうしあぐる かわずかな>。古今集序に「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とあるように、蛙のキーワードは歌詠みなのである。あの真面目に前足をついてゲロゲロ言っているのは歌を詠んでいる姿なのだ。

鳴立ていりあひ聞ぬかはづかな    落梧
<なきたてて いりあいきかぬ かわずかな>。入相の鐘の音が陰にこもって寂しくなっているというのに、蛙たちはお互い鳴きたてて一向に耳を傾けない。

あかつきをむつかしさうに鳴蛙    越人
<あかつきを むつかしそうに なくかわず>。夜の蛙、雨夜の蛙、夕蛙などというのはあるが、古来暁の蛙というのはあまり無い。そのことを揶揄して「むつかしそうに」と言ったのが俳諧なのであろう。

いくすべり骨おる岸のかはづ哉    去来
<いくすべり ほねおるきしの かわずかな>。石垣を這い上がろうとする蛙。何度も何度もすべって池の中に落ちる。それでもめげずに這い上がろうとしている。

飛入てしばし水ゆく蛙かな      落梧
<とびいりて しばしみずゆく かわずかな>。水の中に飛び込んだ蛙。そのまま四肢を投げ出して水上を滑っていく。

不図とびて後に居なをる蛙哉    津島松下
<ふととびて のちにいなおる かわずかな>。ぴょんと高く飛び上がった蛙。そのまま続けてぴょんぴょんと飛んでいくのかと思いきや、手足をもぞもぞさせて居ずまいを作って止まってしまった。拍子抜けの滑稽さ。

ゆふやみの唐網にいる蛙かな      一井
<ゆうやみの とうあみにいる かわずかな>。夕暮れ時に川で投網を打っていると、もっぱら蛙が網にかかってくる。鈍重な蛙のことだから仕方ないが、それを捕まえて逃がすだけでも面倒くさい。

はつ蝶を兒の見出す笑ひ哉      柳風
<はつちょうを ちごのみいだす わらいかな>。鶯やホトトギスの初音のように初物を喜ぶ中に蝶は入ってはいない。だから大人は気づかないのだがかえって新鮮な感覚を持っている子供たちの方が敏感で、それを称えた句。

椶櫚の葉にとまらで過る胡蝶哉    梅餌
<しゅろのはに とまらですぎる こちょうかな>。椶櫚の樹の前を蝶が飛んでいる。おや?椶櫚にとまるのかなと思ってみていると、そのまま過ぎて行ってしまった。

かやはらの中を出かぬるこてふかな  炊玉
<かやはらの なかをでかぬる こちょうかな>。ぼうぼうとした芦の原の中に蝶が迷い込んでいる。それが草の葉や木の枝に邪魔されて中々出てこられない。

かれ芝や若葉たづねて行胡蝶     百歳
<かれしばや わかばたずねて ゆくこちょう>。枯れ草の中にいた蝶ちょが飛び立った。春の新鮮な若葉を求めて旅立ったのであろう。なにやら男女の恋のにおいもする一句。


   暮春

何の氣もつかぬに土手の菫哉     忠知
<なにのきも つかぬにどての すみれかな>。土手の「スミ」にスミレが咲いている。誰も気のつかないような土手のスミ(隅)に。隅と董を語呂合わせしたところが談林風のアチャラカ風の手柄だった頃の作品。

ねぶたしと馬には乗らぬ菫草     荷兮
<ねぶたしと うまにはのらぬ すみれぐさ>。春の昼下がりは馬で行くと眠くなって落馬するぐらいが関の山。徒歩で歩けばこそこうして董草に会うこともできた。

ほうろくの土とる跡は菫かな     野水
<ほうろくの つちとるあとは すみれかな>。「ほうろく」は素焼きの浅い土鍋。穀類や茶などを炒ったり蒸し焼きにしたりするのに用いる。ほうらくともいう。(「大字林」)その陶土を採取した場所は赤土をさらけ出しているのだが、そこにはやばや董草が咲いている。

晝ばかり日のさす洞の菫哉      舟泉
<ひるばかり ひのさすほらの すみれかな>。昼間に少しだけ陽がさすだけの洞穴の入り口にスミレが咲いている。栄華の過去から落魄した今を際立たせるテキストとして董は使われる。

草刈て菫選出す童かな        鴎歩
<くさかりて すみれよりだす わらわかな>。少年が草を刈っている。ただ一心不乱に草刈をしているのかと見ていると、刈り終えた場所にはスミレがちゃんと咲いている。少年は董の花だけはよけて草を刈っていたのだ。

行蝶のとまり残さぬあざみ哉     燭遊
<ゆくちょうの とまりのこさぬ あざみかな>。蝶が不恰好な飛び方をしながら遠ざかって行く。よく見ているとちゃんとアザミの花にはすべて止って蜜を採集していく。作者燭遊<しょくゆう>については詳細不詳。

麥畑の人見るはるの塘かな      杜國
<むぎはたの ひとみるはるの つつみかな>。初夏の麦畑で人々は忙しそうに働いている。その情景を私は堤上で眺めている。のどかな田園風景。

はげ山や朧の月のすみ所     大坂式之
<はげやまや おぼろのつきの すみどころ>。おぼろ月の夜、何処もかしこもぼーっとしているのだが、禿山だけは妙にくっきりと見える。あそこは月が澄んで見える場所じゃないか? 

ほろほろと山吹ちるか瀧の音     芭蕉

松明にやま吹うすし夜のいろ     野水
<たいまつに やまぶきうすし よるのいろ>。松明にうつし出される山吹の色の冴えないこと。やっぱり山吹は清流と緑の中にあってこそだ。

山吹とてふのまぎれぬあらし哉    卜枝
<やまぶきと ちょうのまぎれぬ あらしかな>。春の嵐に山吹の花がチリジリに舞い上がっている。喋々も一緒に風に吹き上げられていて、山吹なのか蝶なのか見分けがつかない。

一重かと山吹のぞくゆふべ哉   岐阜襟雪
<ひとえかと やまぶきのぞく ゆうべかな>。夕闇迫る頃には黄色い色というのは最も目に付く色なのである。だから、○通のトラックは黄色にして夕方の交通事故を警戒したのである。一句は、鮮やかな山吹にきっと八重だろうと思って近付いてみたら、案に相違して一重だった。それほどに輝いて見えたというのである。作者襟雪<きんせつ>については岐阜の人という以上に詳細不詳。

とりつきてやまぶきのぞくいはね哉 蓬雨
山吹が咲いている場所といえば滝の近くの絶壁などというのが通り相場である。崖に取り付いて花を見るというのが普通の光景だ。作者蓬雨<ほうう>については岐阜の人という以上に詳細不詳。

あそぶともゆくともしらぬ燕かな   去来
<あそぶとも ゆくともしらぬ つばめかな>。つばめが飛んでいる。あっちに飛び、こっちに飛ぶ。遊んでいるのかふざけているのかまるで分からない。答えは、ツバメは遊んでいるのではない、餌を採っているのである。

去年の巣の土ぬり直す燕かな     俊似
<こぞのすの つちぬりなおす つばめかな>。今年も元気にツバメが戻ってきた。去年の古巣の土壁を塗り直している。

いまきたといはぬばかりの燕かな   長之
<いまきたと いわぬばかりの つばめかな>。ツバメが帰ってきた。忙しそうに家を直している。今着いたばかりで忙しいと言っているようで面白い。作者長之<ちょうし>については詳細不詳。

燕の巣を覗行すゞめかな       長虹
<つばくらの すをのぞきゆく すずめかな>。年中家の周り住んでいるスズメにしてみればたまにやってくるツバメがどんな家に棲んでいるのかは大変興味深い。だから一軒一軒覗いて歩く。

黄昏にたてだされたる燕哉      鼠彈
<たそがれに たてだされたる つばめかな>。家の中に巣を作ったツバメはしばしば夕暮れに閉め出されてしまう。家人もうっかりなのだが仕方が無い。

友減て鳴音かいなや夜の鴈      且藁
<ともへりて なくねかいなや よるのかり>。みんな殆ど北に帰ってしまって仲間も少なくなった雁、呼び声に返す鳴き声も段々元気なくなっていく。

角落てやすくも見ゆる小鹿哉     蕉笠
<つのおちて やすくもみゆる こじかなか>。春になって角の落ちた小鹿の頭は丸坊主。この方が優しげに見えてたのもしい。

なら漬に親よぶ浦の汐干哉      越人
<ならづけに おやよぶよぶ しおひかな>。親たちは一生懸命潮の引いた海で貝を採っている。昼を持ってきた子供が、奈良漬のご飯ができたと大声で呼んでいる。

おやも子も同じ飲手や桃の酒     傘下
<おやもこも おなじのみてや もものさけ>。桃の節句の清めの酒。女の節句なので母親と娘たちが同じように慣れない手つきで雛の酒を飲んでいる。

人霞む舟と陸との汐干かな    三輪友重
<ひとかすむ ふねとくがとの しおひかな>。大潮の干潟。海は遥かに遠く沖合いに消え、陸は遥かに沖まで伸びた。潮干狩りの人たちも沖の船もみんなまばらに霞んで見える。作者友重<ゆうじゅう>については詳細不詳。

山まゆに花咲かねる躑躅かな     荷兮
<やままゆに はなさきかねる つつじかな>。ツツジの蕾に山繭が糸を巻きつけてしまって開けなくなってしまった。「山まゆ」とは天蚕<てんさん>といって、みどりや黄色の糸を紡ぐカイコのこと。

朧夜やながくてしろき藤の花     兼正
<おぼろよや ながくてしろき ふじのはな>。朧月夜のぼーっとした光の中に藤の花が白けて長く垂れているのが見える。作者兼正<けんせい>については未詳。

かがり火に藤のすゝけぬ鵜舟かな   亀洞
<かがりびに ふじのすすけぬ うぶねかな>。昼を欺くような鵜舟のかがり火。そのかがり火の松明に連夜照らされている川岸の藤の花。煤けもしないで鮮やかに咲いている。

永き日や鐘突跡もくれぬ也      卜枝
<ながきひや かねつくあとも くれぬなり>。春の日は長い。入相の鐘はとおに鳴ったというのに、その鐘撞堂の辺りがまだ陽がさしている。

永き日や油しめ木のよはる音     野水
<ながきひや あぶらしめぎの よわるおと>。菜種油を絞るには、麻袋の中に菜種を入れてそれをしめぎでプレスをかけておく。やがて油が出てきてしめぎは緩む。そのときぎーという眠気を誘う音がする。春の眠気としめぎのまのびした音と。

行春のあみ塩からを残しけり     
<ゆくはるの あみしおからを のこしけり>。「あみ」は、甲殻綱アミ目のエビに似た節足動物の一群の総称。体長1〜2センチメートル。体は透明。雌には哺育嚢(ほいくのう)がある。ほとんどが海産で、日本近海で約一三〇種が知られるが、汽水・淡水にすむ種もある。飼料や釣りのまき餌にしたり、塩辛・佃煮(つくだに)など食用にする(「大字林」)。春の彼岸の頃に作ったあみの塩辛が、初夏の今頃まで食べてきて、残り少なくなってきた。


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