芭蕉db

呂丸(近藤)

<こんどう ろまる>

(〜元禄6年2月2日)

年表Who'sWho/basho


 奥の細道』羽黒山を訪れた芭蕉一行を案内してくれたのが呂丸(露丸とも書いた)。近藤左吉(図司左吉とも)。山形羽黒山麓の手向村<たむけ=とうげとも>の人。羽黒山伏の法衣を染める染色業を営む。元禄6年2月2日、旅の空、京都で客死。芭蕉は追悼句「当帰よりあはれは塚の菫草」を贈る。呂丸宛書簡が2通残る。一通目は『奥の細道』の旅で呂丸と初めて会って世話をしてもらったことへの謝意。通目は元禄5年2月8日。呂丸は、元禄5年9月に芭蕉庵を訪問し、このとき芭蕉から『三日月日記』の稿本を譲り受けている。芭蕉は呂丸に対して好感を持っていたようだ。
 尚、呂丸は『聞書七日草』という書物を残すが、これは羽黒山での芭蕉の教えを記述した書。 芭蕉の俳論「不易流行」が最初に着眼されたのはこの時の呂丸との対話の中といわれている。

email02.gif (1023 バイト)

呂丸宛書簡(元禄2年6月中旬

呂丸宛書簡 (元禄5年2月8日


呂丸の代表作