(出羽三山 元禄2年6月3日〜10日)
出羽神社本殿
羽黒山五重塔(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
六月三日、羽黒山*に登る。図司左吉*と云者を尋て、別当代 会覚阿闍梨に謁す*。南谷の別院に舎して*、憐愍の情こまやかにあるじせらる*。
(ありがたや ゆきをかおらす みなみだに)
(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)
雲の峰幾つ崩て月の山
(くものみね いくつくずれて つきのやま)
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良*
(ゆどのさん ぜにふむみちの なみだかな)
南谷にある「有難や雪をかをらす南谷」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
羽黒町手向三神合祭殿の句碑(同上)
南谷登山道にある句碑。ここには「五月雨やほの三日月の羽黒山」とある。(同上)
雨にけぶる湯殿山(同上)
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句碑(同上)
曾良の句「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の句碑。上の芭蕉の句碑の脇に寄り添って建てられていた。(同上)
図司左吉:近藤氏。染め物屋の主人。俳号は呂丸。『聞書七日草』はこの折の芭蕉の教えを記述した書。 なお、呂丸死去の折の芭蕉の行動は岸本八郎兵衛(公羽)との書簡に詳しい。
別当代会覚阿闍梨に謁す:<べっとうだいえがくあじゃりにえつす>と読む。阿闍梨は法名和合院照寂。天台宗の高僧。参考記事『公羽宛書簡3』 。
南谷の別院に舎して:<みなみだにのべついんにやどして>と読む。この別院は別当寺の別院で高陽院紫苑寺<こうよういんしおんじ>だが、現存しない。
権現に詣:<ごんげんにもうず>と読む。権現は羽黒権現のこと。社伝には、崇峻天皇の第一皇子能除太子が出羽三山を開いたという。
当山開闢能除大師:<とうざんかいびゃくのうじょだいし>と読む。能除大師は、崇峻天皇の第一皇子の蜂子皇子(能除皇子)のこととされている。この皇子が593年羽黒山を開闢したと伝えられているが、伝説であろう。
繁栄長にして、めで度御山と謂つべし:<はんえいとこしなえにして、めでたきおやまといいつべし>と読む。永遠に人々から尊敬され、繁栄して、めでたい山である。
延喜式:弘仁式・貞観式の後を承けて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。五○巻。九○五年(延喜五)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、九二七年(延長五)撰進。九六七年(康保四)施行。( 以上『広辞苑』より)。延喜式にはこういう記事は無い。
書写、「黒」の字を「里山」となせるにや:<しょしゃ、「くろ」のじを「さとやま」と・・>と読む。延喜式に書き写したときに「黒」と書くのを間違えて「里山」と書いてしまったのではないか。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや:<「うしゅうくろやま」をちゅうりゃくして「はぐろさん」というにや>と読む。「羽州黒山」の「州」の字を略して「羽黒山」と言うのではないか?
風土記:七一三年(和銅六)元明天皇の詔によって、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌。完本に近いものは出雲風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略されて残っている。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれたものと区別するため「古風土記」という(広辞苑より) 。出羽の国の風土記は無いので、ここは芭蕉の創作か杜撰。
武江東叡に属して:武江は江戸のこと。江戸にある東叡山寛永寺は、叡山 (天台宗)の関東における本山。羽黒山はその寛永寺配下ということになる。
天台止観:一○巻または二○巻。五九四年、隋の智●(ちぎ)が講述し、灌頂が筆録。天台三大部の一。天台宗の観心を説き修行の根拠となる。止観。天台止観。天台摩訶止観。(広辞苑より)
円頓融通:<えんどんゆづう>と読む。円頓とは、円満にしてかたよらず、時を経ずに速やかに成仏すること。天台宗で、その究極とする教えを指す。融通は、 一定の考え方にとらわれることなく、どんな事態にもとどこおりなく対応できること。(広辞苑より)。
霊山霊地の験効、人貴且恐る:<れいざんれいちのげんこう、ひととうとびかつおそる>と読む。出羽三山の霊験に、人々はこれを尊びながらしかも恐れている、の意。
木綿しめ(注連):<ゆふしめ>と読む。木綿(ゆう)とは、楮(こうぞ)の皮をはぎ、その繊維を蒸し、水にひたして裂いて糸としたもの。主として幣(ぬさ)とし、祭の時に榊(さかき)につけた。また、注連(しめ)には、土地の領有を示し、または場所を限るために、木を立てまたは縄を張るなどして標(しるし)とするもの。しるし。標識(以上『広辞苑』)。月山に登るときの入山装束。紙縷(こより)にてしたる修験袈裟なり(『奥細道菅菰抄』)
日月行道の雲関に入かとあやしまれ:<じつげつぎょうどうのうんかんにいるかとあやしまれ>と読む。「雲関」は天の宮に入る関所で、ここは月山という名称を意識してこう言った。
笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待:<ささをしき、しのをまくらとして、ふしてあくるをまつ>と読む。芭蕉が野宿をしたという記録は無いの で、これは文学的粉飾。
此国の鍛冶:国は出羽の国(山形県)のこと。銘を月山とした初代は、鎌倉時代、出羽の刀鍛治鬼王丸の子といわれている。 「鍛冶」は<かじ>ではなく<たんや>と読むのが正しい。(『管菰抄』)
淬ぐ:<にらぐ>と読む。焼き入れのこと。鋼鉄などを1,300℃以上の高温に加熱し、その後水などをかけて急冷すると鋼鉄の結晶配列が変化し硬度が高くなる。
干将・莫耶のむかし:<かんしょう・ばくや>と読む。『 史記』より、周の王の命令で干将・莫耶の夫婦が三年間呉山に籠って竜泉の水で焼き入れをし、雌雄一対の宝剣を作ったという故事を指す。
炎天の梅花、爰にかをるがごとし:「炎天の梅花」は滅多に無い物のたとえ、したがって、いま見つけた遅咲きの桜が滅多に無いものだ、の意。
此山の微細、行者の法式として他言する事を禁ず:<このやまのみさい、ぎょうじゃのほうしきとしてたごんすることをきんず>と読む。湯殿山の詳細については、行者のつとめとして他言してはいけないことになっているのでここには書かない、の意。
阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書:<あじゃりのもとめによりて、さんざんじゅんれいのくくたんざくにかく>と読む。 以下の3句は、會覚阿闍梨の求めに応じて短冊に認めた。
湯殿山銭ふむ道の泪かな:湯殿山に続く参道にはお賽銭がばらまかれている。それを踏み踏み上る有り難さに涙がこぼれてくる。
全文翻訳
陰暦六月三日、羽黒山に登る。図司左吉を訪ね、彼を通じて羽黒山別当代会覚阿闍梨に会うことができた。南谷別院を宿舎として与えられるなど、別当代の好意、その情こまやかに温かくもてなしてくれた。
四日、別当代の本坊において俳諧興行。
有難や雪をかほらす南谷
五日、羽黒神社に参詣した。この神社を開いた能除大師については、何時の時代の人かさえ分からない。延喜式には「羽州里山の神社」という記述がある。書き写すときに、「黒」という字を「里山」と書き誤ったのではないか。羽黒山というのは、羽州の黒山の「州」の字を省略して羽黒山と言うのではないだろうか。出羽というのは、「鳥の毛羽を此国の貢物に献る」と風土記に書いてあるというから、そこから名付けられたものであろう。
羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山と言う。この寺は、江戸の東叡山寛永寺に属し、天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし、円満にして偏らず、速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し、僧坊は軒を並べて林立。修行が盛んで、霊場としての霊験はあらたか。よって人々の畏れと尊崇を集めている。その繁栄は永遠で、実にめでたい御山というべきである。
八日、月山に登った。木綿しめと呼ばれる修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白布で頭を包み、強力に案内してもらって、雲霧が流れ、山気に満ちた山道を、氷雪を踏んで登ること三十二キロ。さらに、日月の運行する天の関門に入るかと思うほどに恐れながら、息も絶え絶え寒さに凍えた体で頂に登れば、日は沈み、代わって月があかるんできた。笹を寝床に、篠を枕にして、横になって朝を待つ。朝日が出て、雲が消えたので、湯殿山へと下った。谷の傍らに、鍛冶小屋というものがある。出羽の国の鍛治は、霊水を探し、身を清めて剣を打ち、とうとう「月山」という銘を入れて、世の高い評価を得たのである。史記にある干将と莫耶の夫婦が竜泉の霊水で剣に焼きを入れた故事が偲ばれる。一つの道に勝れるための努力の、なんと浅からぬことかがよく分かる。
岩に腰を下ろして、しばらく休んでいる間に、つぼみが半ば開きかけた全高一メートルほどの桜を見つけた。降り積もる雪に埋もれて、それでもなお春を忘れない遅咲きの桜の、花の心がいじらしい。滅多にないものとされる「炎天の梅花」がここにこうして生きて香っていると言わんばかりである。「もろともにあはれと思へ山ざくら花より外にしる人もなし」という行尊僧正の歌のあわれも思い出されて、一層想いを深くした。
なお、山中の仔細は、行者の法として語ってはならないとされているので、これ以上のことは記さない。坊に帰って、阿闍梨の求めに応じて出羽三山順礼の句など短冊に書きとめた。
涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峰幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良