(大石田・最上川 5月28日・29日)
最上川のらん*と、大石田*と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、
芦角一声の心をやはらげ*、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども*、みちしるべする人しなければと*、わりなき一巻*残しぬ。このたびの風流、
爰に至れり*。
最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさ*など云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし*。白糸の
滝は青葉の隙々*に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし
。
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
最上川句碑
初夏の最上川
芭蕉と曾良の像(山形県新庄市本合海)以上3枚、NTTファシリティーズ増田健児さん 提供
山形県北村山郡大石田西光寺の「五月雨を集て涼し最上川」の句碑(牛久市森田武さん撮影)
夏草に覆われて荒れ放題の山形県北村山郡黒滝山向川寺(同上)
白糸の瀧(同上)
芦角一声の心をやはらげ:<ろかくいっせいの・・>と読む。「蘆角」は、辺鄙な田舎という程度の意味、ゆえに、鄙びた俳諧だが人々を慰めることができるの意。
わりなき一巻:俳諧の指導 のため仕方なく俳諧一巻を巻いて与えた。芭蕉にとってこれは、一栄や川水を指導するための「俳諧実習」だったのである。
このたびの風流、ここに至れり。:この旅の俳諧の成果は、このような形 でも実現したのである。草深き東北の地に自分の俳諧理念が伝授された喜びを表す。
いな船といふならし:「最上川上れば下るいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(『新古今和歌集』東歌)から引用。「いな船」は「稲船」で稲を運ぶ舟の意だが、この歌の方の「いな」は「否」の意で、男が女に言い寄ったところ、セックスを拒否するわけではないが、いまちょうど「月」のもの(月経)ゆえに「否」だと断られた、の意。奔放な東歌である。
碁点・隼:<ごてん・はやぶさ>と読む。最上川舟下りの難所。川中に碁石のように暗礁が点在するところからこう言ったという。
全文翻訳
最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。
「こごには古ぐっから俳諧が伝えられでて、いまも俳諧隆盛の昔を慕っで、文字通り『芦角一声』の、田舎の風流でよ、みんなはこいづによって、心ば和ませでいんのよ。今日まで、この俳諧の道を手探りすながら歩んで来たけんど、新旧二づの道のどっつば歩んだらいいんだべが、教えてける先達もいねぇがら」と言うので、やむなく俳諧一巻を巻いた。この度の風流はこういうところにまで至ったのである。
最上川は、同国米沢を源流とし、山形を上流とする川である。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。「みちのくにちかきいではの板じきの山に年へて住ぞわびしき」の歌枕で有名な板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に入る。川の左右が山に覆われているので、まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。この舟に稲を積んだのを稲舟といい、「もがみ川のぼればくだるいな舟のいなにはあらず此月ばかり」と詠われたりしている。白糸の滝は青葉の木々の間に落ち、源義経の下臣常陸坊海尊をまつる仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。
五月雨をあつめて早し最上川