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芭蕉db
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奥の細道
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(立石寺
元禄2年5月27日)
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山寺山上の堂
(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
山形領に立石寺と云山寺*あり。慈覚大師*の開基にして、殊清閑の地也*。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢*よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし*、松栢年旧*、土石老て苔滑に、岩上の院々*扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり*、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞*として心すみ行のみおぼゆ
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(しずかさやいわにしみいるせみのこえ)
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表紙 年表 俳諧書留
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5月27日朝、9時頃尾花沢を出発して、清風の家でチャーターした馬で村山市内まで行く。東根市を通過して、天童市内に入る。夕方4時ごろ山寺に到着。山内を拝観して、山形市まで行く予定であったが、変更して宿坊に一泊。
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立石寺本道(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
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閑さや岩にしみ入蝉の声
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『奥の細道』集中もっとも優れた句の一つ。初案は、「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であり、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい。
この句に関しては古来議論が絶えない。蝉は<春蝉>か?、<にーにー蝉>か?、はたまた<油蝉>か?。また、それは単数なのか、複数なのか、が議論の中心であった。岩の成分や形状にまでは話が及ばなかったのがこの議論の特徴だが、それは「静けさ」を言いながら、「蝉の声」が出てくる日本語の持つ曖昧さに関わっているのかもしれない。(初案にはこの種の矛盾は無いことをみれば、心の中で熟成されていく中にコード中心からコンテキスト中心へと深まっていく文学的特徴があるのかもしれない) 議論の中でも、蝉は<油蝉>だとする斎藤茂吉と、<にーにー蝉>の小宮豊隆との間の議論は白熱したものとして有名。
この句が太陽暦では7月13日の作であり、その頃にはまだ山形では油蝉は出現していないことから、この句の蝉は<にーにー蝉>であったことで両者の間では決着したが、油蝉がこの時期に現れることもあるという報告もあって議論再燃の機会は十分にある。単数か複数かも、つまるところこの句の鑑賞者のテキスト理解の問題だが、そういう物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。
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「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)
立石寺と云山寺:
<りゅうしゃくじというやまでら>と読む。山寺はこの土地の名前であると同時に寺の通俗的呼び名。現在でも「やまでら」と呼ばれている。天台宗宝珠山立石寺<
りっしゃくじ(古くはりゅうしゃくじ)>。仙台・山形間を結ぶJR東日本仙山線山寺駅下車。徒歩1,2分。
慈覚大師:平安時代初期の天台宗の高僧。
殊清閑の地也:<ことにせいかんのちなり>と読む。
尾花沢:山形県北東部の田園都市。紅花産地として有名。
岩に巌を重て山とし:<いわにいわおをかさねてやまとし>と読む。立石寺は全山花崗岩の岩で出来ている。
松栢年旧り:<しょうはくとしふり>と読む。松やヒノキ・シンパクなどの年老いた樹木のこと。
岩上の院々:<がん
しょうのいんいん>と読む。立石寺には、観明院・性相院などを含めて12院が有ったという。
岸をめぐり:岸ではなく崖である。
寂寞:<じゃくまく>と読む。静かな様をいう。
全文翻訳
山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、俗世間から隔たった、静かな寺である。一見するように人々が勧めるので、尾花沢から取って返してここを訪れた。その間、約三十キロほど。到着後、まだ陽が残っていたので、麓の坊に宿を借りておいて、山上の御堂に上った。
岩に巌を重ねて山となしたというほどの岩山で、松柏は年輪を重ね、土石も古く苔は滑らか。岩上の観明院・性相院など十二院は扉を閉じて、物音一つしない。崖をめぐり、岩を這って、仏閣を拝む。その景は静寂にして、心の澄みわたるのをおぼえる。
閑さや岩にしみ入蝉の声