S18
此ハさるミの二三年前の吟也*。先師曰、この句いま聞人有まじ*。一兩年を待べしと也。その後杜國が徒と吉野行脚したまひける道よりの文に*、或ハ吉野を花の山といひ*、或ハ是はこれハこれはとばかりと聞えしに魂を奪はれ*、又ハ其角が櫻さだめよといひしに氣色をとられて*、吉野にほ句もなかりき。只一昨日ハあの山こえつと、日々吟じ行侍るのミ也*。その後此ほ句をかたり、人もうけとりけり。今一兩年はやかるべしとハ、いかでかしり給ひけん。予ハ却つてゆめにもしらざる事なりけり*。
此ハさるミの二三年前の吟也:「猿蓑」は元禄3年だから、去来がこの句を詠んだのは貞亨4,5年ということになる。まさに芭蕉の「笈の小文」の旅の折にタイミングよく去来はこれをつくり、芭蕉に伝えたのである。
先師曰、この句いま聞人有まじ:<せんしいわく、このくいまきくひとあるまじ>。句の新しさが分かる人がいないので、評価は2、3年先になるだろう、の意。芭蕉の直感。
その後杜國が徒と吉野行脚したまひける道よりの文に:<そのごとこくがともからとよしのあんぎゃしたまいけるみちよりのふみに>。杜国と共に吉野を旅した『笈の小文』の旅のこと。
吉野を花の山といひ:後京極摂政藤原良経の歌「昔たれかかる桜の種うゑて吉野を花の山となしけむ」(新勅撰和歌集)を指す。『笈の小文』参照。
其角が櫻さだめよといひしに氣色をとられて:其角の句「明星や桜定めぬ山かづら」の句のことなどが思いやられて。以上は、芭蕉が吉野行脚で句を作らなかったことの言い訳。芭蕉は、松島でも句を作らなかった。
只一昨日ハあの山こえつと、日々吟じ行侍るのミ也:吉野の旅を通じて芭蕉は作句をしないで、ひたすら「一昨日はあの山越えつ」と吟じながら旅をしたのでした。
予ハ却つてゆめにもしらざる事なりけり:芭蕉が言ったとおりあれから2、3年してこの発句は世間から高い評価を得ているが、当の自分としてはこのような経緯を辿るなどとは夢にも想像できなかったことであった。