鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
<とびのはも かいつくろいぬ はつしぐれ>。「かいつくろいぬ」は、羽づくろいのこと。初時雨に濡れたトビの
羽根は羽づくろいしたように光っている。猿蓑巻頭の芭蕉の発句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」に呼応している。
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
<ひとふきかぜの きのはしずまる>。
時雨と共に一陣の風が吹いて、紅葉を始めた蔦の葉を激しく揺らして去っていった。「景気の付け」。
股引の朝からぬるゝ川こえて 凡兆
<ももひきのあさからぬるるかわこえて>。前夜の初時雨で少し水嵩を増した川を股引をたくし上げながら渡って行く。
たぬきをゝどす篠張の弓 史邦
<たぬきをおどす しのはりのゆみ>。この人、実は旅人ではなくて、川を渡っていく先に、作物を荒らす狸を脅すための篠張りの弓を仕掛けに行く百姓なのだ。
まいら戸に蔦這かゝる宵の月 蕉
<まいらどに つたはいかかる よいのつき>。初折7句目で月の定座。狸の仕掛けを置いていく場所は、舞良戸に蔦がはいかかった荒れ果てた一軒屋だ。そこに宵の月がかかっている。
舞良戸とは、書院造りの建具の一。框(かまち)の間に板を張り、その表側に舞良子(まいらこ)とよぶ桟を横に細かい間隔で入れた引き違い戸(『大字林』)。
人にもくれず名物の梨 來
<ひとにもくれず めいぶつのなし>。この一軒家の主というのは偏屈者でケチ。おいしい実のなる梨の木を持っているのだが、その実を人にくれることは全くない。
かきなぐる墨繪おかしく秋暮て 邦
<かきなぐる すみえおかしく あきくれて>。ケチかどうか知らないが、どうしてどうしてこの男、秋の一日をすばらしい墨絵を描くことに専念している。
はきごゝろよきめりやすの足袋 兆
<はきごころよき めりやすのたび>。彼が履いている足袋はいかにも履き心地のよさそうな伸縮自在のメリヤスの編み足袋だ。
何事も無言の内はしづかなり 來
<なにごとも むごんのうちは しずかなり>。ただ黙々と墨を含んだ筆を動かしていると、辺りは静寂そのものだ。
里見え初て午の貝ふく 蕉
<さとみえてそめて うまのかいふく>。前句で黙々としていたのは無言の行をしていたためだったのだが、その山中の道場から下山の途中里が見えてきたところで昼になったので正午を告げる法螺貝を吹いたのである。
ほつれたる去年のねござのしたゝるく 兆
<ほつれたる こぞのねござの したたるく>。「したたるく」はまとわりつく、垢などが付着してべとつくの意。藁がほつれ始めたござは昼寝をするにもべとつく感じで。修行中に使った布団代わりのござの話か?
芙蓉のはなのはらはらとちる 邦
<ふようのはなの はらはらとちる>。一方、里では丁度芙蓉が盛りでその花びらがはらはらと散っている秋の昼下がり。
吸物は先出來されしすいぜんじ 蕉
<すいものは まずでかされし すいぜんじ>。ここは芙蓉の咲く側での接待の宴。吸い物や水前寺海苔がまずいい香りを放っている。
三里あまりの道かゝえける 來
<さんりあまりの みちかかえける>。ここから家までは三里の道のりがある。ここで酒宴でもてなされた後であそこまで帰らなくてはならないのだ。
この春も盧同が男居なりにて 邦
<このはるも ろどうがおとこ いなりにて>。
盧同の下男ときたら今年の春も未だこんなところの下男をしていて居続けているようだ。彼なら、三里の道も一っ飛びだろうが。盧同は唐の時代の陰士で、彼の下男が陰士の間のメッセンジャーボーイだったために当時文人の間で有名だったという。
さし木つきたる月の朧夜 兆
<さしぎつきたる つきのおぼろよ>。再び廻ってきた朧月の春の宵。樹木の挿し木も活着する時期だ。前句の盧同の下男を挿し木に喩えてしまった。
苔ながら花に並ぶる手水鉢 蕉
<こけながら はなにならぶる ちょうずばち>その挿し木の庭園は、茶室に続く侘びの庭。だから、茶花に並んで苔生した手水鉢が置いてある。ここが歌仙の初裏11句目で「花の定座」。
ひとり直し今朝の腹だち 來
<ひとりなおりし けさのはらだち>。そういう庭を見ていると、今朝家人と争った不愉快な気分もすっかりなおってしまう。やはり、侘びた庭はいいものだ。
いちどきに二日の物も喰て置 兆
<いちどきに ふつかのものも くうておき>。この男、実は不摂生な男で、飯を食うとなると一日に二日分食いだめるような不規則な生活をしている。前句の主人公を無精者と見た。
雪げにさむき嶋の北風 邦
<ゆきげにさむき しまのきたかぜ>。前句の男を無精者ではなくて寺社の番人などにたとえて、北風が吹いて寒い冬の日のこと、お役目が続くので何時食事が摂れるとも知れないので腹一杯食ったのである。
火ともしに暮れば登る峯の寺 來
<ひともしに くるればのぼる みねのてら>。そう、この男は寺の雑用係。日暮れれば峰の寺に灯明をつけに行く。その明かりを頼りに、舟が航海する。灯台の明かりなのである。釈教の定座。
ほとゝぎす皆鳴仕舞たり 蕉
<ほととぎすみな なきしまいたり>。毎日毎夕灯明を点けに山に登ったり降りたりしている間に日数も過ぎて、もうほととぎすの啼く季節も過ぎた。
痩骨のまだ起直る力なき 邦
<そうこつの まだおきなおる ちからなき>。ホトトギスも季節も過ぎて、夏も去っていったというのに私はやせ細ってしまって床の中。起きる力とて無い。
隣をかりて車引こむ 兆
<となりをかりて くるまひっこむ>。行ってみたらば車止めに鎖が引いてあって入れない。面会謝絶の意。仕方なく隣家を借りて牛車を入れた。病んでいたのは男ではなく女。そこへ男が訪ねてきたらしい。
うき人を枳穀垣よりくゞらせん 蕉
<うきひとを きこくがきより くぐらせん>。「枳穀垣」<きこくがき>はタチバナのバラの棘のある生垣。ちっとも顔を出さない薄情なあの男を困らせよう。枳の門から入れて痛い目に合わせてやりたい。
いまや別の刀さし出す 來
<いまやわかれの かたなさしいだす>。忍んできたのは侍。一夜明けた明日の朝、男に刀を差し出す女の姿。
せはしげに櫛でかしらをかきちらし 兆
<せわしげに くしでかしらを かきちらし>。男は、出発に当たって何も無かったように櫛で髪の乱れを直している。
おもひ切たる死ぐるひ見よ 邦
<おもいきったる しにぐるいみよ>。くしけずっている男とは、舞台で悪代官を切ろうという大見得を切っている役者である。これはその台詞だ。
青天に有明月の朝ぼらけ 來
<せいてんに ありあけづきの あさぼらけ>。前句の髪を直している男にとって、今日は決戦の日。さいさきよく今朝はいい天気になりそうだ。
湖水の秋の比良のはつ霜 蕉
<こすいのあきの ひらのはつゆき>。今や、秋も深まって比良の山には初霜が降りるころだろう。
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ 邦
<しばのとや そばぬすまれて うたをよむ>。前句の男は、風流人で秋の朝、比良の山の端を見ながら歌を詠んでいる。しかし、自分の畑の秋蕎麦は泥棒に刈り取られてしまっているのだ。
ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ 兆
<ぬのこきならう かぜのゆうぐれ>。この季節の夕暮れといえば綿入れを着ないと寒くて居られない。
押合て寝ては又立つかりまくら 蕉
<おしおうて ねてはまたたつ かりまくら>。「かりまくら」は旅中の意。貧しい宿に寝て寒い思いをしながらまた旅に立つ。
たゝらの雲のまだ赤き空 來
<たたらのくもの まだあかきそら>。製鉄の溶鉱炉である踏鞴(たたら)の真っ赤な鉄の湯のような雲のかかる朝の空。
一構鞦つくる窓のはな 兆
<ひとかまえ しりがいつくる まどのはな>。この集落は馬具だけを作る職人村だ。馬のしりがいを作っている工房の窓には花がさしてある。花の定座。
枇杷の古葉に木芽もえたつ 邦
<びわのふるばに きのめもえたつ>。そして季節は今春。琵琶の古葉には再び新しい葉が吹き出そうと構えている。
去来 九
芭蕉 九
凡兆 九
史邦 九
市中は物のにほいや夏の月
<まちなかは もののにおいや なつのつき>。「夏の月」は涼しさの象徴だが、ここでは街中の月で様々な町の匂いと共に涼しくない月が出ている。
あつしあつしと門々の聲 芭蕉
<あつしあつしと かどかどのこえ>。寝苦しい夜に街中の人々は口々に暑い暑いといいながら門の前で夕涼み。
二番草取りも果さず穂に出て 去来
<にばんぐさ とりもはたさず ほにいでて>。暑い陽気に稲の生育はよく、おかげで二番の田の草もとらないうちに出穂期を迎えてしまった。前句は街中だったが、ここでは農村地帯へ飛躍した。
灰うちたゝくうるめ一枚 兆
<はいうちたたく うるめいちまい>。農繁期の農家の食事は貧しくて、うるめ一つ焼いて食うだけ。うるめは、いわしの生干し。前句を、農家の忙しい農作業に転じた。
此筋は銀も見しらず不自由さよ 蕉
<このすじは ぎんもみしらず ふじゆさよ>。うるめの代金を銀で支払おうとしたら、銀は扱いかねるという。なんと不自由なことだろう。銀は銀貨ではなくてこの時代重さで軽量した。秤が公定のものでない限り使用できないので、場所(筋)によって銀での支払いができないことがあったのである。
たゞとひやうしに長き脇指 來
<ただとっぴょうしに ながきわきざし>。この魚屋といったら突拍子もなく長い脇差を差している。なんだ、やくざかい。銀での支払いを拒否した魚屋は実は街道筋のやくざの下っ端だったというのであろう。
草村に蛙こはがる夕まぐれ 兆
<くさむらに かわずこわがる ゆうまぐれ>。長い脇差をつけて威張っている割には臆病者で、この男夕まぐれの草むらにうごめく蛙を怖がっている様子。前句のやくざの実力を見抜いて。
蕗の芽とりに行燈ゆりけす 蕉
<ふきのめとりに あんどんゆりけす>。草むらで蛙を怖がったのは若い娘だった。怖い上に蕗を採っている最中に行灯を吹き消してしまった。
道心のおこりは花のつぼむ時 來
<どうしんの おこりははなの つぼむとき>。ここは「釈経」の定座。前句の「行灯の火が消える」について「死」を感じて、その昔、仏心を感じたのは花も恥らう蕾の頃。若い娘を想定したのであろう。
能登の七尾の冬は住うき 兆
<のとのななおの ふゆはすみうき>。それにつけても、この僧、能登の七尾での冬の修行は大変だろう。前句の道心を起こした人を修行僧として七尾での荒行を持ってきた。
魚の骨しはぶる迄の老を見て 蕉
<うおのほね しわぶるまでの おいをみて>。魚の骨をしゃぶるまで凋落した生活をしている老残の身とはなった。流人か貴種流離譚か。前句の七尾に隠棲している男の末路。
待人入し小御門の鎰 來
<まちびといれし こみかどのかぎ>。前句の男は、実はさる高位の方の門番。門の前に立派な御車。あわてて門番小屋から出て御門の鍵を開ける。
立かゝり屏風を倒す女子共 兆
<たちかかり びょうぶをたおす おなごども>。前句の「待人」を一目見ようと女房共が屏風の陰に集まって押すな押すな。そのうちそれを倒してしまったのである。
湯殿は竹の簀侘しき 蕉
<ゆどのはたけの すのこわびしき>。男が入っていった湯殿の後始末。女達はいまやさみしくなったスノコの掃除だ。前句を旅籠に泊った旅の客にしてしまった。
茴香の實を吹落す夕嵐 來
<ういきょうの みをふきおとす ゆうあらし>。寂しくなった秋の夕暮れ。ウイキョウの実がパラパラと落ちる。前句の寂しさの説明。ウイキョウ(茴香)は、セリ科の多年草。高さ1〜2メートル、葉は細く糸状に裂けている(アスパラガスに似ている)。夏、多数の黄白色の小花が咲く。果実は卵状楕円形で芳香が強く、健胃薬や駆風薬にし、全草を香料に用いる。南ヨーロッパの原産で、古くから栽培(『大字林』)。
僧やゝさむく寺にかへるか 兆
<そうややさむく てらにかえるか>。この寒い中、托鉢を終えた僧がとぼとぼと寺に帰る。
さる引の猿と世を経る秋の月 蕉
<さるひきの さるとよをへる あきのつき>。「さる引」は猿回しのこと。つましい生活をしながら年をとってきた。貧しい家に秋の月がしっとりと照らしている。前句の僧侶の侘びた生活を猿回しのそれに換骨した。
年に一斗の地子はかる也 來
<ねんにいっとの ぢしはかるなり>。「地子」は、いまの固定資産税。猿回しでも、貧しいながら年に一斗の宅地税を納めているのである。
五六本生木つけたる瀦 兆
<ごろっぽん なまきつけたる みずたまり>。猿回しなどの貧しい人の住む貧しい町では、水溜りに生木を並べて歩けるようにしている。
足袋ふみよごすKぼこの道 蕉
<たびふみよごす くろぼこのみち>。こんな汚い道にふさわしくない白足袋姿の人が歩いている。みれば足袋は泥で黒ずんでいる。
追たてゝ早き御馬の刀持 來
<おったてて はやきおんまの かたなもち>。白足袋を履いているのは、馬で駆けていく主人に走って従う刀持ちの従者。長い刀をあえぎながら担いで走っていく。
でつちが荷ふ水こぼしたり 兆
<でっちがになう みずこぼしたり>。風のように駆けていく侍主従の姿に驚いた丁稚が、びっくりした拍子に担いでいたバケツの水をこぼしてしまった。また一層、道はぬかるんでしまった。
戸障子もむしろがこひの賣屋敷 蕉
<としょうじも むしろがこいの うりやしき>。雰囲気を変えて。その道には、一軒の売家がある。往時の勢いを失った一家であろう。藁囲いをして売り家の札を下げているが、なんとも侘しい姿だ。
てんじやうまもりいつか色づく 來
<てんじょうまもり いつかいろづく>。「てんじょうまもり」は、「天井」を守るのと、「唐辛子(ヤツブサ)」の別名をかけている。ヤツブサが秋になって色づいていくように、この家も古びていく。
こそこそと草鞋を作る月夜
ざし 兆
<こそこそと わらじをつくる つきよざし>。秋の月明かりの下で、ひっそりと草鞋を編んで活計のたしとしている。
蚤をふるひに起し初秋 蕉
<のみをふるいに おきしはつあき>。寝ている間に蚤に食われて目を覚まし、初秋の月明かりの下で寝巻きを振って蚤を追い出している。
そのまゝにころび落たる升落 來
<そのままに ころびおちたる ますおとし>。見れば傍らに掛けておいたネズミ捕りの枡落しの捧が外れて落ちていた。貧乏長屋の風情。
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 兆
<ゆがみてふたの あわぬはんびつ>。「半櫃<はんびつ>」は小型の長持。室内を見渡せば壊れて口の空いた半櫃をはじめガラクタが散乱している。なんとも薄汚い没落一家。
草庵に暫く居ては打やぶり 蕉
<そうあんに しばらくいては うちやぶり>。この人、草庵に暫らく住んだかと思うと又どこかへ移り住んでしまう。一所不住の住人などである。芭蕉自身を語って落ちるか??
いのち嬉しき撰集のさた 來
<いのちうれしき せんしゅうのさた>。そんな貧しい歌人だが、生きていればこそこの度勅撰集に入集したという知らせが届いた。
さまざまに品かはりたる恋をして 兆
<さまざまに しなかわりたる こいをして>。撰集に読み込んだ歌は恋の部の歌。この男、在五中将のように様々な恋をして。
浮世の果は皆小町なり 蕉
<うきよのはては みなこまちなり>。何事も諸行無常、小町と賞讃された美女達もやがては老残の身となって老いさらばえていくのだ。小野小町が奥州極楽寺の門前で死んで、そのされこうべにススキの穂が刺さっていた話を持ってきた。
なに故ぞ粥すゝるにも涙ぐみ 來
<なにゆえぞ かゆすするにも なみだぐみ>。老いさらばえて、何故という理由も無く粥をすすりながらも涙ぐむ。街小町といわれた美女のなれの果てを描いて。
御留守となれば廣き板敷 兆
<おるすとなれば ひろきいたじき>。涙ぐんでいる婦人は実はこの家の主の愛人。それが留守しているために板敷きの大広間はがらんとして静寂だけが満ちている。前句の婦人を、長年寄り添ってきた囲い者とした。
手のひらに蚤這はする花のかげ 蕉
<てのひらに しらみはわする はなのかげ>。がらんとした屋敷では、用人がのんびりと虱を捕っている。
かすみうごかぬ昼のねむたき 來
<かすみうごかぬ ひるのねむたき>。季節は春。猫もネズミ捕りを忘れるほどに眠くなる時季。虱も大いに増える時節。春霞ですら眠ったように動かない。時は春真っ只中の今日この頃だ。
凡兆 十二
芭蕉 十二
去来 十二
灰汁桶の雫やみけりきりぎりす
<あくおけの しずくやみけり きりぎりす>。「灰汁桶」は、水を張った桶に灰を入れて洗濯用の水として用いるためのもの。さっきまでポタポタともれていた灰汁桶の水も漏れる音が止んでいる。桶の下ではコオロギが鳴き始めて秋の夜が更けていく。
あぶらかすりて宵寝する秋 芭蕉
<あぶらかすりて よいねするあき>。秋の夜長を、行灯の油が切れて早寝をする。
新疊敷ならしたる月かげに 野水
<あらだたみ しきならしたる つきかげに>。早寝をするといっても、換えたばかりの新畳、その匂いをかぎながら軒から注ぐ秋の月を眺めて宵を過ごしているのである。結構な隠居の生活。
ならべて嬉し十のさかづき 去来
<ならべてうれし とおのさかづき>。その結構な人は、いまや月見の宴を開こうという。間も無く気の置けない連衆が集まってくるだろう。その10人のための盃が縁近くに用意されたところだ。
千代経べき物を様々子日して 蕉
<ちよふべきものを さまざまねのびして>。「子の日」は毎年正月最初の「ね(子)の日」に千載の繁栄を祝した宮廷行事。近世になると庶民も真似して祝宴を開いた。前句の祝宴を「子の日」としたのである。そこには千年伝わると思われる家宝が陳列されているのである。
鶯の音にだびら雪降る 兆
<うぐいすのねに だびらゆきふる>、この季節、三寒四温、鶯の鳴き声が聞こえるというのに、だびら雪(牡丹雪)が降っている。
乗出して肱に餘る春の駒 來
<のりだして かいなにあまる はるのこま>。春の日に久しぶりに馬を野に連れ出すと、うれしさに御しきれないほど興奮している。
摩耶が高根に雲のかゝれる 水
<まやがたかねに ゆきのかかれる>。春とはいえ、摩耶岳(六甲連邦の山)には未だ雪がかかっている。
ゆふめしにかますご喰へば風薫 兆
<ゆうめしに かますごくえば かぜかおる>。「かますご」はイカナゴ。この季節、明石や須磨の海岸ではこれを網ですくって佃煮煮にして季節の味覚とした。今でも盛んに行われている。
蛭の口處をかきて氣味よき 蕉
<ひるのくいどを かきてきみよき>。蛭<ヒル>に食われた吸い口跡を掻くと気持ちが良い。前句で、「かますご」を食べているのは農民で、春の田作りに一日働いて、さんざんに蛭に食われたのである。
ものおもひけふは忘れて休む日に 水
<ものおもい きょうはわすれて やすむひに>。この物思いは心労。心労のためにうっ血したので蛭をつかって瀉血をしたのである。その跡が痒いので掻くと気持ちが良い。
迎せはしき殿よりのふみ 來
<むかいせわしき とのよりのふみ>。心労というのは恋の悩み。一日宿下がりをして気持ちの整理をしているというのに、殿からはさかんに帰ってきて欲しいと恋文が来る。
金鍔と人によばるゝ身のやすさ 蕉
<きんつばと ひとによばるる みのやすさ>。「金鍔<きんつば>」は、金で作った刀の鍔が原義だが、転じてきざな伊達男の意。前句の殿に寵愛された侍の羽振りのよさで、廓などでは彼のことを「金鍔さま」などと呼ぶのである。
あつ風呂ずきの宵々の月 兆
<あつぶろずきの よいよいのつき>。伊達男は熱風呂ずきで毎日伊達づらして風呂屋に通う。男はここで、江戸っ子に転じた。
町内の秋も更行明やしき 來
<ちょうないの あきもふけゆく あきやしき>。そんな町内の一軒は住む人の無い空き屋敷。さびれたこの屋敷の中を秋風が通り過ぎていく。
何を見るにも露ばかり也 水
<なにをみるにも つゆばかりなり>。屋敷のうちの草には一面露を置く。次の花の定座への配慮で、四季のいつでもよい配慮をしている。
花とちる身は西念が衣着て 蕉
<はなとちる みはさいねんが ころもきて>。ここに「西念」は特定の僧侶の名前ではなく、僧侶の通俗的呼称。露を置く草花はやがて散って行く身だ。無常を会得して人は仏門に入る。
木曽の酢茎に春もくれつゝ 兆
<きそのすぐきに はるもくれつつ>。「酢茎」は、信州木曾谷で用いられる食品。特定の木の葉を酢に浸して漬けて食すものらしい。これを食べる頃には春も過ぎていく。
かへるやら山陰傅ふ四十から 水
<かえるやら やまかげつたう しじゅうから>。四十雀の群が家路を急ぐのか鳴きながら山陰を這うようにして飛んでいく。木曾谷の夕景に転じた。
柴さす家のむねをからげる 來
<しばさすいえの むねをからげる>。葦で葺いた柴屋根の棟を繕う農家の景。
冬空のあれに成たる北颪 兆
<ふゆぞらの あれになりたる きたおろし>。前句で棟を直しているのは、北から吹いてくる木枯らしから屋根を防ぐためであった。
旅の馳走に有明しをく 蕉
<たびのちそうに ありあかしおく>。「有明し」は有明行灯(夜明けまで、夜通しつけておく行灯『大字泉』)のこと。前句で、北颪が荒れそうなので旅亭の主人がサービスに有明行灯をおいてくれたのであろう。ここで主語が変わった。
すさまじき女の智慧もはかなくて 來
<すさまじき おんなのちえも はかなくて>。前句の行灯は旅亭で働く飯盛り女(売春婦)の商売用の誘蛾灯であって、一晩中灯りをともして営業中だが、お客は無かったようで。
何おもひ草狼のなく 水
<なにおもいぐさ おおかみのなく>。「想い草」は恋の記号。前句の女は、売春婦ではなくて恋に夢中の女。一晩中恋人の訪ねてくるのを待ちわびて行灯を点けていたのである。それを恋に叫ぶ狼の声にたとえたのである。
夕月夜岡の萱ねの御廟守る 蕉
<ゆうづくよ おかのかやねの ぼびょうまもる>。狼の声も聞こえる墓原。墓守は夕月夜の墓の岡で恋に死んでいった女の墓を守っている。
人もわすれしあかそぶの水 兆
<ひともわすれし あかそぶのみず>。「あかそぶ」は鉄分の多い酸化した赤渋の水。墓の手水に使われていたものが、訪れる人も無く腐敗したのであろう。荒れ果てた墓原の風景。
うそつきに自慢いはせて遊ぶらん 水
<うそつきに じまんいわせて あそぶらん>。おおぼら吹きが恋の話を得意になってやっている。退屈しのぎにこれを楽しんで聞いている。前句の一連の恋と墓の話をまとめてホラ話とした。
又も大事の鮓を取出す 來
<またもだいじの すしをとりだす>。そのホラ吹きの男に、自慢の寿司を出して食わす。
堤より田の青やぎていさぎよき 兆
<つつみより たのあおやぎて いさぎよき>。鮨を食べている場所が土手の上に変更された。そこから見る一面の野面は緑一色。勢いよく成長していく稲が見える。
加茂のやしろは能き社なり 蕉
<かものやしろは よきやしろなり>。この堤は、鴨川の堤だ。そこには賀茂の上社、下社がある。良い神社だ。
物うりの尻聲高く名乗すて 來
<ものうりの しりごえたかく なのりすて>。賀茂神社を通って近在の百姓が野菜などを売りに来る。その尻声が甲高く聞こえてくる。尻声は、物売りなどが呼び声の後ろの方をはねあげること。
雨のやどりの無常迅速 水
<あめのやどりの むじょうじんそく>。雨が急に降ってきて物売りは寺の山門の屋根下に逃げてきた。無常迅速、雨が上がる前に人は死ぬかもしれない。
昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ 蕉
<ひるねむる あおさぎのみの とうとさよ>。無常迅速も知らずに昼間から寝ている青鷺の図太さもまたすばらしい。前句への異論提出。
しょろしょろ水に藺のそよぐらん 兆
<しょろしょろみずに いのそよぐらん>。青鷺の眠っている小川では、イグサがいっぱい生えている。
糸櫻腹いつぱいに咲にけり 來
<いとざくら はらいっぱいに さきにけり>。枝垂桜が野原いっぱいに咲いている。花の定座。
春は三月曙のそら 水
<はるはさんがつ あけぼののそら>。時は春。春は三月。あけぼのの空。
凡兆 九
芭蕉 九
野水 九
去来 九
餞乙東武行 芭蕉
かさあたしき春の曙 乙
<かさあたらしき はるのあけぼの>。旅傘も新調しました。季節も新たな春のあけぼのです。江戸の向けて出発しますの返答の脇句。
雲雀なく小田に土持比なれや 珍碩
<ひばりなく おだにつちもつ ころなれや>。ひばりが鳴いて、田には土入れの季節がやってきた。冬の間に減ってしまった土や腐葉土を客土する作業を「土持つ」と表現したのである。
しとぎ祝ふて下されにけり 素男
<しとぎいおうて くだされにけり>。しとぎ<粢>とは、水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。神饌(しんせん)に用いるが、古代の米食法の一種といわれ、後世は、もち米を蒸して少しつき、卵形に丸めたものもいう。しとぎもち。(『大字泉』より)ここでは、春の田おこしに地主が小作百姓に餅を振舞ったのであろう。作者がそうしたかもしれない。
片隅に虫齒かゝへて暮の月
<かたすみに むしばかかえて くれのつき>。餅を食おうにも虫が痛くて家の片隅でひとりあごを押さえて苦しんでいるものがいる。外には暮の月。月の定座。
二階の客はたゝれたるあき 蕉
<にかいのきゃくは たたれたるあき>。虫歯に悩んでいた二階の泊り客も今朝はどうやら旅立ったようだ。その後には秋の風がふいて寂しくなった。
放やるうづらの跡は見えもせず 男
<はなちやる うずらのあとは みえもせず>。鳥を放すことを「放鳥」という。死者の冥福を祈念する行為である。放鳥に、飼っていた鶉を放したのだが、後姿は跡形もなく見えなくなった。二階の旅人同じように。
稲の葉延の力なきかぜ 碩
<いねのはのびの ちからなきかぜ>。田んぼではすっかり伸びきった稲の葉先が秋風に弱々しく揺れている。前句に添えて。
ほつしんの初にこゆる鈴鹿山 蕉
<ほっしんの はじめにこゆる すずかやま>。釈教。鈴鹿山を越えて修行の旅に出る。西行の歌「鈴鹿山浮世をよそにふり捨てて意かになり行くわが身なるらん」
内藏頭かと呼聲はたれ
<くらのかみかと よぶこえはたれ>。「内蔵頭<くらのかみ>」は一般的な官職名で誰か個人をイメージしたものではないらしい。鈴鹿山でばったり会った旅人に呼び止められたというような想像をたくましくしたもの。
卯の刻の簔手に並ぶ小西方 碵
<うのこくの みのてにならぶ こにしがた>。「卯の刻」は夜明けの時刻。季節に寄らない夜明けの時刻こそ卯の刻である。「蓑手<みのて>」は戦陣の陣形で、蓑のように両翼に弓なりになって陣形をとること。「小西」は関が原の合戦時の大坂方小西行長を指す。前句を戦場で呼ばわる声と見て点けた。
すみきる松のしづかなりけり 男
<すみきるまつの しずかなりけり>。戦場の朝の松の林の松の木は朝霧の中にしずかに立っている。
萩の札すゝきの札によみなして
<はぎのふだ すすきのふだに よみなして>。萩の歌は萩の枝につけた短冊に、ススキの歌はススキの葉に付けた短冊に書く。前句の松の林は禅林の庭とみなした。
雀かたよる百舌鳥の一聲 智月
<すずめかたよる もずのひとこえ>。百舌が一声鳴いて、驚いた雀の群が庭の隅にかたまった。百舌は肉食である。
懐に手をあたゝむる秋の月 凡兆
<ふところに てをあたたむる あきのつき>。百舌が鳴いていよいよ夜寒季節の到来だ。ふところ手をして寒さに耐えている。歌仙はここで中断。
汐さだまらぬ外の海づら
<しおさだまらぬ そとのうみづら>。懐手をしながら秋の月を見ているのは、沖の潮模様を眺めているためだが、今宵は何故か一向に潮の流れが決まらない。
鑓の柄に立すがりたる花のくれ 去来
<やりのえに たちすがりたる はなのくれ>。槍持ちの下っ端男は一日の役目にぐったりと疲れて槍の柄を杖にして立っている。春の日の夕暮れ。
灰まきちらすからしなの跡 兆
<はいかみちらす からしなのあと>。畑では、芥子菜の収穫した後の畑に灰を撒き散らしている。
春の日に仕舞てかへる経机 正秀
<はるのひに しもうてかえる きょうづくえ>。芥子菜の畑は寺の畠。その寺の中では彼岸会であろう僧侶たちの読経が続いていたが、今は経机を片付けている。
店屋物くふ供の手がはり 來
<てんやものくう とものてがわり>。入れ替わり立ち代り寺に参詣する客達についてくる家来達は店屋物を食いながら主人が本堂から出てくるのを待っている。彼岸会の境内の賑わい。「手がわり」は繁忙の様。
汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸 半残
<あせぬぐい はしのしるしの こんのいと>。その従者達は汗拭きを首に巻いていて、それには他人の物と紛れないように標に紺の糸が縫い付けてある。
わかれせはしき鶏の下 土芳
<わかれせわしき にわとりのした>。前句紺の糸は男と女を結ぶ恋の糸。一夜を過ごして男が去って行くときに天井に寝ていた鶏が一声「コケコッコー」
大胆におもひくづれぬ恋をして 残
<だいたんに おもいくずれぬ こいをして>。思い切った大胆な恋をしたものだ。前句への評。
身はぬれ紙の取所なき 芳
<みはぬれがみの とりどころなき>。激しい恋に身を焼いていまや破れ紙同様に腑抜けのようになってしまった。
小刀の蛤刃なる細工ばこ 残
<こがたなの はまぐりばなる さいくばこ>。蛤刃は、鎬(しのぎ)と刃との間にハマグリの貝殻のようなふくらみをもたせた刃物(『大字泉』)細工箱の中には蛤刃の小刀がある。失恋の隠喩。
棚に火ともす大年の夜 園風
<たなにひともす おおとしのよる>。道具箱から、大工道具を取り出して神棚を吊る大工の棟梁。年末のすす払いの景に転じた。
こゝもとはおもふ便も須磨の浦 猿雖
<ここもとは おもうたよりも すまのうら>。ここは流人の身の須磨の浦。何の想う便りも来ない。淋しい春。前句の棚に明かり付ける人は須磨の浦に侘びている都人。光源氏のような。
むね打合せ着たるかたぎぬ 残
<むねうちあわせ きたるかたぎぬ>。前の部分をリフォームして肩衣を普段着に作り変えた。世捨て人のまずしさ。
此夏もかなめをくゝる破扇 風
<このなつも かなめをくくる やれおおぎ>。貧しさは扇にまで現れていて、この夏もまた要を応急措置した破れ扇を使って涼をとっている。
醤油ねさせてしばし月見る 雖
<しょうゆねさせて しばしつきみる>。破れ扇で仕事をしているのは味噌屋の主人。醤油を仕込んで扇を仰ぎながら月を見ている。
咳聲の隣はちかき縁づたひ 芳
<せきごえの となりはちかき えんづたい>。縁側に腰掛けて月を仰ぐ男に聞こえてくる縁側伝いの咳の声。味噌屋の前庭から一転して貧乏長屋の一軒に。
添へばそふほどこくめんな顔 風
<そえばそうほど こくめんなかお>。「こくめん」は真面目・実直の意。この男はよく知れば知るほど実直な人間であることが分かる。
形なき繪を習ひたる會津盆 嵐蘭
<かたちなき えをならいたる あいづぼん>。この男、会津塗りの職人で、いま抽象画を習ったように盆に描き仕上げている。
うす雪かゝる竹の割下駄 史邦
<うすゆきかかる たけのわりげた>。漆の蒔絵を飾る茶室の縁側には緑の割り下駄。風流を演出。割り下駄は、孟宗竹を割ったままの自然の竹に鼻緒を付けただけの茶人の履く下駄。
花に又ことしのつれも定らず 野水
<はなにまた ことしのつれも さだまらず>。この雪が溶ければもう春。だが、今年の花見の趣向も仲間も決めていない。金持ちの風流人。
雛の袂を染るはるかぜ 羽紅
<ひなのたもとを そめるはるかぜ>。春もたけなわ。春風に雛人形の袖が花々の色を受けて七色に染まっていく。羽紅が女性らしく美しく巻きおさめた。
芭蕉 三 去来 二 嵐蘭 一
乙п@五 正秀 一 史邦 一
珍碩 三 半残 四 野水 一
素男 三 土芳 三 羽紅 一
智月 一 園風 三
凡兆 二 猿雖 二