芭蕉db

野沢凡兆/加生

(のざわ ぼんちょう/かせい)

(1640?〜正徳4年(1714)春)

年表Who'sWho/basho


 加賀金澤の出身と伝えられるが詳細は不祥。京に上って医者を志したらしいが、これも詳細不明。蕉門に入門したのは、元禄元年『笈の小文』の旅の後芭蕉が京都に入った時。同時に、妻(お)とめ(後に剃髪して羽紅尼)も入門したらしい。『猿蓑』で編集者としてデビュー。加生<かせい>が初期の俳号であるが、元禄4年頃より凡兆を名乗る。元禄4年秋時分、路通を仲立ちとして師弟間に軋轢が生じ、徐々に芭蕉から離反。その後、投獄などの身を持ち崩す事件もあって必ずしも順調な人生ではなかった。芭蕉葬儀の会葬者群の中に凡兆の名が無いところから、この時期入牢中と思われる。罪状もまた不明。
 元禄14年(1701)頃出獄、京都追放のため江戸に移住。宝永7年(1710)頃から病を得て、正徳4年妻羽紅にみとられながら死去。波乱の生涯を終る。実に惜しい人物であった。
 写生派俳人として、また定型な美観に対する批判者としても豊かな才能を持っていた。晩年は極貧の中にあり、夫妻で井戸の水汲み労働(水屋)などをして口を糊していたという。

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凡兆宛書簡1   元禄3年8月18日)

凡兆宛書簡2  (元禄3年9月13日)


凡兆の代表作

羽紅尼の代表作