阿羅野脚注

  巻之一   郭公    


曠野集 巻之一

 

   花 三十句

よしのにて
これはこれはとばかり花の芳野山   貞室
<これはこれは とばかりはなの よしのやま>。「これはこれはとばかりにて」は、感嘆のあまり言葉もない状態を表現する常套語。通常は悲嘆にくれる場合によく用いられる。ここでは、吉野の花の美しさに感動したあまり言葉が無い状態を表わす。

我まゝをいはする花のあるじ哉    路通
花見といえば、何もかも許されるので、つい我がままにもなる。

薄曇りけだかくはなの林かな     信徳
<うすぐもり けだかくはなの はやしかな>。花曇の空の下に花の爛漫と咲匂う花の林がある。

はなのやまどことらまへて哥よまむ  晨風
 全山が花におおわれた山。どこを見ても花花花の美しさ。さて何処をみて歌を読めばよい。作者晨風<しんぷう>は伊勢松坂の人。

暮淋し花の後の鬼瓦         友五
<くれさみし はなのうしろの おにがわら>。花のさかりも終わりに近づいた頃の夕暮れの景。桜の木のこの間からお寺の鬼瓦が見える。こんな時刻は特に淋しいものだ。

山里に喰ものしゐる花見かな     尚白
<やまざとに くいものしいる はなみかな>。山里で人々が花見をしている。騒々しく飲み物や食べ物をすすめ合って何と賑やかなこと。

何事ぞ花みる人の長刀        去来
<なにごとぞ はなみるひとの なががたな>。本人は、流行の先端を行っているつもりかもしれないが、なんと無風流なこと、花見の席に長刀をさしてやってくるとは。

みねの雲すこしは花もまじるべし   野水
花見にやってきてみると花咲く山の峰には雲が一面かかっている。おそらくあの雲は全部が雲ではなくて花が混じって雲になったのであろう。

はなのなか下戸引て来るかいな哉   龜洞
<はなのなか げこひいてくる かいなかな>。花見酒に酔っ払った上戸を担いで帰っていくのは決まって下戸の方なのだ。

下々の下の客といはれん花の宿    越人
<げげのげの きゃくといわれん はなのやど>。宗鑑は、「上の客人立ちかえり、中の客人日がへり、とまり客人下の下」と言ったという。宗鑑には下の下と言われようとも、この花の美しい日止まっていくぞ。

花の山常折くぶる枝もなし      一井
<はなのやま つねおりくぶる えだもなし>。あたりいちめん花の山。そんなところには、切って薪にするような木は無い。日常生活にも事欠く有様だろう。

見あげしがふもとに成ぬ花の瀧   津島俊似
<みあげしが ふもとになりぬ はなのたき>。山のふもとが咲き始めた頃には見上げるように見ていた桜の花だが、それらが散って奥山に入らなくてはならなくなる頃には、花がまるで滝のように散るのを上から見ることになる。

兄弟のいろはあげゝり花のとき    鼠弾
<きょうだいの いろはあげけり はなのとき>。「色は匂えど散りぬるを・・」というくらい花の季節は短い。幼い兄弟が、手習いを始めてようやく「いろは」を卒業したようだ。子供の時代も短いのだろうか。

ちるはなは酒ぬす人よぬす人よ    舟泉
花の散るのが悲しくて酒を飲む。まことに花は酒泥棒だ。

冷汁に散てもよしや花の陰      胡及
<ひえじるに ちりてもよしや はなのかげ>。花見の席で冷えてしまった汁に花びらが落ち込む。普段、冷えた汁に異物が入ったのなんか飲みはしないが、花の下だと全く違う。作者胡及は尾張名古屋の人。

はつ花に誰が傘ぞいまいまし     長虹
<はつはなに たがからかさぞ いまいまし>。花が咲いたが、あいにく雨になった。見れば傘をさして花見をしている人がいる。なんと無粋な。雨の花見は花の蔭でするものというではないか。

柴舟の花咲にけり宵の雨     津島卜枝
<しばぶねの はなさきにけり よいのあめ>。芝刈りの船の中に積んでおいた柴の中から桜の花が咲いている。奥山で切った桜の枝が、里の暖かい春雨に打たれて花開いたものであろう。

おるときになりて逃けり花の枝  岐阜鴎歩
ちらほら咲き始めた桜の下枝をようよう近づけてさあ折ろうという段になってピンと張った枝に逃げられてしまった。作者の鴎歩は詳細不詳。

連だつや従弟はおかし花の時     荷兮
<つれだつや いとこはおかし はなのとき>。従兄弟と花見に行くのだが道々話す話の弾むこと。気心の知れているものの安心感。

疱瘡の跡まだ見ゆるはな見哉     傘下
<ほうそうの あとまだみゆる はなみかな>。花見客の中でホウソウの跡が生々しい人がいる。今まで家の中で養生していたのであろうが、さすがに花には勝てないと見えて出てきてしまったらしい。

あらけなや風車賣花のとき      薄芝
<あらけなや かざぐるまうり はなのいろ>。「あらけな」は荒削り、粗野、粗雑、不神経などを表わす。桜の季節にそっとしておいて欲しいものといえば、雨と風と曇り空。あろうことか風車を売るということは風に吹いて欲しいと頼んでいるようなもの。なんと無風流な男だ!! 作者薄芝<はくし>の詳細不詳。

花にきてうつくしく成心哉      たつ
<はなにきて うつくしくなる こころかな>。まことに単純な句。花を見ていたら私の心まで美しくなってきたみたいだ。作者たつは、三河の人。

山あひのはなを夕日に見出したり   心苗
<やまあいの はなをゆうひに みいだしたり>。山間の薄暗いような奥山の桜は、普段目立たない。夕暮れの一瞬、そこに日がさしたように明るくなる。作者心苗<しんびょう>については詳細不詳。

おもしろや理窟はなしに花の雲    越人
<おもしろや りくつはなしに はなのくも>。花の季節になれば文人墨客は、やれ花だ、雲だと論争する。実際こうして花見に来てみれば理屈はともかく花も雲も面白い。

なりあひやはつ花よりの物わすれ   野水
桜が咲いたと聞いてからというもの万事がいい加減で、何もかも忘れてしまう。

獨来て友選びけり花のやま      冬松
<ひとりきて ともえらびけり はなのやま>。たった一人で出かけてきた花見だが、同好の花好きの友達が沢山できた。これぞ花の優しさなのだ。作者冬松(とうしょう>については未詳。

花鳥とこけら葺ゐる尾上かな     冬文
<はなとりと こけらはきいる おのえかな>。「こけら」は屋根を葺くときの板のこと。桜の花や鳥の声は、山の頂上を屋根に見立ててこけらを葺くということか。これで山の化粧が完成するのだ。

首出して岡の花見よ蚫とり      荷兮
<くびだして おかのはなみよ あわびとり>。海士がアワビを採っている。ひっきりなしに潜ったり浮かんだりしながら漁をしているが、浮かぶ度に彼の目には岡上の満開の花が映っていることであろう。

酒のみ居たる人の繪に
月花もなくて酒のむひとり哉     芭蕉

ある人の山家にいたりて
橿の木のはなにかまはぬすがた哉   同


   杜宇 二十句

ほとゝぎすを飼をくものに求得て放やるときに
鳥篭の憂目見つらん郭公       季吟
<とりかごの うきめみつらん ほととぎす>。前詞は、ホトトギスを飼育していた者から買って、それを放してやるについて読んだ句、の意。ホトトギスよ、鳥篭に囚われて籠の網の編み目ならぬ憂き目を見たであろう。かわいそうに。

目には青葉山ほとゝぎす初がつほ   素堂
<めにはあおば やまほととぎす はつがつお>。素堂の代表作。

いそがしきなかに聞けり蜀魄     釣雪
<いそがしき なかにききけり ほととぎす>。ホトギスの声というのはゆっくり聴こうと思いながら、忙しさにかまけてじっくり聴いたという経験がない。

蝋燭のひかりにくしやほとゝぎす   越人
<ろうそくの ひかりにくしや ほととぎす>。夜空をホトトギスが鳴きながら渡っていく。その声に集中しようとするのだが、ロウソクの灯が目に入って心を集中できなかった。

おひし子の口まねするや時鳥   津島松下
<おいしこの くちまねするや ほととぎす>。「おひし子」は負いし子で、正しくは負われし子、つまり背中に負ぶわれた幼子のこと。頭上をホトトギスが鳴きながら渡っていった。すると背中の子供がその声を真似した。松下は尾張津島の人。

跡や先気のつく野邊の郭公      重五
<あとやさき きのつくのべの ほととぎす>。広い野辺を旅していて、上空をホトトギスが渡っていった。さて、先に行ったものか後ろに行ったものか。

ほとゝぎすどれからきかむ野の廣き  柳風
野を横に飛んでいくホトギスに、この野はこの先何処まで続くのか尋ねたいのだが。作者柳風については伝不詳。

ある人のもとにて発句せよと有ければ
ほとゝぎすはゞかりもなき烏かな   鼠弾
<ほととぎす はばかりもなき からすかな>。ホトトギスは一声鳴いて空を横切ってそれっきり鳴かない。これに対してカラスときたらのべつ幕なし汚い声で鳴く。私も、求められれば慎みも無くすぐに一句吟じてしまう。まるでカラスみたいに。

晴ちぎる空鳴行やほとゝぎす     落梧
<はれちぎる そらなきゆくや ほととぎす>。「晴ちぎる」はすっかり晴れ上がること。そんな空をホトトギスが鳴きながら渡っていく。すっかり姿も見える。

蚊屋臭き寝覚うつゝや時鳥      一髪
<かやくさき ねざめうつつや ほととぎす>。夏の早い朝が明けようとしているのは、今渡って行ったホトトギスの声で分かる。うつつの中に蚊帳の匂いだけが感覚されている。一髪は岐阜の人。

三聲ほど跡のおかしや郭公      同
<みこえほど あとのおかしき ほととぎす>。ホトトギスは一声というが、三声も聞かせてくれた。拍子抜けしておかしくなった。

淀にて
ほとゝぎす十日もはやき夜舟哉    風泉
<ほととぎす とおかもはやき よぶねかな>。淀から夜船に乗ったらいきなりホトトギスの渡る声を聴いた。古歌では「夜ふかきに」とあるのに、十日の月の未だ宵の内のことでした。作者風泉<ふうせん>は伝不詳。

嬉しさや寝入らぬ先のほとゝぎす 岐阜杏雨
<うれしさや ねいらぬさきの ほととぎす>。こんなうれしいことはない。何時もは夢うつつの中で聴くホトトギスの渡る声を今夜は寝入らぬ先に聴けたのだから。

あぶなしや今起て聞郭公       傘下
<あぶなしや いまおきてきく ほととぎす>。くわばらクワバラ。もう少し朝寝坊していたらホトトギスの声を聴き損ねたところだった。

くらがりや力がましきほとゝぎす   
夜空を渡るホトトギスの声を聴いた。暗がりの中で耳を集中して聴けるので、ホトトギスの力動感までが伝わってきたように鮮やかに聴こえた。

馬と馬よばりあひけり郭公      鈍可
<うまとうまよ よばりあいけり ほととぎす>。ホトトギスが鳴きながら過ぎていった。馬が一頭、それに呼応するようにいなないた。するともう一頭が自分も聴いたといわんばかりにいなないた。

たゞありあけの月ぞのこれると吟じられ
しに
哥がるたにくき人かなほとゝぎす 大津智月
<うたがるた ・・>。御徳大寺左大臣「ほととぎす鳴きつるかたをながむればただありあけの月ぞのこれる」(百人一首)の歌が頭の中を占有してしまって、ホトトギスの声を聴いても句が出てこない。左大臣の憎いこと。

うつかりとうつぶきゐたり時鳥    李桃
<うっかりと うつぶきいたり ほとぎす>。ホトトギスの声がしたというのにボーっとしていて見損なってしまった。

うつかりと春の心ぞほとゝぎす    市山
ホトトギスが来たというのにいつまでも春の気分でいたものだから聞き逃してしまった。作者市山<しざん>は尾張の人。


  月 三十句

かるがると笹のうへゆく月夜哉  十二歳梅舌
<かるがると ささのうえゆく つきよかな>。秋。クマザサの照り葉に光る月。その光が風にゆれる笹の葉を動くので、まるで月が笹の林の上を滑っていくように見える。

それがしも月見る中の獨かな     湍水
<それがしも つきみるなかの ひとりかな>。今夜中秋の名月。みんなが見ているこの明月。私もその一人。

月ひとつばひとりがちなる今宵哉   一雪
中秋の名月だというので競っていい歌や句を詠もうとしているが、つまるところ月を独り占めしようという魂胆なのだ。

雨の月どこともなしの薄あかり    越人
<あめのつき どこともなしの うすあかり>。あいにく明月に雨が降った。しかし、さすがになんとなく明るい。

けうとさに少脇むく月夜哉      昌碧
<けうとさに すこしわきむく つきよかな>。「けうとさ」は、恐ろしいといった意味。あまり月が美しいので、何だか怖くなって、まともに月を見ないで少し脇をむくような気分でいる。

屋わたりの宵はさびしや月の影   津島市柳
<やわたりの よいはさびしや つきのかげ>。「屋わたり」は転居・引越しのこと。新しい家に越してきて眺める月が変わらないのに気がついたとき、急に寂しさがつのってきた。

おかしげにほめて詠る月夜哉     一髪
<おかしげに ほめてながむる つきよかな>。月を見に外に出てみると既に先客がいる。月を愛でる挨拶をしてみるがどうもうまくいかない。

どこまでも見とをす月の野中哉    長虹
<どこまでも みとおすつきの のなかかな>。月のきれいな晩、広い野原を歩いていると夜にもかかわらず何処までも見渡せる。

峠迄硯抱て月見かな         任也
<とおげまで すずりかかえて つきみかな>。明月を題材にして一句ものしてやるぞ、とばかり峠まで硯持参で登ってきた。しかし、あまりに月がきれいなので見とれてしまって一句どころか半句もできずじまい。硯の重さだけがしっかり身にしみました。

一つ屋やいかいこと見るけふのつき  龜洞
「いかい」は大きい、すごいなどの意。隣近所の無い一軒家で名月を見ているが、これはやっぱりすごい月だとしみじみ思うことだ。

名月は夜明るきはもなかりけり    越人
<めいげつは よあくるきわも なかりけり>。名月はあまりに明るいので、夜明けの境が分からないくらいだ。

名月やとしに十二は有ながら     文鱗
<めいげつや としにじゅうには ありながら>。満月は、年に12回はあるというのに、この中秋の名月こそ最高だ。 

名月やかいつきたてゝつなぐ舟    昌碧
湖水に出て名月を楽しむ。水の中の月を楽しむために舟の櫂をつきたててそれに舟を繋留してじっくり月を眺めよう。

めいげつやはだしでありく草の中   傘下
名月の夜、草原をはだしで歩く。夜露に濡れた草の葉に写る月を足の裏に感じながら歩く。

名月や鼓の聲と犬の声        二水
<めいげつや つづみのこえと いぬのこえ>。どこかで名月の宴を開いている。皷の音が聞こえる。それと一緒に犬の声も聞こえてくる。

見るものと覚えて人の月見哉     野水
<みるものと おぼえてひとの つきみかな>。中秋の名月というものは、見るものだと決められているとばかりに、風流など分からない人までが見に出てくる。

名月の心いそぎに
むつかしと月を見る日は火も焼かじ  荷兮
<むつかしと つきみるひは ひもやかじ>。名月のことばかり考えたいので、気ぜわしい。こういう日は何もしないにかぎる。特に火など燃やさないようにしよう。

いつの月もあとを忘れて哀也     
<いつのつきも あとをわすれて あわれなり>。名月は今年の月が最高で、過去に見たそれは見劣りがしてしまう。

名月や海もおもはず山も見ず     去来
<めいげつや うみもおもわず やまもみず>。名月と海や山との取り合わせもあるだろうけど、ともかく今はもう月のみに意識を集中させたい。

めいげつや下戸と下戸とのむつまじき 胡及
<めいげつや げことげことの むつまじき>。名月というのはすごいもので、下戸と下戸とでも月の美しさに魅了されて話が弾む。

めいげつはありきもたらぬ林かな   釣雪
林間にこぼれる名月を眺めて歩いているが、これでもうよいという気持ちにならない。いつまでも歩き足りないという気持ちにかられていることだ。

宵に見し橋はさびしや月の影     一髪
<よいにみし はしはさびしや つきのかげ>。名月の宵の内。多勢の月見客でにぎわっていた橋も夜更けて誰もいない。ただ、月だけがこうこうと欄干を照らしている。

十三夜
影ふた夜たらぬ程見る月夜哉     杉風
<かげふたよ たらぬほどみる つきよかな>。九月十三夜の月は、十五夜に二夜足らないのに、それ以上に見飽きぬほどに見ても未だ足らないほど美しい。

朔日
暮いかに月の氣もなし海の果     荷兮
<くれいかに つきのけもなし うみのはて>。「朔日」は月は見えない。日は暮れてみたが、水平線の果てまで探してみてもどこにも月は無い。

二日
見る人もたしなき月の夕かな     
<みるひとも たしなきつきの ゆうべかな>。「たしなき」は不足の状態をさす。二日になってようやくかけらのような月が出ては来たが、見る人とて無く、間延びした夕方だ。

三日
何事の見たてにも似ず三かの月    芭蕉

四日
夕月夜あんどんけしてしばしみむ   卜枝
<ゆうづくよ あんどんけして しばしみん>。西の空にかすかな四日の月が出た。行燈を灯しはしたものの、月影が弱く行燈の火で消えてしまいそうだ。しばし、灯りを消して束の間の月を眺めるとしよう。

五日
何日とも見さだめがたや宵の月  伊豫一泉
<いくかとも みさだめがたや よいのつき>。たしかに五日の月というのはどうも特徴が無い。

六日
銀川見習ふ比や月のそら     岡崎鶴聲
<あまのがわ みならうころや つきのそら>。先月の七月七日には、天の川の星のことが心配で夜空を眺めたものだが、それから今八月六日、すっかり天の川の辺りの景色に馴染んでしまった。「見習う」は見て馴染むこと。

七日
能ほどにはなして歸る月夜哉   岐阜一髪
<よきほどに はなしてかえる つきよかな>。七日の月は、日没時にはちょうど中天にいて、真夜中に西に沈む。話し込んだがよい頃合に辞してきたのできれいな月を見ながら家路につける。


    雪 二十句

大津にて
雪の日や船頭どのゝ顔の色      其角
<ゆきのひや せんどうどのの かおのいろ>。元禄元年11月27日、大津の尚白亭での作と言われている。冬の雪の日でも、真っ黒に日焼した船頭の顔色は変わらない。「船頭どの」は謡曲の名調子から取った。

いざゆかむ雪見にころぶ所まで    芭蕉

竹の雪落て夜るなく雀かな      塵交
<たけのゆき おちてよるなく すずめかな>。竹の枝に積った雪が落ちる。反動で枝は跳ね上がる。そこにとまっていたスズメは驚いて夜なのに鳴声をあげる。

かさなるや雪のある山只の山    加生
冬の景色。雪をいただく崇高な山が遠景にひかえている。その前に雪の無い平凡な山なみが重なるようにつづく。

車道雪なき冬のあした哉     加賀小春
<くるまみち ゆきなきふゆの あしたかな>。大雪の降った早朝。辺り一面銀世界だが、その中で大街道だけは雪がかかれていて真っ黒な土が一筋続く。この時代でも、北国街道のような大きな街道の雪はかかれていた。

はつ雪を見てから顔を洗けり     越人
<はつゆきを みてからかおを あらいけり>。とうとう降った初雪。雨戸を開けて真っ白な世界に我を忘れて見惚れてしまった。しばらくして我にかえって顔を洗う。

はつ雪に戸明ぬ留守の庵かな     是幸
<はつゆきに とあけぬるすの いおりかな>。作者是幸については不詳。

ものかげのふらぬも雪の一つ哉    松芳
雪の降った後の景色。静寂で草木一本そよとも動かない。こういう景色も雪の魅力の一つだ。「ふらぬ」は「振らぬ」こと。

くらき夜に物陰見たり雪の隈     二水
<くらきよに ものかげみたり ゆきのくま>。昼間見るとのっぺりして起伏も無い雪景色だが、夜暗くなってから見ると意外と凹凸が有る。これぞ雪の隈だ。

雪降て馬屋にはいる雀かな      鳧仙
<ゆきふりて うまやにはいる すずめかな>。急に雪に見舞われてねぐらに帰れなくった雀たちが馬小屋に入っていったが、一晩そこへ泊まるつもりらしい。「降る雪におのがねぐらを頼みてや軒に入りくる雀いろどき」(後西院)がある。 作者鳧仙<ふせん>については詳細不明。

夜の雪おとさぬやうに枝折らん  岐阜除風
<よるのゆき おとさぬように えだおらん>。夜になって雪が降りだした。よく見たいので庭木の枝に積ったゆきをそっと枝ごと折ってくる。

ゆきの日や川筋ばかりほそぼそと   鷺汀
<ゆきのひや かわすじばかり ほそぼそと>。一面真っ白の世界。ただ、小川だけが黒々と残っているが、それとても岸辺まで雪にせめられて細くなっている。

初雪やおしにぎる手の寄麗也     傘下
<はつゆきや おしにぎるての きれいなり>。「寄麗」は現代語の「美しい」ではなく、「清潔」の意。清浄無垢な初雪を力いっぱい握り締めてみた。その握った手までが清潔になったような気がする。

雪の江の大舟よりは小舟かな     芳川
<ゆきのえの おおぶねよりは こぶねかな>。雪の日の港。大きい船よりも真っ白くなってしまった小舟の方が景色の中で生きている。

雪の朝から鮭わくる聲高し      冬文
<ゆきのあさ からざけわくる こえたかし>。大雪のため漁には出られない。こんな朝は、乾鮭を売る呼び声がかまびすしい。

雪の暮猶さやけしや鷹の声      桂夕
<ゆきのくれ なおさやけしや たかのこえ>。雪の夕方。昼から続いている鷹狩の音がいよいよ鮮明に聞こえてくる。「鷹の声」とは、鷹狩の鷹の足に付けた鈴の音のこと。

ちらちらや淡雪かゝる酒強飯     荷兮
<ちらちらや あわゆきかかる さかこわい>。酒蔵の酒の仕込み作業中。酒米を炊いてもうもうたる湯気を上げる強飯を広げている。そこへ雪が降ってきた。寒ければ寒いほどうまい酒が醸される。

はつ雪や先草履にて隣まで      路通
<はつゆきや まずぞうりにて となりまで>。心はずむ初雪。ちょっと隣の辺りまで、草履のまま行ってみよう。

はかられじ雪の見所有り所      野水
<はかられし ゆきのみどころ ありどころ>。花見や月見なら名所もあるが、雪の名所や見所というものは無いようだ。

舟かけていくかふれども海の雪    芳川
連日の雪が港に係留されている舟を白くしていくのに、海の方は平気な顔して雪を溶かして飲み込んでいる。


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