續猿蓑

巻之下

夏之部


   郭 公

の雹をさそふやほとゝぎす     其角
<あかつきの ひょうをさそうや ほととぎす>。明け方の薄明かりの中を鋭い声を上げながら横切るホトトギスは、雹を連れてくるのではないか。この時代、雹は農作物に被害を与えるだけでなく、隠れるものの無い街道などでは人馬に大きな被害が出ることがあって恐れられていた。

ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁     丈草
<ほととぎす なくやこすいの ささにごり>。「ささ濁」は、雨で川や湖の水がにごること。ここでは琵琶湖の水。湖の水が濁っている。あれはホトトギスが激しく鳴いて湖面を渡ったために、水が乱れて濁ったに違いない。

しら濱や何を木陰にほとゝぎす    曾良
<しらはまや なにをこかげに ほととぎす>。一面に続く白浜。隠れるものとて無いこの広大な浜辺で、ホトトギスが鳴いているが、一体何処に羽を休めると言うのだろうか?

蜀魄啼ぬ夜しろし朝熊山       支考
<ほととぎす なかぬよしろし あさまやま>。「朝熊山」は、三重県伊勢市近郊の山で歌枕。ホトギスの渡るのを待って一晩中寝ずにいたがいまや白々と夜が明けてきた。朝熊山でのこと。朝と白々明けた朝をかけた。

鳴瀧の名にやせりあふほとゝぎす   如雪
<なるたきの なにやせりあう ほととぎす>。「鳴滝」は、京都嵯峨野の北、御室川にある滝で歌枕。この滝の上を横切るホトトギスは、滝の轟音に打ち消されないように競り合いながら啼いて通るのである。

の居なじむそらやほとゝぎす    芦本
<つばくらの いなじむそらや ほととぎす>。ツバメが居ることが当たり前になるほどなじんだ頃に、ホトトギスがやって来る。するとみんな郭公ホトトギスと猫も杓子もそちらに関心を移す。作者浦田蘆本<ろほん>は、美濃の人。通称は藤兵衛。

よりも勢田になけかし子規
此句は石山の麓にて,順礼の吟じて
通りけるとや
<よどよりも せたになけかし ほととぎす>。石山寺は瀬田川の川に近い。ホトトギスといえば淀川の広々とした芦の原を舞台として有名であるが、ここ瀬田川はその同じ川だ。ぜひ、この辺でも啼いて有名になって欲しい。

郭公かさいの森や中やどり      沾圃
<ほととぎす かさいのもりや なかやどり>。「葛西」は、江戸隅田川の東岸。現東京都葛飾区。関東でのホトトギスの名所は筑波山。そこへ渡るには葛西の森で中休みして行ったに違いない。

  木 附 草花

橙や日にこがれたる夏木立      闇指
<だいだいや ひにこがれたる なつこだち>。「日にこがれる」とは、陽に焦がれるで、日焼をすること。橙は、白い花が咲いて青い実がなるが、晩秋になると橙色になる。そのまま収穫しないでいると、来春になってまた青い色に還ってしまう。ただ、日焼したような薄汚さは仕方ない。一句は、夏木立の中の橙の実、その日焼したような去年の実がなっているというのである。

里々の姿かはりぬなつ木だち     野萩
<さとざとの すがたかわりぬ なつこだち>。野山が夏の景色に衣更えしたら、村里の風景は一変して実に活気にあふれた姿となった。

園中 二句
此中の古木はいづれ柿の花      此筋
<このなかの こぼくはいずれ かきのはな>。柿の花が咲いている。みんな勢いよく咲いているので、どれが若木でどれが古木か分からないほどだ。

年切の老木も柿の若葉哉       千川
<としきりの おいぎもかきの わかばかな>。「年切」は、年なりのことで、柿は一年おきに実をつけたりつけなかったりする。園内の柿の老木で今年は休みの木がある。これは実をつけないから花も咲かないのに、若葉ばかりは元気一杯青々している。

姫百合や上よりさがる蜘蛛の糸    素龍
<ひめゆりや うえよりさがる くものいと>。西行の歌「雲雀たつあら野におふる姫百合の何につくともなき心かな」を背景に置いて詠んだ句。姫百合の花に上から蜘蛛の糸が一本さがって結ばれているが、それでもなおまだ姫百合は頼りない、もっと強力な支持が必要な気がする。

題山家之百合
しら雲やかきねを渡る百合花     支考
<しらくもや かきねをわたる ゆりのはな>。山家の庭の垣根に白百合が咲いていた。まるでそこまで峰の白雲が降りてきたのかと思えるほどに。

山もえにのがれて咲やかきつばた   尾頭
<やまもえに のがれてさくや かきつばた>。山火事のあった山にいってみるときれいに杜若の花が咲いている。水辺に咲く花で山火事の火の粉を避けられたのであろう。よかった。

冷汁はひえすましたり杜若      沾圃
<ひやじるは ひえすましたり かきつばた>。お吸物の冷え汁はしっかりと冷えて、さわやかな味である。庭前にはすっくと立ったカキツバタが紫の花をつけている。

のとヾく水際うれし杜若    イガ宇多都
<てのとどく みずぎわうれし かきつばた>。目の見えない身には水辺に咲くカキツバタなどは危険なので滅多に手に触れることはできない。幸いに道端の水際で手にとって見ることができた。宇多都<うたのいち>は伊賀上野の人。

夏菊や茄子の花は先へさく      拙候
<なつぎくや なびすのはなは さきへさく>。夏菊は紫色の花をつける。同じような色彩だが、その美しさではナスの花は夏菊にかなわない。そこで恥ずかしがって先に散ってしまう。

はせを庵の即興
昼がほや日はくもれども花盛     沾圃
<ひるがおや ひはくもれども はなざかり>。芭蕉庵に咲くヒルガオの花。ヒルガオは晴れた日にしか咲かないかと思えば、曇っていても咲いている。しかも花盛りだ。

夕顔や酔てはほ出す窓の穴      芭蕉

夕がほや裸でおきて夜半過     亡人嵐蘭
<ゆうがおや はだかでおきて やはんすぎ>。暑苦しい宵の内。裸で寝て眠ってしまった。夜中に起き上がってみると夜目にも白く夕顔の花。

藻の花をちヾみ寄たる入江哉     残香
<ものはなを ちじみよせたる いりえかな>。入り江に色とりどりの藻の花が咲いている。強風にあおられてここへ圧迫されて寄せられたものであろう。

藺の花にひたひた水の濁り哉     此筋
<いのはなに ひたひたみずの にごりかな>。「藺の花」は、水辺に咲く藺草。雨が降ってきて、その藺草の根元に濁った水が浸してきた。

蓮の葉や心もとなき水離れ      白雪
<はすのはや こころもとなき みずばなれ>。水面が減ったために、蓮の葉がひとり立ちしている。見ていて何とも不安定で心もとない感じがする。

あるじ共に蓮の蝿おはん      良品
<きゃくあるじ ともにはちすの はえおわん>。蓮池の縁台に主客並んでくつろいだ時間を過ごしている。そこへ蝿が飛んできた。二人で申し合わせたように蝿退治を始めてしまった。

  

朝露によごれて凉し瓜の土      芭蕉

ふりや袖に入ても重からず     至曉
<ひめふりや そでにいれても おもからず>。「姫ふり」はマクワウリの矮性品種。食用にはならず、子供の遊びに使われた。子供の土産に姫ウリを買って懐に入れてみたが、なるほど軽くて荷物にはならない。

  ぼ た ん

麁相なる膳は出されぬ牡丹哉     風弦
<そそうなる ぜんはだされぬ ぼたんかな>。牡丹が咲いた。富貴のシンボル牡丹の花の前で食事をするとなると粗末な膳は出せない。風弦は、伊勢の人。

  早 苗

京入や鳥羽の田植の帰る中     長崎卯七
<きょういりや とばのたうえの かえるなか>。鳥羽は、京都南部の地域。ここは鳥羽田というくらい古来美しい田が開けたことで有名。ここの田植えの時期に作者は淀川を上って京への旅の途次、早乙女の一行と遭遇したのである。何とも幸運なことだ。

早乙女に結んでやらん笠の紐     闇指
<さおとめに むすんでやらん かさのひも>。かわいい早乙女たち。作業中に笠の紐が緩んだなら、私がしめてあげるよ。君たちの手は泥んこなのだから。

ふとる身の植おくれたる早苗哉    魚日
<ふとるみの うえおくれたる さなえかな>。早乙女たちの中で、作業が遅れる者がいる。彼女は、他の者達に比べて太り気味だ。

田植哥まてなる顔の諷ひ出し     重行
<たうえうた まてなるかおの うたいだし>。田植え歌なんてわいわい歌う労働歌かと思っていたら、歌い出しをするする役目の者は緊張して、真面目な顔つきで始めるので驚いた。

一田づゝ行めぐりてや水の音     北枝
<ひとたずつ ゆきめぐりてや みずのおと>。田んぼの水。田んぼをつぎつぎとめぐり流れて、全体を潤していく。長い時間をかけてできたその水の循環の巧みさ、これぞ水田稲作農業の真髄なのである。

里の子が燕握る早苗かな       支考
<さとのこが つばくらにぎる さなえかな>。親の田植えを田んぼの畦に座って見ている幼子は、なんと手にツバメの子供を握っている。親が、子供の気を紛らすために与えたのであろう。

  

蚊遣火の烟にそるゝほたるかな    許六
<かやりびの けぶりにそるる ほたるかな>。「蚊遣火」は、蚊を追い払うために、くすぶらせる煙のことで、蚊取り線香のことだが、この時代には鉋屑や杉の葉などを燃やして蚊を追い払った。この煙に、驚いたのは蚊だけではなくて蛍まで飛行ルートをそれてしまって何処かへ行ってしまってのである。作者は、蛍を見るために蚊遣りを焚いたのであろうが。

三日月に草の螢は明にけり      野萩
<みかづきに くさのほたるは あけにけり>。三日月が空に出た。その頃、草叢から蛍は起き出して飛び始めた。

  納 涼

涼しさや竹握り行藪づたひ      半残
<すずしさや たけにぎりゆく やぶづたい>。竹薮の中の道を行く。竹を握ってみると冷たいぐらいの涼しさだ。時折、竹を握って涼を楽しみながら竹薮の中を行く。

無菓花や廣葉にむかふ夕涼      維然
<いちじくや ひろはにむかう ゆうすずみ>。イチジク(正しくは無花果)の葉は、アダムやイブの股間を隠せるぐらいに大きい。その大きな葉が夕暮の風に動き始めた。今日一日夏の猛暑だったが、これだけでもちょっとした夕涼みになる。

深川の庵に宿して
ばせを葉や風なきうちの朝凉     史邦
<ばしょうはや かぜなきうちの あさすずみ>。「深川の庵」というのは、芭蕉庵のこと。芭蕉葉が風の無い朝のうちゆったりと広い葉を垂れている。それがかえって安心と涼しさをくれる。破れ易い芭蕉葉が風に揺れると破れないかと心配でかえって暑くなってしまう。

凉しさや駕籠を出ての繩手みち    望翠
<すずしさや かごをいでての なわてみち>。「繩手道」は、田の間の道。あぜ道。なわてじ。なわて(『大字林』)。せまい籠に押し込められて行くよりは、自分の足で歩いた方が、こんな田中の道ではよほど涼しくて気持ちがいい。

石ぶしや裏門明て夕凉み      長崎牡年
<いしぶしや うらもんあけて ゆうすずみ>。「石ぶし」とは、川底の石の間にいるところからこの呼び名がついたという。ウキゴリ・ヨシノボリ・カジカの異名(『大字林』)。裏門の外には小川が流れている。その川底にはカジカが何時だって石の下に隠れて餌の来るのを待っている。私はそこで夕涼み、石に伏して、涼んでいるので、わたしも「石ぶし」かもしれない。

漫興 三句
腰かけて中に凉しき階子哉      洒堂
<こしかけて ちゅうにすずしき はしごかな>。「漫興」とは、見たままを詩にすること。はしごを立てかけてその中段に腰かけて夕涼みをする。高いから風が通ってとても涼しい。こんなやり方をも有ったのだ。

凉しさや縁より足をぶらさげる    支考
<すずしさや えんよりあしを ぶらさげる>。縁側に腰掛けて裸足の足をぶらぶら下げてみる。すると縁の下を通ってきた風が素足に吹いて気持ちがいい。

生醉をねぢすくめたる凉かな     雪芝
<なまよいを ねじすくめたる すずみかな>。「ねぢすくめる」は、ねじ伏せること。生酔いで帰ってきたが、涼しい風に当たったら、酔いがすっかりねじ伏せられたと見えて醒めてしまった。

はせを翁を茅屋にまねきて
凉風も出來した壁のこはれ哉     游刀
<すずかぜも でかしたかべの こわれかな>。芭蕉翁を招いての句。かくのごとく汚い茅屋ですが、こんな壁の穴があればこそよく風が通って涼しいのです。これが師匠芭蕉翁への私のせめてものもてなしなのです。

いそがしき中をぬけたる凉かな    
<いそがしき なかをぬけたる すずみかな>。忙しいさかりをちょっと抜け出して裏口に涼みに出てみると何と涼しいことよ。人目をしのんだことで涼しさが倍加したらしい。

立ありく人にまぎれてすヾみかな   去来
<たちありく ひとにまぎれて すずみかな>。忙しそうに街中の往来を立ち歩いている人は、涼んでいるのではないが、私は家を抜け出して人ごみの中を歩いているとこれがなんとも涼しいのだ。

黙禮にこまる凉みや石の上      正秀
<もくれいに こまるすずみや いしのうえ>。石の上にたって涼んでいると、下を人が通っていく。その際黙礼をして通り過ぎるのだが、返事のしようが無くて困るものだ。声を出してくれたら何か言って、涼むのをすすめたり、立ち話もできようものを。

職人の帷子きたる夕すヾみ      土芳
<しょくにんの かたびらきたる ゆうすずみ>。普段は汚い労働着を着ているであろう職人らしい男が、夕涼みをしている。帷子を着てしっかりと決めているのが面白い。

凉しさや一重羽織の風だまり     我眉
<すずしさや ひとえばおりの かぜだまり>。「一重羽織」は、裏地のつけてない背抜きの羽織で、風邪が抜けるので涼しく夏着用する。

夜凉やむかひの見世は月がさす    里圃
<よすずみや むかいのみせは つきがさす>。夜が更けて涼みに表に出てみると、隣の家の店に月光がさしている。

  盛 夏

かたばみや照りかたまりし庭の隅   野萩
<かたばみや てりかたまりし にわのす>。「かたばみ」とは、カタバミ科の多年草。漢字では、酢奨草。庭や道端に自生する。茎は地面をはい、細い葉柄の先端にハート形の葉が三個つく。春から秋にかけて黄色の小さな花が咲く。果実は円柱形で、熟すとはじけて種子を飛ばす。全草酸味があり、葉は疥癬(かいせん)の薬になる。スイモノグサ(『大字林』)。そのカタバミ草が庭の隅に、まるで土器が干からびたみたいに庭の隅に固まっている。「照りかたまり」は、カタバミから来ていてあまり意味は無い。

盛る見世のほこりの暑哉      万乎
<すもももる みせのほこりの あつさかな>。八百屋の店先に旬のスモモが沢山陳列されている。表を通る人々が巻き上げるほこりがそれにかかってうっすらと白っぽくなっている。繁華街の繁盛の成果だ。

藪醫者のいさめ申されしに答へ侍る
実にもとは請て寐冷の暑かな     正秀
<げにもとは うけてねびえの あつさかな>。かねてから先生に言われていたように寝冷えをしないように心がけて生きてまいりましたが、この暑さですよ。布団などかけて寝られるものじゃない。結果、言われるとおり寝冷えをしまして、苦しくてなりません。説教じゃなくて病気を治してください。薮医者さん。

取葺の内のあつさや棒つかひ     乙州
<とりぶきの うちのあつさや ぼうつかい>。「取葺」とは、板を載せてその上に石で押さえただけの最も粗末な屋根。「棒つかい」は、いまや流行らない武芸塾など開いている「剣豪」。たいがい、天照大神の掛け軸などを正面に飾って、時代錯誤の剣術を指南する。貧乏だから屋根も葺けない道場で土用の暑さの中を稽古に励んでいる。

さがる日盛あつし臺所       恕風
<すすさがる ひざかりあつし だいどころ>。台所の天井を見ると蜘蛛の糸に付着した真っ黒なススが何十本となくぶら下がっている。それが暑さをますます助長して耐え難い不快感をもよおす。

ゆふ垣もしまらぬ暑かな     尾張素覧
<いばらゆう かきもしまらぬ あつさかな>。薔薇の生垣。それを束ねている垣根も手入れが行き届かなくて壊れかかっている。そこへ新芽が伸びてぼうぼうになっているが、この暑さのことで手入れをする気持ちもわかない。

草の戸や暑を月に取かへす      我峯
<くさのとや あつさをつきに とりかえす>。貧しい茅屋では、日中の暑さは耐えがたく人も家も死んだようになっている。しかし、夕月が出る頃ともなれば、何処からといわず涼風が入ってきて、人も家も生気を取り戻すのだ。

あつき日や扇をかざす手のほそり   印苔
<あつきひや おうぎをかざす てのほそり>。暑い夏の昼下がり。扇をかざす手が、焼け付く太陽の陽に照らされてやせこけて見える。または、暑さの続く夏場の夏ばてに、痩せこけて扇を持つ手が力ない。作者印苔<いんたい>については不明。

あげて暑さいやます疊かな     卓袋
<つみあげて あつさいやます たたみかな>。古来日本の家屋では、夏になると畳を上げて床に呉座を敷き涼をとった。これによって高温多湿の気候の中で畳のカビ防止にも役立ったのでもある。生活の知恵だったのである。一句は、しかし積んである畳を見ると、ここに暑さが凝縮しているようで一入暑さを感じると言うのである。

になる蚫も夜のあつさかな     里東
<のりになる あわびもよるの あつさかな>。一夜明けたらアワビが腐って糊のように崩れてしまった。夜の暑さに耐えられなかったらしい。

立寄ればむつとかぢやの暑かな    沾圃
<たちよれば むっとかじやの あつさかな>。ご苦労なことに鍛冶屋は夏でも注文がある。炉には赤々と火が燃えて、近寄ってみればムッとする暑さだ。

  竹 の 子

にぬはるゝ岸の崩かな       可誠
<たけのこに ぬわるるきしの くずれかな>。川岸の護岸の壊れたところを見れば、そこには竹の根が縦横に走っていて、あたかも根が土を縫いこんでいるように見える。可誠<かせい>は伊賀上野の人。

若竹や烟のいづる庫裏の窓      曲翠
<わかだけや けむりのいずる くりのまど>。若だけがすくすくと伸びた寺の裏庭。その先の庫裏の破風から煙が立ち昇っている。寺の食事作りが始まったのだろう。絵画的に美しい句。

  五 月 雨

しら鷺や青くもならず黴雨の中    出羽不玉
<しらさぎや あおくもならず つゆのなか>。五月雨に何もかもカビが生えて青くなる。白鷺だけはその青に染まらず白さを保っている。 

さみだれや蠶煩ふ桑の畑       芭蕉

五月雨や踵よごれぬ磯づたひ     沾圃
<さみだれや かかとよごれぬ いそづたい>。さみだれの長雨ですっかり洗われた磯では、岩場の土はきれいに消えて、歩いても泥跳ねが無い。

夕立にさし合けり日傘        拙候
<ゆうだちに さしあわせけり ひからかさ>。突如降ってきた夕立に、おもわず持っていた日傘で間に合わせてしまった。日傘は防水性がないので本当は夕立にさすのは不具合なのである。

白雨や蓮の葉たゝく池の芦      苔蘇
<ゆうだちや はすのはたたく いけのあし>。激しい夕立が降っている。芦は狂ったように右へ左へ大きく揺れる。揺れるたびに蓮の葉に倒れるが、さすが蓮の葉は超然として動かない。

夕だちやちらしかけたる竹の皮    暁烏
<ゆうだちや ちらしかけたる たけのかわ>。若だけの皮を剥こうとてか、夕立が激しく竹林に降りかかる。雨の重みに耐えかねて一枚一枚はぎ落されていく。

ゆふ立に傘かる家やま一町      圃水
<ゆうだちに かさかるいえや まいっちょう>。「ま一町」は、ぴったり一町先だの意。一町は60間。約100m。急な夕立に降られたが、傘を借りられる親しい人の家までは未だ丁度一町ある。そこまでには間違いなくずぶ濡れだ。

  

白雨や中戻りして蝉の聲       正秀
<ゆうだちや なかもどりして せみのこえ>。蝉時雨れの真ん中に夕立がやってきた。蝉の声はぴたりと消えたが、夕立が戻っていくとセミたちも戻ってきて、また蝉時雨となった。

きつと來て啼て去りけり蝉のこゑ   胡故
<きっときて なきてさりけり せみのこえ>。蝉が一匹何処からともなくやって来て、一啼きし終えたらまた何処ともなく去っていった。こういうタイプの蝉はアブラゼミに多いが。作者胡故<ここ>は、近江膳所の人。

森の蝉凉しき聲やあつき聲      乙州
<もりのせみ すずしきこえや あつきこえ>。森の中の蝉の声。様々な声だが、中には涼しい声もあり、また暑い声もあり。涼しいのは、ヒグラシ等どうだろう?暑い代表はクマゼミやアブラゼミだろう。

蝉啼やぬの織る窓の暮時分      暁烏
<せみなきや ぬのおるまどの くれじぶん>。一日中機織の音が続いた夕暮れ時。まだ蝉が啼き、機織の音も続く。夏の夕暮のけだるい気分をとらえた句。

  か つ を

籠の目や潮こぼるゝはつ鰹      葉拾
<かごのめや うしおこぼるる はつがつお>。この時代、初鰹は鎌倉沖の相模湾の海で獲れたカツオを江戸に急送したのである。粗い目の籠にカツオを入れて走り続けて江戸に運ぶのだが、そこから相模湾の海水が点々と落ちて江戸まで続くのであろう???。作者葉拾<ようしゅう>については不明。

  雑 夏

昼寐して手の動やむ團かな      杉風
<ひるねして てのうごきやむ うちわかな>。手に団扇を持って昼寝をはじめる。団扇がゆっくり動いていたが、その動きが間遠になって、やがて全く動かなくなった。この人は誰だろう???

虫の喰ふ夏菜とぼしや寺の畑     荊口
<むしのくう なつなとぼしや てらのはた>。寺の裏の畠。夏野菜も暑さでぐったりして、虫の食料にも乏しい不作ぶりだ。

夏痩もねがひの中のひとつなり    イセ如眞
<なつやせも ねがいのうちの ひとつなり>。夏痩せは多くの人にとっては、不快なことらしいが、私のようなデブにとっては、これが願いでもあるのだ。

川狩にいでゝ
じか焼や麥からくべて柳鮠      文鳥
<じかやきや むぎからくべて やなぎばえ>。「柳鮠」とは、ハヤ・モロコなど、柳の葉に似た体形で長さ10センチメートルほどの川魚をいう呼び名(『大字林』)。これを直焼きにして川岸で食べるのだが、最初麦の束を燃やして、そのオキで焼いて食う。

異草に我がちがほや園の紫蘇     蔦雫
<ことくさに われがちがおや そののしそ>。雑草の生えた庭の中にあって、シソの葉っぱだけが、偉そうに目立っている。何と言っても俺は葉は大きいし、第一食用となって役に立つのだから、と言わんばかりに。

夕闇はほたるもしるや酒ばやし    水鴎
<ゆうやみは ほたるもしるや さけばやし>。「酒ばやし」とは、新酒が出来上がったときに酒屋の軒にぶら下げる杉玉。夕闇が近づいて蛍が、酒ばやしの周りを飛んでいる。かれらも晩酌をしたいのだろう。

せばきところに老母をやしなひて
あぶる幸もあれ澁うちは      馬見
<うおあぶる さいわいもあれ しぶうちわ>。シブ団扇は、台所で七輪やかまどの火をあおるのに用いる。このシブ団扇、老母に食べさせられるようおいしい魚をあぶる幸運にありついてくれよ。

むきや笟かたぶく日の面         望翠
<うめむきや いかきかたぶく ひのおもて>。「笊」は、ざるのこと。漬けた梅の皮を剥いて、笊籬に並べて、夕方になって日が傾いたらその方角に向きを変える。こういう念入りな作業がおいしい梅製品を作るコツだ。

澤瀉や道付かゆる雨のあと      野童
<おもだかや みちつけかゆる あめのあと>。「澤瀉」は、葉面の脈が高く隆起しているのでいう。オモダカ科の多年草。水田・沼畔などに自生する。葉は鏃(やじり)形で、長い柄がつく。六、七月に高さ約60センチメートルの花茎を立てて、円錐状または総状に白色三弁の単性花をつける。塊茎は食用。野茨菰。ハナグワイ(『大字林』)。この草は、葉の方角が人家の方向を指すと言われているが、大雨の後でその葉っぱの方向が変わったが、さては人家の方角も変わったのかしら??

蝸牛つの引藤のそよぎかな      水鴎
<かたつむり つのひくふじの そよぎかな>。藤の葉についたカタツムリ。ゆったり動いていたが急に角を引っ込めた。風にそよいだ藤の葉の動きに驚いたものであろう。

晋の淵明をうらやむ
窓形に昼寐の臺や簟         芭蕉

粘ごはな帷子かぶるひるねかな    維然
<のりごわな かたびらかぶる ひるねかな>。「のりごわな」とは、のりのごわごわと強く効かせたもの。強くのりをかけた帷子は、肌に密着しないので昼寝にかぶって寝るには最適だ。

貧僧のくるしみ、冬の寒さはふせぐよすが
なきに、夏日の納凉は扇一本にして世上に
交る
帷子のねがひはやすし錢五百     支考
<かたびらの ねがいはやすし ぜにごひゃく>。冬の寒さはお金が無いと過ごせない。何と言っても暖かいものを買わなくてはならないからだ。それに比して、帷子時である夏場はいい、扇子の一本も買えばよくて、銭五百文もあれば十分に過ごせる。