芭蕉db

各務支考

かがみ しこう

(寛文5年〜享保16年(1731.2.7))

(『芭蕉堂歌仙図』より)

Who'sWho/年表basho


 美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、正徳1年(1711)8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 上の図のように、生涯坊主姿でとおした。
 盤子<ばんし>、隠桂<いんけい>は支考の別号。

email02.gif (1023 バイト)

支考宛書簡 (元禄7年閏5月23日)


支考の代表作