續猿蓑

巻之下

旅之部 


  送 別

元禄七年の夏、はせを翁の別を
見送りて
麥ぬかに餅屋の見世の別かな     荷兮
<むぎぬかに もちやのみせの わかれかな>。元禄7年5月22日、芭蕉は最後の西上の旅で名古屋に到着。荷兮宅に3泊した。だから、この句は5月25日を舞台とする。米ぬかの匂いの立ち込めた餅屋の前で師を見送った。これが荷兮が見た蕉翁最後の姿であった。

別るゝや柿喰ひながら坂の上     維然
<わかるるや かきくいながら さかのうえ>。場所は不明(京都か?)だが、これ は、元禄7年の玉祭に郷里伊賀に帰るにあたって、これを見送ったときの別れの句。柿を食いながら気軽に分かれましょう。送られる人に気持ちの負担を与えない配慮。 維然は、この後芭蕉を慕って伊賀に出向き、9月8日に大坂へ向かって旅立つについて、支考らと行を共にし、以後芭蕉の死まで行動を共にした。

 

許六が木曽路におもむく時
旅人のこゝろにも似よ椎の花     芭蕉

  留 別

洛の維然が宅より故郷に帰る時
鼠ども出立の芋をこかしけり     丈草
<ねずみども でたちのいもを こかしけり>。維然が、京都から美濃に帰省するのを見送った餞別吟。出発の朝に食べる予定だった芋の数が少なくなっている。ネズミの奴が曳いて行ったな。

鮎の子のしら魚送る別哉       芭蕉

甲斐のみのぶに詣ける時
宇都の山辺にかゝりて
年よりて牛に乗りけり蔦の路     木節
<としよりて うしにのりけり つたのみち>。「宇都の山辺」は、駿河の岡部付近にあった歌枕「つたのみち」。身延は、山梨県南巨摩郡身延町、ここに日蓮宗の総本山久遠寺がある。久遠寺を詣でるために旅に出たものの年にはかなわない。ついに牛の背中に乗ることになってしまった。

稲づまや浮世をめぐる鈴鹿山     越人
<いなづまや うきよをめぐる すずかやま>。西行の歌「鈴鹿山浮世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらむ」を受けた句。鈴鹿の山に稲妻が走る。西行の歌の浮世のことを思い出した。

にべもなくつゐたつ蝉や旅の宿    野徑
<にべもなく ついたつせみや たびのやど>。旅の宿。蝉の声が窓辺に聞こえたかと思うと、あっという間に何処かへ消えてしまった。

出羽の國におもむく時
みちのくのさかひを過て
そのかみは谷地なりけらし小夜碪   公羽
<そのかみは やちなりけらし さよきぬた>。その昔、この辺りは谷地だったらしい。奥まった貧しく寂しい在所の明け方、砧を打つ音が聞こえてきた。公羽は山形の人。

十團子も小つぶになりぬ秋の風    許六
<とおだごも こつぶになりぬ あきのかぜ>。「十團子」は、駿河の宇津山の登り口で売っていた団子。10個を櫛に刺して売っていたという。東海道の名物。なぜか小さく見える十団子。おりしも秋風がショウショウと吹いている。 元禄5年7月15日、参勤交代の江戸下向の折、東海道宇津谷峠で詠んだと言われている。
 現代では、世知辛くなった世相を嘆く意味に多く使われる句。許六の作品中最も人口に膾炙した句である。

大名の寐間にもねたる夜寒哉     
<だいみょうの ねまにもねたる よざむかな>。秋の到来と共に夜寒が一入。あたかも昔旅の途次だだっ広い大名の寝間に寝たことがあるがあの寒さと同じだ。

くま野
くるしさも茶にはかつへぬ盆の旅   曾良
<くるしさも ちゃにはかつえぬ ぼんのたび>。熊野路の旅は起伏が激しく殊の外苦しい。しかし、この盂蘭盆に時期には沿道の人々が茶のサービスをしてくれるので、茶に飢えることはない。ありがたいことだ。

つばくらは土で家する木曽路哉    猿雖
<つばくらは つちでいえする きそじかな>。木曽路を歩いていくと人家の壁は板壁ばかり。何とも寒々した貧しさだ。しかし、ここのツバメはちゃんと土壁の家を造っている。

明ぼのはたちばなくらし旅姿     我峯
<あけぼのは たちばなくらし たびすがた>。橘の花が曙の薄暗さの中に白く浮かぶ。私は旅に出るためにもうすっかり仕度はできた。「橘」と「発ちはな」をかけている。

煎りつけて砂路あつし原の馬     史邦
<いりつけて すなみちあつし はらのうま>。「原」は、静岡県富士市近郊の地名。富士の溶岩がつづき原になっているところからこの地名がついた。夏の旅では、この場所は難所で、砂が焼けて暑かったという。
 一句は、馬ですら足が焼ける聞きしにまさる難所だここは。

囘國の心ざしも、漸々伊勢のくにゝ
いたりて
文臺の扇ひらけば秋凉し      亡人呂丸
<ぶんだいの おおぎひらけば あきすずし>。「文臺」は、(1)書物・短冊などをのせておく小さな低い机。(2)香会・歌会や連歌などの席で、懐紙・短冊などをのせておく机。また、執筆に用いる(『大字林』)。呂丸は、山形の羽黒から、京へ向かうに伊勢参りをした。それを回国と言っているのである。伊勢に至って西行にちなんで文臺の代わりに扇をつかう。秋だから涼しくて扇を使う必要はないのだが、何しろ扇ならぬ文臺だから、これを使わなくちゃ。

蒲團いたヾく旅の寒かな      沾圃
<わがふとん いただくたびの さむさかな>。旅の宿。布団を受け取って自室に戻る。これで夜寒が避けられるか?この時代、大半は紙子に包まって震えて寝ていたので、これは少し高級なのである。

常陸の國あしあらひといふ所に行暮て、やどり
求んとせしに、その夜はさる事ありとて宿をか
さヾりければ、一夜別時の軒の下にかヾまりふ
して
縁に寐る情や梅に小豆粥       支考
<えんにねる なさけやうめに あずきがゆ>。前詞にあるように宿泊を断られたが、縁の下に休ませてもらって、庭の梅の香を満喫し、そのうえ小豆粥まだ頂戴した。少し皮肉を込めたか?

はつ瓜や道にわづらふ枕もと     
<はつうりや みちにわずらう まくらもと>。旅の途次急に病んで路傍に横になった。すると頭のところにマクワ瓜がなっている。ああ、そんな季節になったのだと、ひょんなことで気がついた。

元禄三年の冬、粟津の草庵より武江におもむくと
て、嶋田の驛塚本が家にいたりて
宿かりて名をなのらするしぐれかな  芭蕉


續猿蓑は、芭蕉翁の一派の書也。何人の撰といふ事をしらず。翁遷化の後、伊賀上野、翁の兄松尾なにがしの許にあり。某懇望年を經て、漸今歳の春本書をあたえ、世に廣むる事をゆるし給へり。書中或は墨けし、あるひは書入等のあほく侍るは、草稿の書なればなり。一字をかえず、一行をあらためず、その書其手跡を以て、直に板行をなす物也。

  元禄十一寅  五月吉日

ゐつゝ屋     庄兵衛書 勝重