嵯峨
(ろくがつや みねにくもおく あらしやま)
(きよたきや なみにちりなき なつのつき)
(ゆうがおに かんぴょうむいて あそびけり)
(あさつゆや なでてすずしき うりのつち)
曲水亭
(なつのよや くずれてあけし ひやしもの)
この書簡は、元禄7年6月3日、および12日付け江戸の杉山杉風からの手紙に応える形で書かかれた杉風宛真蹟返書である。この頃の芭蕉の動静がよく分かる書簡である。芭蕉が江戸を発つ前に始められていた、子珊編纂の『別座舗』が「軽み」の新風を体得していることにおおいに満足している様子や、弟子たちの間で彼ら自身の評価と芭蕉の弟子を見る目との間のずれなども見えて興味ある書簡である。
元禄7年も、梅雨が去ると、京都には燃え立つような猛暑の季節がやってきた。嵯峨野の落柿舎から見える嵐山には純白の入道雲が沸き立っている。それを嵐山はしっかりと負っている。実に力強い句である。
清滝や波に散り込む青松葉
大井川波に塵なし夏の月(笈日記)
この句には諸説がある。ここで示すように芭蕉は、「清滝や波に塵なき夏の月」と詠み、杉風宛書簡にも報告した。もとより元禄7年夏嵯峨の落柿舎でのことである。清滝は保津川の上流の清滝川のこと。これが初案らしい。「清滝」の清は「塵なき」ことと重なって無駄である。そこで、「大井川」の句に推敲した。しかし、この秋芭蕉は園女亭で「白菊の目に立ててみる塵もなし」と詠んで「塵なし」という言葉の置き場所を発見してしまったのである。そこで再度、「大井川」を放棄して、「清滝や波に散り込む青松葉」を決定稿としたというのである。ただし、以上の流れは芭蕉の 最期の大坂での話で落ち着かない時期の話であって、真偽の程はわからない。(『去来抄』参照)
夕顔は干瓢の原料となる実。現在では栃木県がその主産地になっている。夕顔の実の皮を薄く長く剥いて、乾燥させたものに醤油と砂糖で味付けして寿司種にしたものが干瓢である。
一句は、夕顔棚の下で夕顔の実を剥いて干瓢を作ったというのである。連続して細く長く剥くのは容易ではないから、芭蕉にちゃんとこれができたかどうかは疑わしい。「遊びけり」という下五は自信の無さを表している気がする。
朝露によごれて涼し瓜の土
となっている。また、『笈日記』では、
朝露によごれて涼し瓜の泥
である。
同十二日御細書、二十二日に京より廻り大津へ相届き候:6月12日付のお手紙は、22日凶徒から大津へ回送されてきました。このとき、芭蕉は膳所義仲寺の無名庵に滞在していた。
随分性をもまざるやうに合点いたし候へども:気をもまないように注意してやってるが、の意。それでも大勢の人に囲まれてどうも疲れてしまったという気持ちが底にある。これには、先の寿貞尼の死など身辺に泡立つ不吉があったのであろう。
次郎兵衛そこもとへ下り候へども:次郎兵衛は寿貞尼の息。この上方への旅に同行したが、6月8日の寿貞尼の訃報に急ぎ江戸に帰した。支考と維然を次郎兵衛につけてやったので心配しないようにとつづく。
木曽塚無名庵:膳所義仲寺境内の無名庵は芭蕉のここにおける草庵。江戸から次郎兵衛が戻ってくるまで一ヵ所に留まっている、というのである。
浪化と申す御隠居:越中井波の瑞泉院第11世住職で、東本願寺第15代法主常如上人の弟にあたり、この時24歳で、兄を失ったのである。
『有磯海集』:浪化の蕉門入門を記念して出版されたのがこの句集。巻頭は、「早稲の香や分け入る右は有磯海」。この句は『奥の細道』越中通過の折の途中吟であった。
『別座舗』:子珊が杉風・桃隣とともに編纂した句集。芭蕉が、江戸を離れるにあたって読んだ句「紫陽花や薮を小庭の別座舗」を発句とする。「軽み」の句集として後世に残る。これを上方の門人が絶賛したというのである。
もはや手帳にあぐみ候をりふし:「手帳」は手帳俳諧といって価値の無い句の蔑称。「あぐみ」は飽きること。もはや時代は手帳俳諧を喜ぶ時ではない、こういう作品こそあるべき俳諧の姿だと門人達が言ったというのである。
三神かけて挨拶申し進じ候に御座無く候:和歌の3神にかけても、お世辞でいうのではない、の意。杉風が『別座舗』に参加していたのでこういう。三神は、諸説あって分明ではないが天満天神・住吉明神などをいう。
才麿:才丸。芭蕉青年時代の俳諧仲間だった。前出。その才丸が、『別座舗』を絶賛したと、一有が酒堂にに語ったという。
いかやうにもこれ有るべきことと:解決策を見出さなくてはならない、の意。停滞した手帳俳諧の世界を打破しなくてはならないのだが、具体策が無いことを暗示している。
曲水・正秀・去来・之道・酒堂:近江・京大坂の蕉門の重鎮達。Who'sWho参照
新たに目を頼みあらため候ても:何度も何度もチェックしても、また他人に頼んで(新鮮な目で見てもらっても)、誤りはあるものだというのである。
野坡・利牛御除き、腹立ち候よし、尤もに候:野坡や利牛の作品を『別座舗』でほとんど採録しなかったことに、二人が怒っているという話だが、それはもっともである、というのである。この編集方針は杉風にも責任があると難じているのである。野坡・利牛についてはWho'sWho参照。
この連衆、一所に申し合せ置き候ところ、御隔ての恨み、有るまじきにもこれなく候:この二人(野坡と利牛)は、一緒に俳諧の道を歩もうと語り合ってやっているのに差別をされたのだから、恨みに思うのは当然だ、の意。
そこもと宗匠ども:江戸の俳諧宗匠達が、とやかく批判がましいことを言っているそうだが、の意。構わずうっちゃって置けというのである。この「宗匠」達の中にはなんと蕉門の重鎮嵐雪も入っている。
「随分追ひ付き候て、米櫃の底かすらぬやうに致せ」:「軽み」をちゃんと勉強して、人気を失わないようにしないと、米櫃が空になって食えなくなる、とそう言いなさい、というのである。
杉風はただ実の人柄ゆゑ、拙者門人の飾りまでと存じ:上方での評価では、杉風はただの人格者で芭蕉門人の中の飾り物に過ぎないなどというものがある、という。とんでもないことだ、の意が込められている。
俳諧あがり候沙汰:桃隣は以前から、俳諧の腕が上がっているという評判だった。だから今回のことで評価はなお一層定着したというのである。
まづ「軽み」と「興」ともっぱらに御励み、人人にも御申しなさるべく候:「軽み」と「興=諧謔性」とを重要視していることに注意すべきであろう。