芭蕉db

杉山杉風宛書簡

(元禄7年6月24日)

書簡集年表Who'sWho/basho


 六月三日御状、相達し候*。同十二日御細書、二十二日に京より廻り大津へ相届き候*。いよいよ御無事のよし、珍重大慶ななめならず候。拙者、まづ息災にて土用も過し候。随分性をもまざるやうに合点いたし候へども*、行くところ帰るところ、人多きに入り乱れ迷惑いたし候。伊賀にて同名屋敷の内に庵つくり候とて、当月四日より門人ども普請はじめ、盆前に伊賀へ迎え申すべきよし、段々申し越し候あひだ、盆は旧里の墓参など致すべくと存じ候。次郎兵衛そこもとへ下り候へども*、盤子・素牛*と申す両人一所に付き添ひ申させ候て、不自由なること御座無く候あひだ、御気遣ひなさるまじく候。盤子は、伊勢山田を仕伏せ候て*、小庵を結び候よし、おひおひ申し来たり候ゆゑ、伊勢下りかかり申させ候へども*、まづ修業のため*、且つは次郎兵衛帰り候までは次郎兵衛帰り候までは*、木曽塚無名庵*に一所に相勤め申し候。近ごろ手柄と、ほめ申すことに御座候。右の首尾ゆゑ、山田へも少しの滞留に拙者も当秋冬の間に参らでは、盤子ため悪しく候あひだ、さだめて参宮がてら参り申すべく候。
 大坂の之道・酒堂両門人、別々に京まで飛脚、音物さし越し*、之道は二上り三嵯峨*に一所に居り申し候。越中の御堂東御門主の御舎弟、浪化と申す御隠居*、御門跡御遷化に付き上京、忌中ながらに去来まで*訪ねられ、対顔いたし候。門人になさるべきよし達て御申し候を、いろいろことわり申し候へども、さまざま御ことわり*御申し候て、門人の約束いたし候。それにつき、『有磯海集』*急々御仕立て、門人発句ども、去来たのまれ少しづつ取り集め候あひだ、そこもとより御寄せなさるべく候。
一、『別座舗』*、門人残らず驚き、もはや手帳にあぐみ候をりふし*、かくのごとく有るべき時節なりと、大手を打って感心いたし候。右の通り、三神かけて挨拶申し進じ候に御座無く候*。もとより他へ出で申さず候ゆゑ、他門宗匠の沙汰承らず候*。大坂にて、伊勢より出で候一有*と申す俳諧師かたにて、才麿*申し候て、「あまり世の風俗俳諧手詰り候やうになり候ところ、なにさま*、いかやうにもこれ有るべきことと*、内々存じ候。これはこれはと驚き候*」よし、一有・酒堂に語り候よし、相聞え候。才麿、いつはりに申すとは存ぜず候。まづ、他はともかくも、曲水・正秀・去来・之道・酒堂*大きによろこび候あひだ、桃隣・子珊仕合せにて候。清書、貴様に見せ申さず候よし、両人共に初めての板行に候へば、これも尤もに候。何遍もあらため、新たに目を頼みあらため候ても*、二ところ三ところは相違これ有るものに候。これまで段々江戸より出で候板木、門人の中とても拙者下見いださざるには、誤り少しづつこれ無き本は御座無く候。重ねて*、覚悟いたし候やうに、御申しなさるべく候。誤りは人の申し分。是非なく候。
一、野坡・利牛御除き、腹立ち候よし、尤もに候*。この連衆、一所に申し合せ置き候ところ、御隔ての恨み、有るまじきにもこれなく候*。一巻は御入れ候ても、苦しかるまじく候*。両人かたへも、よろしく申しつかはし候*
一、そこもと宗匠ども*、とやかくと難じ候よし、御とりあへなさるまじく候。「随分追ひ付き候て、米櫃の底かすらぬやうに致せ」*と御申し、一円一円御構ひなさるまじく候*。上方筋の沙汰、杉風はただ実の人柄ゆゑ、拙者門人の飾りまでと存じ*、子珊といふ者は、前かた沙汰なき作者*にて候に、このたび両人の働き、「さてもさても」とて、いづれも驚き入り申し候。桃隣はかねて俳諧あがり候沙汰*を人々申しならはし候ゆゑ、なほこのたび尤もと請け合ひ候。おひおひ打ち返し申さざるにやうに*、御申しなさるべく候。まづ「軽み」と「興」ともっぱらに御励み、人人にも御申しなさるべく候*。少々くたびれ候あひだ、追てこれを申し進ずべく候。以上
                      ばせを
     六月二十四日                (書判)
杉風様

 嵯峨      

六月や峰に雲置く嵐山

(ろくがつや みねにくもおく あらしやま)

清滝や波に塵なき夏の月

(きよたきや なみにちりなき なつのつき)

夕顔に干瓢むいて遊びけり

(ゆうがおに かんぴょうむいて あそびけり)

朝露や撫でて涼しき瓜の土

(あさつゆや なでてすずしき うりのつち)

曲水亭     

夏の夜や崩れて明けし冷し物

(なつのよや くずれてあけし ひやしもの)

  そのほか、不定の句ども後より。

書簡集年表Who'sWho/basho


 この書簡は、元禄7年6月3日、および12日付け江戸の杉山杉風からの手紙に応える形で書かかれた杉風宛真蹟返書である。この頃の芭蕉の動静がよく分かる書簡である。芭蕉が江戸を発つ前に始められていた、子珊編纂の『別座舗』が「軽み」の新風を体得していることにおおいに満足している様子や、弟子たちの間で彼ら自身の評価と芭蕉の弟子を見る目との間のずれなども見えて興味ある書簡である。

六月や峰に雲置く嵐山

元禄7年も、梅雨が去ると、京都には燃え立つような猛暑の季節がやってきた。嵯峨野の落柿舎から見える嵐山には純白の入道雲が沸き立っている。それを嵐山はしっかりと負っている。実に力強い句である。

清滝や波に塵なき夏の月

清滝や波に散り込む青松葉

大井川波に塵なし夏の月(笈日記)

 この句には諸説がある。ここで示すように芭蕉は、「清滝や波に塵なき夏の月」と詠み、杉風宛書簡にも報告した。もとより元禄7年夏嵯峨の落柿舎でのことである。清滝は保津川の上流の清滝川のこと。これが初案らしい。「清滝」の清は「塵なき」ことと重なって無駄である。そこで、「大井川」の句に推敲した。しかし、この秋芭蕉は園女亭で「白菊の目に立ててみる塵もなし」と詠んで「塵なし」という言葉の置き場所を発見してしまったのである。そこで再度、「大井川」を放棄して、「清滝や波に散り込む青松葉」を決定稿としたというのである。ただし、以上の流れは芭蕉の 最期の大坂での話で落ち着かない時期の話であって、真偽の程はわからない。(『去来抄』参照)

夕顔に干瓢むいて遊びけり

 夕顔は干瓢の原料となる実。現在では栃木県がその主産地になっている。夕顔の実の皮を薄く長く剥いて、乾燥させたものに醤油と砂糖で味付けして寿司種にしたものが干瓢である。
 一句は、夕顔棚の下で夕顔の実を剥いて干瓢を作ったというのである。連続して細く長く剥くのは容易ではないから、芭蕉にちゃんとこれができたかどうかは疑わしい。「遊びけり」という下五は自信の無さを表している気がする。

朝露や撫でて涼しき瓜の土

 泥のついた真桑瓜に朝露がどっさりついている。これを撫でてみるとなんとも言えない涼しさが瓜の中から伝わってくる。瓜は芭蕉の大好物であったので、見ただけで涼しくなったのであろう。
 なお、『続猿蓑』では、

朝露によごれて涼し瓜の土

となっている。また、『笈日記』では、

朝露によごれて涼し瓜の泥

である。

夏の夜や崩れて明けし冷し物

(続猿蓑)

 6月16日は結局終夜に及んだ。この句からして、明けて17日の作と見るのが妥当であろう。句会は、膳所の曲水亭で開かれ、支考・維然・臥高・曲水に芭蕉を加えて五吟歌仙であった。この夜の会は大変盛んなものだったのであろう。それだけに一夜過ぎて、興奮の冷めた朝が来て見ると、会の為に準備した冷やし物なども崩れてしまって、それこそつわもの共が夢の跡といった按配であったのであろう。ここに「冷やし物」とはそうめんや水菓子などを言うのだそうである。
 なお、この折の作「
飯あふぐ嬶が馳走や夕涼み」もある。