芭蕉db

奥の細道

(那古の浦 元禄2年7月13〜14日)


 くろべ四十八が瀬*とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦*に出。担籠の藤浪は、春ならずとも*、初秋の哀とふべきものをと*、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ*」といひをどされて、かヾの国に入 。

 

わせの香や分入右は有磯海

(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)


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表紙 年表


 芭蕉らは、7月13日早朝、市振を出発した。新潟県 糸魚川市市振から富山県朝日町をへて、入善町に入った。ここでは馬の便が無く、人足を求めて荷物を運ばせたようだ。黒部川をはじめ黒部四十八が瀬の多くの川を越え、夕方、滑川に到着してそこに一泊した。この日は雨後晴、猛暑であった。
 明くる14日は快晴、猛暑。朝、滑川市を出発して、富山には行かず、常願寺川・神通川・庄川を渡り、高岡市へと旅を続けた。猛暑のなかの強行軍であったため二人は疲労困ぱいした。この夜は、高岡に宿を取った。
 

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早稲の香や分け入る右は有磯海

 有磯海は富山湾。旧暦7月中旬ともなれば既にここ早場米地帯の米は穂が出て豊作を報せていたはず。その野面の先に有磯海が広がる。有磯海は荒磯海で富山湾の海で歌枕。ただし、芭蕉一行はこれを右に見る道を一路金沢目指して歩いていく。
 ここで芭蕉が「早稲」を主題としたのは必ずしも嘱目だけではなかったのかもしれない。俳諧の起源と言われる連歌の最も原初のものと言われるのは、万葉集の「佐保川の水を堰上げて植し田を(尼つくる) 「刈る早稲飯はひとりなるべし(家持つぐ)である。大友家持は、天平18年(746年)7月に越中国国守となってこの地に赴任し、天平勝宝3年(751年)まで滞在した。芭蕉は、家持の「早稲飯」を思い出すことで、担籠の藤波へと連想がつながっていったのかもしれない。

 


早稲の香や分け入る右は有磯海」の句碑
松が沢山残る「放生津八幡宮」の境内にありました。
(文と写真:牛久市森田武さん)