芭蕉db

奥の細道

(市振の宿 元禄2年7月12日)


与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)


 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し*。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
 

一家に遊女もねたり萩と月

(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)

 

曾良にかたれば、書とヾめ侍る*

前へ 次へ

表紙 年表


 7月12日。天気快晴。新潟県西頸城郡能生町を出発。糸魚川の早川という川で芭蕉は足を滑らせて衣類を濡らしてしまった。河原で乾燥させてから、再出発。昼、糸魚川の新屋町左五右衛門宅で休憩。夕刻5時、市振に到着。「桔梗屋」という旅籠に宿泊したと当地では言っているが不明。
 市振は、新潟県西頚城郡青海町<にしくびきぐんおうみちょう>の親不知の南2.5km、北陸線市振駅周辺。寛延年間に関所が置かれ、北陸道のチェックポイントとなった。
 宿舎の記述が曾良にも無いので不明だが、本文のような事実は曾良の随行記には無いので、この遊女の一件は虚構であろうと思われる。


親知らず、子知らずの全景

いまは、トンネル道路が出来、北陸道の最大の難所も、難なく通過することが出来るが、芭蕉の時代は、浪静かな時に、波打ち際をそっと旅したのかと思うと、当時の苦労が偲ばれます。(文と写真提供:牛久市森田武さん)


「一家に遊女もねたり萩と月」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)


芭蕉が宿泊した「桔梗屋跡地」

 市振の宿は、今も、昔も「何も無い場所」のようでした。ただ、地元のオバサン達は、親切に長円寺や桔梗屋跡の案内をしてくれました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)

 

Wb01184_.gif (1268 バイト)

 

一家に遊女もねたり萩と月

 この一句、とかく虚構か真実かで論争が絶えない。最後の一文に曾良が記録したといいながら曾良の『旅日記』に記述の全く無いこと、西行の江口の遊女との和歌のやり取りの謡曲『江口』に真似て創作したものだとする、などさまざまである。
 「一家」の読み方も同じ宿の意と、孤立した人里離れた怪しげな一軒家とする説など有って定まらない。まあ、とおりいっぺんに読めばそれでよし、深読みすれば奥深く読める豊かな句ということなのであろう。