芭蕉db

菅沼曲水宛書簡

(元禄3年6月30日 芭蕉47歳)

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當四日・十四両通之貴簡無恙落手*、於幻住庵披覧*、舒巻対顔の思をなし、御懐敷奉存候*。先御堅固御勤仕、珍重不之ぞんじ候*。今夏□御苦労之程いかばかりかと推察仕候。爰元、山の閑涼、西南にむしろしかせ、猿の腰かけに月を嘯*、椎の木陰にとう焉吹虚の気を養ひ*、無何有*の心の楽、年々の夏はかならず此山にこそとと、八幡宮ちかい(ひ)も同じく、且は極楽の種にや。
竹助殿*日々御成長、随分かしこき御生付、機嫌よく御座候間、御内□□□老媼*其外御留守居之衆、竹助殿よりもいそいそとふるまひ、淋しき躰にも見得不申候。実に目出度存候。野生*、御立後大津にしばし遊び候而、庵の狸の穴などふさがせ*、三日四日在庵、其後本福寺*・尚白*□□之内、甚暑京へおもひかけず奉存候處に*、去来・加生数々状さし越候故*、六月初メ出京、三五日と存候處におもひの外長逗留、十八日迄罷過候。美濃より如行*と申者尋登り、大坂よりもいまだしらざる者*尋問候而、是等にさへられ*、五七日も外に滞留仕、山の清涼よそになし候事、無念に被存候。今夏は去来へも不参、加生方に休ひ、去来与昼夜申談候*。加生、理屈は破りかね*、是には困じ候得ども、志は真実を誉申候*。夫婦ながらの厚情不浅候段々云て、慰之為見物にも折々出申候*
十九日早朝帰庵、如行も同道、幻住庵に両宿、目を驚し帰り申候*。秋中みの(美濃)へ迎の心にて尋来候に付*、大かた下向節は大垣へも帰るにて可御座候。十月と申も今の事にて御座候*。不肖の者、御情厚候故、御なつかしさやまず候。
一、折ふし高橋殿懸御目*、御懇意殊外に御座候。朝夕交うちさまざま御噂のみ□出候。盆十四日、越人*参る筈に御座候。其節は又々別而御噂申に而可御座候。在庵も名残をしながら七月内と存候。又重而は去来□□聖護院村のはずに御座候*。此度の出京滞留、暑気身つかれ候而、俳諧一句も不仕候。加生老い□□□に□□秋の来て来てと申のばし、
  おもふことふたつのけたる其あとは花の都も田舎なりけり*
申候而、山菴逃帰候*
    六月三十日                           芭蕉
曲水様

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  幻住庵在庵中の元禄3年6月30日、江戸勤番中の曲水からの書簡への返書。曲水は、芭蕉に幻住庵を斡旋した人。その留守宅の状況を伝えて安心させようとしたり、幻住庵の山の冷気が芭蕉に苦痛を与えているにもかかわらず京都の暑さに比べて幻住庵のよさを強調することで曲水に心配させないように配慮している。しかし、そろそろ幻住庵を出ることが予告されてもいる。芭蕉の幻住庵の隠棲は必ずしも静かな生活ではなく京大坂は勿論、地元大津や名古屋の門人達の往来頻繁で落着かない庵住まいであったことが分る。この直後の元禄3年7月23日、芭蕉は幻住庵を出た。