膳所 から江戸へ戻った曾良に宛てた芭蕉書簡集中最も長文の書簡。この年は、予定では江戸に帰ることになっていたが止めて、寒中には伊賀上野へ帰るかも知れない と伝えている。 実に様々な人々の状況が書かれていて、コミュニケーションのよさがよく分かる。特筆すべき情報としては、路通が詐欺を働いたとされた茶入れ紛失事件の茶入れが見つかったようで、とりあえず犯人は路通ではなかったらしいことがある。
この書簡は、曾良書簡(元禄3年9月26日付)と往復書簡となっている。
極寒には伊賀へ引取候事も可レ有二御座一候:<ごっかんにはいがへひきとりそうろうこともござあるべくそうろう>。この冬の寒中には伊賀で越冬するかもしれない、と言うが、これは今年は江戸には戻らない、の意 。
俳諧、病気故しかじかうかヾひ不レ申候へ共 、人々の書きてつかはし候:俳諧については、私は病気がちなのであまりしっかりとは鑑賞させてもらってはいないのですが、それでも大勢の人々から自分の作品を書いてよこします。
手帳がちに成、をもたく成候故:「手帳がち」こしらえ物の意。「をもたく」もって回ったような表現のこと。芭蕉の用語。それに比べて「ひさご」は軽みを世に問うた作品と言われるだけあって、軽さが強調されたのである。
其内、戸伊麻の旅寝有申候間、泪を御落し被レ成まじく、猶御一覧之上御了簡可レ被二仰聞一候:<そのうち、といまのたびねありもうしそうろうあいだ、なみだをおおとしなるまじく、なおごいちらんのうえ後りょうけんおおせきかさるべくそうろう>と読む。ひさご集の中に「戸伊摩」の話を思い出させる句がありますよ、というのである。これは、『奥の細道』石巻の章で、喉が渇いたのに誰も水を呉れないのを見かねて土地の侍今野源太左衛門が芭蕉らを親戚に案内して「白湯」を飲ませてくれた話を思い出させるような句「なまぬる一つもらひかねたり」(乙州)があることを指して、ここを鑑賞して意見をくれと、あの折「なまぬる」を共に「貰いかねた」曾良に呼びかけたのである。
名月の御句珍重:<めいげつのごくちんちょう>。曾良の名月を詠んだ句を褒めたもの 。どの句かは不明。
猪兵衛牢人之事:不満分子の取締りを目的として浪人の身上調査が行うのを「浪人改め」と言った。江戸の公安警察であるが、職が無くぶらぶらしているような者が取り締まりの対象になった。猪兵衛が何故対象となったかは不明だが、続く文章にあるように曾良の奔走で事無きを得たようだ。曾良の不気味な政治力の一端かどうか??。
貴様御せわし候而、佐渡守様御隠居へ御すまし被レ下候由:佐野守は伊勢長島藩主佐渡守忠充の父でこの頃には隠居の身の良尚。曾良はこういう偉い人に猪兵衛の身柄引き受けを依頼したのである。もっとも、曾良はその昔長島藩に仕えていたのでその縁だが、中にかつての同僚大久保六右衛門が入ってまとめてくれたのであろう。この人に礼状を差し上げたいと芭蕉は言う。
大津尚白大望之間、菊の句可レ被レ懸二芳意一と御頼可レ申候:<おおつしょうはくたいものかん、きくのくほうりょにかけらるべくそうろうとおたのみもうさるべくそうろう>。大津の尚白が希望しているので、素堂に「菊の句=不明」を揮こうしてもらいたいと頼んでみてください、の意。この時分には未だ芭蕉と尚白は決裂していなかった。
宇賀神・弁天両神神書之旨、并に神徳の事共、あらあら御書付被レ成、菅沼氏迄被レ遣可レ被レ下候:<うがじん・べんてんりょうしんしんしょのむね、ならびにしんとくのことども、あらあらおかきつけなされ、すがぬまうじまでつかわされくださるべくそうろう>と読む。宇賀神と弁天様に関する神道上の教えについて、菅沼曲水が聞きたがっているので手紙に書いてあげてください。宇賀神は福の神の総称、弁天神も同様。曾良は神道の専門家であった。
文章古く成候而さんざん気の毒致候:『幻住庵の記』については、推敲に推敲を重ねてなったもので、「気の毒」とは大いに神経を使い果たしたという意味で、excuseでもsorryでも無い 。
安適老御逢、御噂のよし、忝存候:<あんてきろうおあい、おうわさのよし、かたじけなくぞんじそうろう>。安適は歌人の原安適で、奥の細道の折に芭蕉に歌を送っていて、芭蕉は松島でそれを出して読んだと書いてある。曾良が安適に会ったときに、芭蕉の噂話に花が咲いたと曾良が報告したことへの反応。
加右衛門身代之事共委敷申参候而大悦に存候:<かえもんしんだいのことどもくわしくもうしまいりそうろうてだいえつにじんじそうろう>。加右衛門なる人が不明のためどのような身代の主題があったのか意味不明。
焼レ蚊辞一巻相達し、感入せしめ候:<かをやくことばいっかんあいたっし、かんにゅうせしめそうろう>。「焼蚊辞」は嵐蘭の作。是が届いたので、読んだらすばらしかった。の意。
随分無沙汰ものにて:嵐雪は、この六月に『其袋』を出板しているが、芭蕉に何も知らせていなかった。ために、嵐雪への不満をぶちまけている。嵐雪はすでに師匠芭蕉と並ぶ意識であったのだが、芭蕉は未だ弟子と思って遇している。そこに二人の軋みの原因がある。その点、其角も同様だが、其角はそれなりに師匠と相対しているので、ここでは評価が高い。
其角、花摘出板のよし:其角は7月に「花摘」出板。その方針については、嵐雪と違い其角は師匠に伝えて意見も聞いていたのである。
桃印ゆがみなりにも相つとめ候よし被二仰聞一、大慶仕候:甥の桃印が何とか元気でやっていることに安堵している。桃印は、この3年後に死去 。
少も出かさずとも、ころばぬ斗大きなる手柄に而御座候:何と言ってなくとも、失敗しないと言うばかりで手柄と言って良い。桃印のダメさについて、芭蕉は十分にあきらめていたことが分かる。
勘兵衛も見事口過いたし候由、気毒に存候:勘兵衛は、桃印と同様、芭蕉身内の桃隣。特に優れた才能が有るというのでもないが、この頃は、芭蕉の七光りも有って俳諧の師匠としてお呼びがかかるようになってきた。それが誤字の「気(の)毒」ではなくて、「奇特<きどく>」なことだ、うれしいと言っているのである。 。
さては命内に対面うたがひなく候:弟子の宗波が病気なっていたようだが、元気の報を知らされたことに対しての感想。彼に、生きて再会できそうだ、というのだ。 宗波は『鹿島詣』を曾良と共に芭蕉に同行している。
五左衛門殿さた被二仰聞一、頃日越人見舞に参、此咄にてさた承候:<ござえもんどのさたおおせきかされ、けいじつえつじんみまいにまいり、このはなしにてさたうけたまわりそうろう>。「五左衛門」は曾良の実の弟で信州諏訪の人、高野五左衛門。彼が江戸に出てきてこの期間曾良と同居していた。その情報は、別途、先ごろ幻住庵まで見舞いにやってきた名古屋の越人からも聞いていたというのである。
道因事は一段之首尾に候:道因は、深川の医者で蕉門の弟子。この頃、何か俳諧上のヒットがあったのであろう 。
道意法印医好之事被二仰聞、驚入申候:<同意ほういんいずきのことおおせきかされ、おどろきいりそうろう>と読む。道意、芭蕉門下の俳人だが、同時に道因の弟子として医学を志したと聞いて驚いたというのである。
先々出候へば能御座候:<まずまずいでそうらえばよくござそうろう>。これはどうやら、路通がくすねたと言われていた茶入れが発見されたということらしい。路通は濡れ衣を着せられたということらしいが、さりとて彼の行状の悪さもあって、芭蕉は未だ彼を許していないと書いている。さりながら、この前分にもあるように、芭蕉は路通をかわいがってきたのである。