その後、藤原惺窩に師事して儒学を修めた。木下長嘯子の歌仙堂をまねて、1641(寛永18)年、京都洛北の地に、中国歴代の詩人を36人選んで「三十六詩仙」の人と作品をまつる「詩仙堂」を建てた。
(2021/08/15 更新)
その後、藤原惺窩に師事して儒学を修めた。木下長嘯子の歌仙堂をまねて、1641(寛永18)年、京都洛北の地に、中国歴代の詩人を36人選んで「三十六詩仙」の人と作品をまつる「詩仙堂」を建てた。
俳諧人または俳諧の宗匠らは、年始には「歳旦帳」を出版するのが慣わしであった。年始の行事ではありながら、実際には年末に印刷して、年内に頒布することが行われていた。その際、三つ物を5組組み合わせたものを「五つ物 <いつつもの>」と言った。ここに、「三つ物」とは、「発句・脇句・第三」をセットしてこういう。
摂津の国江口の里(大阪市東淀川区)は、平安中期以降紀州の熊野神社や高野山、大阪の四天王寺や住吉神社の参詣が盛んになって発展した淀川右岸の歓楽街。ここを往来する男達を客とする
屈指の遊女の里であった。有名な逸話として、仁安二年(1167)、大阪天王寺に詣でた西行が、ここでにわか雨に遭遇。宿を借りようとしたところ、宿の主が拒否。そこで、「世の中をいとふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな*」(西行)と恨み言を詠んだところ、宿の主人である遊女の
「妙」がすかさず「
世をいとう人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ**」(江口妙)と
返歌を詠んだという(『新古今集』巻第10羈旅歌)。
この話は、後に観阿弥の謡曲『江口』となって一層脚色されることになる。そのストーリーは次のようである。西国行脚の旅僧が、江口の里にきて里の女に会う。じつは、彼女は自分こそその昔西行と会ったあの江口の君
「妙」の化身であると告げ、その時代の舟遊びの様子や歌舞音曲を奏して接待した後、女は普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消えていくのである。
法華経へ誘う説話となっている。
『奥の細道』市振の宿の話は、この江口の「妙」と西行の関係を遊女と芭蕉に対応させつつ、かつ両者の関係を逆転させた発想で書かれているのではないかと
、しばしば指摘されるのである。
* どうせこの世は仮のやどり、世を捨てて仏門に入れとまでは難しいから言わないが、こんなつまらない仮の宿にすらあなたは泊めてくれないのですね。
** あなたは世を捨てたというのだから、こんな汚い仮の宿に心をとどめてはいけません。
延宝4年(1676)湯島天神奉納の、芭蕉と山口素堂(信章)二人で編んだ百韻二巻俳諧。実力急上昇中の芭蕉と才人素堂が西山宗因談林俳諧の春を謳歌した未熟ながら勢い天を衝く作品。「この梅に牛も初音と鳴きつべし」
体長約25センチメートル。背は灰褐色で腹部は白く、夏羽ではくびが栗色になる。潜水が巧みで、小魚・小エビなどを捕らえる。夏、水草を集め葦の茎などに固定した「鳰(にお)の浮き巣」と呼ばれる巣を作る。北海道・本州・九州で繁殖。特に琵琶湖に多いことから、琵琶湖を指して別名「鳰の湖(におのうみ)」などという。カイツムリ。ニオ。ムグッチョ。[季題]冬。
「ホトトギスと郭公」参照
俳諧は本来100句を一つとする連歌の伝統から百韻形式を標準としたのだが、36句形式の俳諧形式が芭蕉時代から盛んに行われた。これを「歌仙」という。
懐紙は二枚を使い、初折と名残ノ折のみからなる。初折の表に6句、裏に12句、名残ノ折の表に12句、裏に6句を書く。初折の面5句と裏8句、名残ノ折の表11句目に月の定座がある。また、花の定座は、初折の裏11句目と名残ノ折の裏5句目に定められている。定座とは、そこに月や花に関わる句が来る。
俳諧には、この他に44句の「世吉(よよし)」、60句の「源氏」などもある
庚申(こうしん・かのえさる)の日に、仏家では帝釈天<たいしゃくてん>・青面金剛<しようめんこんごう>を、神道では猿田彦を祀って徹夜をする行事。この夜には、眠ると体内にいる三尸<さんし>の虫が抜け出て天帝に罪過を告げ、早死にさせるという道教の説によるといわれる。日本では平安時代以降、陰陽師によって広まり、経などを読誦し、共食・歓談しながら夜を明かした。庚申。庚申会<こうしんえ>。おさるまち。さるまち。(『大字林』より)
有力な説によれば、第一次芭蕉庵が消失した天和2年12月28日の江戸大火は「八百屋お七」にかかわる火事だという。ただし、お七の放火によるものではなく、お七の悲劇のきっかけになった火事であって、それゆえにこれを「八百屋お七の火事」と言ったりすることがあるという。 この火事は、駒込大円寺より発し、江戸市中の殆どを消失する大火となった。それゆえ、隅田川を越えて両国や深川まで延焼したのであって、芭蕉庵も被害に遭ったのである。
ところで、『天和笑委集』によれば、本郷森川宿の八百屋市左衛門は駿河の富士郡の農民だったが、江戸に出て八百屋を開いて成功し、豊かに暮らしていたという。家族は、妻に、男子二人と末子の娘お七の五人暮し。特に16歳になったお七は容姿もすぐれ気立ても良い娘であった。(一説には、容姿は並であったというのもある。)上記大火によって市左衛門一家も焼け出され、一家は旦那寺の正仙院に疎開した。この寺には、住職が寵愛していた生田庄之助という小姓がいた。彼は、このとき17歳の美少年だったという。お七は彼に一目惚。下女ゆきを仲立ちにして恋文を交わす仲となったが、明けて天和3年1月10日の夜、ついに二人は深い契りを結ぶ関係になったという。
しかし、楽しい時間はあっという間に終わり、焼けた家も再建されて市左衛門一家はお七をつれて本郷に戻った。仲を裂かれたお七と庄之助は思いが募るばかり。もう一度火事になったなら、前のように二人は近くに居られると考えたお七は、この年の3月2日夜、放火を思いついた。藁に火をつけ隣家の屋根にこれを放り投げたが、こわくなって火の見櫓によじ登り半鐘を打って火事を教えたという。結果、大事には至らなかったが放火は死罪の掟によって断罪され、3月28日市中引き回しの上火あぶりの刑に処せられた。このとき、お七は白の小袖に甲州郡内の碁盤縞の大振袖姿も美しく、従容として死についたと伝えれている
。
特定の月齢の日に講の仲間が集まり、供物をそなえて月の出を待ちながら、飲食をともにし、月を拝む行事。十三夜・十五夜・十七夜・十九夜・二十三夜などに行う。
日本の連歌のはじまりは、日本書紀の酒折の宮における日本武尊とひ燭人<ひともしびと>のやり取り「にひばり筑波を過ぎていく夜か寝つる」、「かがなべて夜には九夜日には十日を」の片歌問答であると言われている。しかし、これが神話である以上、歴史的事実とは言い難い。そこで、やはり最古の歌集である万葉集に起源を求めるしかない。そこにはさまざまな「唱和」の単連歌がある。其の最も古いものとして、「佐保川の水を堰上げて植ゑし田を 尼つくる」・「刈る早稲飯はひとりなるべし 家持つぐ」が連歌の原型として上げられている。こういうユーモアを出発として、「滑稽」を基本的性質とする文芸として和歌から独立し、鎌倉初期以来「和歌」を凌ぐ国民的文芸として「連歌」は発展して行った。
室町末期の山崎宗鑑・荒木田守武らによる滑稽・卑俗な作風を受け、江戸時代に松永貞徳が出て独自なジャンルとして確立。談林俳諧を経て松尾芭蕉の蕉風に至って文学的に高められた。 「座(共同体)」の意識のもとに成立し、発句・連句・前句付・俳文などより成る。(以上『大字林』より)
民間行事の一。前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。特に、正月・五月・九月の吉日を選んで行う行事をいう。待つ間の退屈しのぎに皆で集まって飲食を共にし、歌舞音曲を楽しむことも多く、次第に遊興化した。かげまち。(『大辞林』)
俳諧の標準形。先ず懐紙を4枚を用い、一枚目を初折、二枚目を二の折、三枚目を三の折といい、最後の四枚目を名残ノ折という。夫々を折って表と裏とし、まず初折表には8句を書く。その第1句目が発句である。この八句を「表八句」という。初折の裏、二の折の表裏、三の折の表裏と名残ノ折の表に夫々14句を書き、名残ノ折の裏に8句を置く。
発句は五-七-五で、これに続いて七-七からなる「脇句」が来る。脇句は発句を受ける役割が与えられ、体言止で作られる。ついで、
脇句を発展させるように五-七-五の「第三句」が来る。以後五-七-五と七-七が延々と続く。これらを「平句」という。第三
句は、「て」、「にて」、「らん」で終わるのを必須とする。名残ノ折の裏最後の百韻目を「挙句」という。
このように、中世の連歌から発展してきた俳諧は、百韻形式を標準とするが、延宝頃から多くのバリエーションが生まれてくる。芭蕉の活躍した時代には、36韻の「歌仙」形式がむしろ主流となっていった。
芭蕉の句では、「郭公」と書いてあっても常に「ホトトギス」と読む。これは、平安時代以降、ホトトギスに「郭公」の字を当てることが常習的に行われているためだが、動物学的にはカッコウ(郭公)とホトトギス(時鳥)は異なる科目に属する。下記『大字林』参照。なるほど見分けがつきにくい。
カッコウ: カッコウ目カッコウ科の鳥。全長35センチメートル内外で、翼と尾が長い。背面は灰色、腹面は白で細い不規則な黒の横しまがある。日本には夏鳥として渡来する。開けた林や草原にすみ、カッコー、カッコーと鳴く。自分で巣を作らず、ホオジロやモズなどの巣に産卵し、ひなはその巣の親に養われる。閑古鳥(かんこどり)。呼子鳥(よぶこどり)。合法鳥(がつぽうどり)。[季]夏。
ホトトギス: ホトトギス目ホトトギス科の鳥。全長約30センチメートル。尾羽が長い。背面は灰褐色。腹面は白色で黒い横斑がある。ウグイスなどの巣にチョコレート色の卵を産み、抱卵と子育てを仮親に託す。鳴き声は鋭く、「テッペンカケタカ」などと聞こえる。夏鳥として渡来し、山林で繁殖して東南アジアに渡る。古来、文学や伝説に多く登場し、卯月(うづき)鳥・早苗(さなえ)鳥・あやめ鳥・橘鳥・時つ鳥・いもせ鳥・たま迎え鳥・しでの田長(たおさ)などの異名がある。[季]夏。
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