(市振の宿 元禄2年7月12日)
与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
親知らず、子知らずの全景
いまは、トンネル道路が出来、北陸道の最大の難所も、難なく通過することが出来るが、芭蕉の時代は、浪静かな時に、波打ち際をそっと旅したのかと思うと、当時の苦労が偲ばれます。(文と写真提供:牛久市森田武さん)
「一家に遊女もねたり萩と月」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)
芭蕉が宿泊した「桔梗屋跡地」
市振の宿は、今も、昔も「何も無い場所」のようでした。ただ、地元のオバサン達は、親切に長円寺や桔梗屋跡の案内をしてくれました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)
一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ:<ひとまへだてておもてのかたに、・・・ふたりばかりときこゆ>と読む。ふすまを隔てた通りに面した部屋で二人ほどの若い女の声が聞こえるの意。「面」は、ここが『源氏物語』「帚木」の巻からの影響があると思われるところから、「西」の誤記ではないかという見解がある。
越後の国新潟と云所の遊女成し:<えちごのくににいがたというところのゆうじょなりあし>と読む。遊女は、古くは、宴席などで接待をする女。遊女、売春婦。
白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて:『和漢朗詠集』の「白波の寄する汀に世を過す海士の子なれば宿も定めず」による。 「はふらかし」は身をもちくずすことをいう。
衣の上の御情に、大慈の恵をたれて結縁せさせたまへ:<ころものうえのおんなさけに、だいじのめぐみを・・けちえんさせ・・>と読む。芭蕉一行は墨染めの僧侶姿であった。そこでこの女は、仏の慈悲をもって捨てないでほしいと言ったというのである。
神明の加護、かならず恙なかるべし:<しんめいのかご、かならずつつがなかるべし>と読む。神仏の加護は必ずありますよ、の意。 気休めの発言。
曾良にかたれば、書とどめ侍る:曾良の『旅日記』にはこの記述はない。
全文翻訳
今日は、親不知・子不知・犬戻・駒返など北陸街道の難所を越え、疲れ果てたので早々床に就いた。
ふすまを隔てた南側の部屋で、若い女二人ほどの話す声が聞こえる。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞けば、女たちは越後の国新潟の遊女らしい。伊勢神宮に参詣するために、この関所まで男が送ってきて、それが明日新潟へ戻るので、持たせてやる手紙を認めたり、とりとめもない言伝などをしているところらしい。「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」と詠まれた定めなき契り、前世の業因、そのなんと拙いものかと嘆き悲しんでいるのを、聞くともなく聞きながらいつしか眠りについた。
翌朝出立する段になって、「行方の分からぬ旅路の辛さ。あまりに心もとなく寂しいので、見え隠れにでもよろしゅうございます、お供させていただけないものでしょうか。大慈大悲のお坊様と見込んで、その袈裟衣にかけても慈悲の恵みと仏の結縁を垂れ給え」と涙ながらに哀願する。
不憫とは思ったが、「私たちは諸所方々に滞在することが多いのです。だから、あなた方は誰彼となく先を行く人々の後をついて行きなされ。神仏の加護は必ずありますから」とつれなく言って別れた。哀しみがいつまでも何時までも去らなかった。
一家に遊女もねたり萩と月
曾良に話したら、これを記録した。