(那古の浦 元禄2年7月13〜14日)
くろべ四十八が瀬*とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦*に出。担籠の藤浪は、春ならずとも*、初秋の哀とふべきものをと*、人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ*」といひをどされて、かヾの国に入 。
(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
「早稲の香や分け入る右は有磯海」の句碑
松が沢山残る「放生津八幡宮」の境内にありました。
(文と写真:牛久市森田武さん)
那古と云浦に出:<なごといううらにいず>と読む。那古(奈呉)は、富山県新湊市海岸の 大友家持の歌「東風<あゆのかぜ>いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠るみゆ」で有名な歌枕である。
担籠の藤浪は、春ならずとも:<たこのふじなみ は、はるならずとも>と読む。担籠の藤波は富山県氷見市下田子田子浦藤波神社にあった藤の名所 。ここは、「多胡のうらの底さへ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため」(人丸『拾遺集』)「藤波の影成す海の 底清みしずく石をも珠とぞ吾が見る」(大友家持『万葉集』)の歌枕。旧暦7月のこととてもう藤は季節はずれであった。
蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿貸す者あるまじ:<あまのとまぶきかすかなれば、あしのひとよのやどかすものあるまじ>と読む。貧しい漁村のことだから、宿を かす人も居ないでしょう、というので、立ち寄らずに加賀の国に行った、というのだが、実際は越中で2泊もしている。
黒部付近の北陸線車窓風景
黒部四十八が瀬というだけあって鉄橋の沢山あるところ
(1998.10.31筆者撮影)
全文翻訳
黒部四十八ヶ瀬と言うぐらい、沢山の川を渡って、那古の浦に来た。「多胡のうらの底さへ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため」と詠われた担籠の藤波も今はもう秋、さすがに藤に花は無いだろうが、それでも秋の風情を訪ねてみたいと、人に道を尋ねると、「担籠の藤波はここから二十キロ。磯伝いに行って、向こうの山陰にあるがだけど、漁師の家さえまばらなところなんで、一夜の宿すら貸す者ちゃおらんでないがか」とおどされれば、あきらめて加賀の国へ直行することにした。
わせの香や分入右は有磯海