(石巻 元禄2年5月10日・11日)
十二日*、平和泉*と心ざし、あねはの松・緒だえの橋*など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘*の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」*とよみて奉たる金花山*、海上に見わたし*、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし*。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はら*などよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
2011.3.11東日本大震災で被災した「袖の渡り」
更に宿かす人なし:石巻市民の名誉のために注釈すれば、宿の面倒を見てくれる人が居なかったというのは事実無根。旅の悲惨さを強調するためのフィクションで、同様の記述は随所にある(新潟が好例)。曾良の『旅日記』によれば、事実はこうであった。芭蕉らは、松島を出て高城村(現仙石線高城町付近)→小野→矢本→石巻というように、現在のJR東日本仙石線に沿って石巻に入り、それはそれで予定のコースであったらしい。ただ、矢本の新田という辺りで喉が渇き民家に水を所望したが、
(都会から来た旅人に臆したのであろう)誰も水を呉れない。それを見ていた小野の根古村のコンノ源太左衛門という武士が彼の知人宅で白湯を飲ませたというのである。しかもこの武士が今夜の宿として市内の旅宿「四兵ヘ」を紹介して呉れた、という。この、水の一件が芭蕉の印象を悪くして、この記述になったのであろう。今も昔も親切は大切だということだ
。
なお、この時の渇きとコンノ氏の親切は芭蕉にとって実に強烈な印象だったと見えて、後年、曾良宛書簡でこの話を再度話題にしている。
袖のわたり・尾ぶちの牧・真のゝ萱原:石巻市北上川沿いにあった歌枕。 「袖のわたり」は住吉町一丁目、旧北上川右岸に小さな住吉公園となっている。また、「尾ぶちの牧」は旧北上川左岸の日和山と反対側の牧山、「真のゝ萱原」は稲井町真野川沿い。ただし、「袖の渡り」は その出展となっている歌枕「みちのくの袖のわたりのなみだ川心のうちに流れてぞすむ」 (『新後拾遺集』相模)は西鶴の『一目玉鉾』では阿武隈川として「白川」の項において示されている。「みちのくのをぶちの駒も野がふにはあれこそまされなつく物かは」(よみ人知らず)。「みちのくのまのの萱原遠ければおもかげにしも見ゆといふものを」
戸伊摩:<といま>と読む。戸今とも書かれる。宮城県登米市登米町 <とめしとよま>。宮城県仙北地方の田園都市。地名の読み方の実に難しい町。
くりはらのあねはのまつの人ならば都のつとにいざといはまし を
『伊勢物語』によれば、この歌は、都から来たプレイボーイが田舎女と一夜を契り、それをすてて京の都へ帰っていくときに詠った歌で「姉歯の松のように美しい女であるあなただから、都への土産に連れて行きたいのだが、あなたも姉歯の松と同じようにこの土地を離れられないでしょうから、私は一人で都へ戻ります」というのである。つまり、体よくうぶな田舎女をだましてドロンしようというのだが、こう歌を寄せられた女は、「よろこぼいひて、「おもひけらし」とぞいひけり。」(よろこんで、「あの人は私を愛していてくれたんだわ」と言った)というのである。実に、田舎者をおちょくった話なのである。
全文翻訳
五月十二日、平泉へとこころざして、「くりはらのあねはのまつの人ならば都のつとにいざといはましを」と詠まれたあねはの松、定家の歌「白玉のおだえの橋の名もつらしくだけて落る袖のなみだに」の緒だえの橋などを見ようと、人づてに聞いて旅を続けた。ところが、滅多に人の通らない道に迷い込んで、ついに道を外れて石巻の湊に出てしまった。
大友家持の歌「すべらぎの御代にさかえんとあづまなるみちのく山にこがねはなさく」と詠み奉られた金華山は海上に見え、数百の廻船が入り江に集まり、人家は軒を連ね、街は大いに栄えていた。思いがけないところに来てしまったことだと思いつつ、今宵の宿を借りようとしたが、誰も泊めてくれようとはしない。仕方なく、貧しい小さな家に泊まって、朝になったのでまた知らない道を彷徨いさまよい進んで行った。
相模の歌「みちのくの袖のわたりのなみだ川心のうちに流れてぞすむ」と詠まれた「袖のわたり」、「みちのくのをぶちの駒も野がふにはあれこそまされなつく物かは」の「尾ぶちの牧」、「陸奥のまのゝ萱はら遠ければおもかげにしも見ゆといふものを」の「まのゝの萱はら」などの歌枕を遠くに眺めながら、長い土手に沿って進んで行く。心細い長沼に沿って戸伊摩というところに一泊して、ついに平泉に到着した。この間、実に八十キロの旅程であった。