芭蕉db

奥の細道

(平泉 元禄2年5月13日)

2011年6月25日、平泉はユネスコ世界文化遺産に登録された。「普遍的意義を持つ『浄土思想』との関連があり、仏教と日本の自然崇拝が融合し、日本独自の庭園である」などが評価されたもの。


 三代の栄耀一睡の中にして*、大門*の跡は一里こなたに有。秀衡が跡*は田野に成て、金鶏山*のみ形を残す。先高館*にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川*は和泉が城*をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡*等が旧跡は、衣が関*を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり*。偖も義臣すぐ つて此城にこもり、功名一時の叢となる*。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり*」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

 

夏草や兵どもが夢の跡

(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

 

卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良*

(うのはなに かねふさみゆる しらがかな)

 

 兼て耳驚したる二堂*開帳す。経堂は三将の像*をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の*を安置す。七宝*散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを*、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌*。暫時千歳の記念とはなれり*
 

五月雨の降のこしてや光堂

(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)


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表紙 年表


 5月13日。一関を発つ。天気晴。11時ごろ平泉に到着。高館・衣川・衣の関・中尊寺・光堂・泉城・桜川・桜山・秀衡屋敷などを見る。午後4時ごろ一関の宿に帰る。夜、入浴。
 5月14日。天気晴。一関を出発して宮城県栗原市内(三迫・栗駒・一迫・金成)を経て 宮城県大崎市岩出山町へ。雷雨あり。その後晴れるが、再び曇って小雨あり。


中尊寺光堂(写真提供:牛久市森田武さん)


中尊寺経堂(写真提供:牛久市森田武さん)


つわものどもが夢の跡 無量光院跡 (写真提供:牛久市森田武さん)


毛越寺庭園 平泉文化の豪壮さを今にとどめる(写真提供:牛久市森田武さん)

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夏草や兵どもが夢の跡

 芭蕉の『奥の細道』は、芭蕉自身の気持ちとしてはここ平泉が終点だったのであろう。ここが奥州藤原三代の 栄耀栄華・北方文化の中心地であったという以上に、彼にとっては西行の愛した藤原文化とその悲劇性にこそ関心があったのであろうから 、ここを旅の終点として、ここから大垣までは、途中村上で曾良の想いを遂げさせてやるとしても、気楽な帰路ということだったであろう。 ただし、翌年書いた『幻住庵の記』初稿では、「猶、善知鳥<うとう=千鳥の一種>啼く外の濱邊より、ゑぞが千しまを見やらんまでと、しきりにおもひ立侍るを、同行曾良何某といふもの、多病心もとなしなど袖ひかゆるに心よはりて・・・・」とあるので、北海道・樺太・千島まで「細道」は続いていたと言うのだが、これは「そうも考えた」という程度のものであったのだろう。体力的にも限界だったろうが、これより北にはサポーターが不在なのだから経済的に旅の続行は不可能だった。
 


 「夏草や・・」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

五月雨の降り残してや光堂

 すでに、鞘堂ができていたのでもとより五月雨の中に輝く光堂は視界には無いから嘱目吟ではない。観想としてのこぬか雨の中に屹立する光堂が芭蕉の心の中にあったのであろう。これも最高秀句の一つ。なお、現在の鞘堂は昭和30年代末の文部省学術調査後のものである。
 なおこの句は、『奥の細道自筆本=野坡本』では、

五月雨や年々降 りて五百たび

あり、また、『曾良本おくのほそ道』では、

五月雨や年々降るも五百たび

とある。これがこの句の推敲順序である。

 なお、平泉ではこの他に、

蛍火の昼は消えつつ柱かな

なる句も詠んでい て、『自筆本』にも『曾良本』にもこの句が掲載されているが、後者では見せ消ちにしているので、最終版である『西村本』ではついに削除されている。


五月雨の降り残してや光堂」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん) 


三代の栄耀一睡の中にして:<さんだいのえいよう (えようとも)いっすいのうちにして>と読む。「邯鄲(かんたん)の枕」の「一炊」の故事から取った表現。奥州藤原三代、清衡・ 基衡・秀衡をさす。一大政治勢力を築きあげたが、泰衡の代になって源頼朝によって滅ぼされた。

大門:南大門のことだが、不祥。

秀衡が跡:秀衡の存命当時には、伽羅の御所と呼ばれていた。

金鶏山:藤原秀衡がその栄華を示そうと富士に似た小山を築造し、その山頂に金の鶏を埋めたとされる。

高館:<たかだち>と読む。義経の館の名前。

衣川:<ころもがわ>。平泉の東側から北上川に流入する川。

和泉が城:<いずみがじょう>。秀衡の三男 泉三郎忠衡<いずみのさぶろうただひら>の居城。

泰衡:<やすひら>。秀衡の次男。 父秀衡の遺言に逆らって義経主従を殺害してまで頼朝に忠誠を誓ったが、結局鎌倉軍によって滅亡させられた。

衣が関:<ころもがせき>。中尊寺表参道入り口付近。

南部口をさし 堅め、夷を防ぐと見えたり:<なんぶぐちを・・、えぞをふせぐと・・>。南部方面から平泉に侵入してくる蝦夷から防衛しているという意味。

偖も義臣すぐって 此城にこもり、功名一時の叢となる:<さてもぎしんすぐって・・、こうみょう(or こうめい)いちじのくさむらと なる>。義臣は、義経の家臣、弁慶や兼房を指す。この城に籠って泰衡らの攻撃に耐えたが、その戦いも今こうして草むらとなってしまってはかないことだ、の意。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」:杜甫の春望の詩「国破れて山河あり、城春にして草木深し、・・・・・」を引用。

卯の花に兼房みゆる白毛かな」:白い卯の花を見ていると、白髪の兼房が槍をふるって戦っている姿が脳裏に浮かんでくることだ。なお、「兼房」については義経の最後を看取った勇猛の将として『義経記』に詳しい。

二堂:経堂と光堂。

三将の像:三将は清衡・基衡・秀衡を指すのだが、経堂には彼らの像はなくて、文殊菩薩・優填王<うでんおう>・善財童子の三体が納められていた。文学的粉飾。

三尊の佛:阿弥陀三尊像のこと。

七宝: <しちほう>。七宝とは、金輪宝・白象宝・紺馬宝・神珠宝・玉女宝・居士宝・主兵宝をさす。

珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを:<たまのとぼそかぜにやぶれ、 こがねのはしらそうせつにくちて、すでにたいはいくうきょのくさむらとなるべきを>と読む。扉も柱も腐ってしまって、とっくに荒れ果ててしまうところを、の意。

四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌:<しめんあらたにかこみて、いらかをおおいてふううをしのぐ>と読む。 覆堂のことを述べている。芭蕉の理解では、金色堂を守るために最近になってさや堂を建てて風から守ったようになっているが、実はこれは金色堂建立直後に作られているものである。ただ再三にわたってさや堂は作り替えられてきたのも事実である。芭蕉が見たのは南北朝期に造営されたもの、現在のものは1960年代に更新されたものである 。

暫時千歳の記念とはなれり:<しばらくせんざいのかたみとはなれり>と読む。この鞘堂によって、まあ千年ぐらいはもつであろう、というのであってしばしば多くの解説書にあるように永久に保存されるだろうと芭蕉が安堵したのではない。芭蕉の頭の中にあるのは「不易」の価値観だったので、千年は「諸行迅速」の紛れている時間だったのである。



曾良の句「卯の花に兼房みゆる白毛かな」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)



全文翻訳

奥州藤原三代の繁栄も邯鄲の夢と同じ、一炊の間に消え去った。南大門の跡は(伽羅の御所などからは)四キロほど手前にあった。秀衡の館跡は今は田畑になって、金鶏山だけが昔の形をとどめている。

まず、義経の居館であった高館に上って、見れば北上川は南部から流れてくる大河である。衣川は和泉三郎の城を取り巻いて、高館の下で北上川と合流する。泰衡等の居城は、衣が関を楯として、南部からの侵入を防ぐ目的であったことが分かる。

弁慶や兼房など選りすぐりの義臣、この城に立てこもって戦ったものの、その功名も一時の夢と消え、すべては夏草の中に埋もれて果てた。まさに、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」。旅笠を脇に置いて、草むらに腰を下ろし、長いこと涙を落としていたことだった。 

 夏草や兵どもが夢の跡

 卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良

かねてその美しさについて聞き、驚いてもいた中尊寺の光堂と経堂を拝観することができた。経堂には清衡・基衡・秀衡の三人の像を納め、光堂にはこの三人の棺と共に阿弥陀三尊像が安置されている。金・瑠璃・珊瑚等々の七宝は消え失せ、珠玉を散りばめた扉は風に破れ、金の柱は朽ち果てて、すべてが退廃し空虚となるはずだったが、四方を新しく囲み、屋根を覆って雨風を凌いだので、これによって、ようやく千年は残る記念物とはなったのである。

 五月雨の降のこしてや光堂