(尿前の関 元禄2年5月17日)
南部道遙にみやりて*、岩手の里*に泊る。小黒崎・みづの小島*を過て、なるごの湯より尿前の関*にかゝりて、出羽の国*に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす*。大山をのぼ つて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む*。三日風雨あれて*、よしなき山中に逗留す 。
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て
、我々が先に立て行。
「蚤虱馬の尿する枕もと」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)
尿前の関の封人の家 (写真提供:牛久市森田武さん)
山刀伐り峠入り口付近 (写真提供:牛久市森田武さん)
南部道 遙にみやりて:<なんぶみちはるかにみやりて>と読む。もっと北上したいのだが諦めて、という意味をこめているが、芭蕉一行は平泉より北に向かう計画は当初から無かった。
小黒崎・みづ<美豆>の小島:二つとも鳴子町にあった歌枕。 「小ぐろ崎みづの小じまの人ならば都のつとにいざといわましを」(『古今集』)、「人ならぬ岩木もさらに悲しきはみずの小島秋のゆふ暮」(『続新古今集』)
尿前の関:宮城県 大崎市鳴子。温泉町として有名。源義経一行が都から平泉めざして落ちのびていく途中、ここで義経夫人が出産した。その子供の鳴き声が鳴子の命名とか、その子をあやすために首を廻すと音の出るこけしを作ったとか、その子が初めて小便をしたために尿前の関というとか、義経に関わるさまざまな伝承がある。
此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす:<このみちたびびとまれなるところなれば、せきもりにあやしめられて、ようようとしてせきをこす>と読む。現在では陸羽西線が通り、また東北自動車道古川インターチェンジからの自動車の往来も頻繁だが、当時は全くといっていいほど通行人は無かったのであろう。関守が怪しむのは無理もない。
封人の家を見かけて舎を求む:<ほうじんのいえをみかけてやどりをもとむ>と読む。封人は国境の番人 。ここは山形県最上郡最上町堺田。
三日風雨荒れて:芭蕉はここに3日足止めをくらったことにしているが、事実は5月15、16日の二日間だけであった。大変な思いをしたという文学的粉飾。
樫の杖を携て:<かしのつえをたずさえて>と読む。樫の杖は、歩行のための杖ではなくて、こん棒であり、山賊が現れたらこれで叩きのめそうという計画なのだから、芭蕉一行にとって は、迫真の恐怖を感じさせられたに違いない。
篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て:<しののなかふみわけふみわけ、みずをわたりいわにつまずいて>と読む。クマササの藪の中をあるき、川を渡り、岩につまずいて、の意。
此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり:<このみちかならずぶようのことあり。つつがのうおくりまいらせてしあわせしたり>と読む。この山中では必ず泥棒 や追剥等の襲撃があるのですが、今日は何も無くお送りできてとてもよかったと思います、の意。
全文翻訳
平泉から更に北へ向かいたい気持ちを抑え、南部道を後に見やりながら、左京太夫顕輔の歌に「思へども岩手の山にとしをへて朽やはてなん苔のむもれ木」と詠まれた岩出山の里に泊まる。ここから、「小ぐろの崎みづの小じまの人ならば都のつとにいざといわましを」と詠まれた小黒ヶ崎や美豆の小島を過ぎ、鳴子温泉から尿前の関を越え、出羽の国へ行こうというのである。ところが、この道は滅多に旅人の通らない道であるため、関守に怪しまれてなかなか通してくれない。ようやく通行許可が下りて、中山峠を越えたころにはもうすっかり日が暮れてしまった。国境の番人の家を見つけたのでそこに泊めてもらうことにした。ところが、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになってしまった。
蚤虱馬の尿する枕もと
この家の主の言うには、ここから出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、そのためには誰か道案内をつけなければ無理だという。そこで人を頼むことにしたところ、屈強な若者が来てくれた。見れば、反り脇差しを腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この、物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくしながらついて行く。有路家の主の言ったように、高山は深々として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。篠の藪を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。