芭蕉db

奥の細道

(尿前の関 元禄2年5月17日)


 南部道遙にみやりて*、岩手の里*に泊る。小黒崎・みづの小島*を過て、なるごの湯より尿前の関*にかゝりて、出羽の国*に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす*。大山をのぼ つて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む*。三日風雨あれて*、よしなき山中に逗留す 。

 

蚤虱馬の尿する枕もと

(のみしらみ うまのばりする まくらもと)

 

 あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者*、反脇指*をよこたえ、樫の杖を携て*、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじ の云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して*、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て*、肌につめたき汗を流して、最上の庄*に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり*」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。

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表紙 年表


5月15日。小雨。岩出山から予定のコ−スをそれて宮城県玉造郡鳴子町に入る。ここを通過して、中山を経て山形県新庄市堺田に到着した。堺田の庄屋有路家<ありじや>新右衛門兄宅に一泊。当初の予定では、加美郡 加美町から鳴瀬川から筒砂子川に沿って 母袋<もたい>街道経由で峠を越えて山形県尾花沢市、大石田へと向かうはずであったが、難所が有るとの情報で経路を変えたのである。
5月16日。大雨。堺田に足止め。有路家に泊目。
5月17日。快晴。堺田出発。笹森関所を越えて山形領最上町内へ。天下の難所山刀伐峠<なたぎりとうげ>を越えて尾花沢に出、昼過ぎ鈴木清風宅にようやく草鞋を脱ぐ。


与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て 、我々が先に立て行。

 



蚤虱馬の尿する枕もと」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

 

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蚤虱馬の尿する枕もと

 この地域では馬屋は住居の中にあった。してみれば蚊も虱も蚤も一緒に住んでいたに違いない。馬が放尿するのはいたく当然のことだから、その猛烈な音に目が覚めることも至極尤もなこと。ただし、そのことが「枕もと」で起こったように言うのは文芸的誇張に相違ない。実際は有路家は立派なつくりであったし、旅人の格によって部屋を割りふったとはいうものの江戸の大詩人を迎えてよもや馬小屋の隣に寝かしたとは思えない。リラックスした名品。


尿前の関の封人の家 (写真提供:牛久市森田武さん)


 山刀伐り峠入り口付近 (写真提供:牛久市森田武さん)


南部道 遙にみやりて:<なんぶみちはるかにみやりて>と読む。もっと北上したいのだが諦めて、という意味をこめているが、芭蕉一行は平泉より北に向かう計画は当初から無かった。

岩手の里:宮城県大崎市岩出山。「思へども岩手の山にとしをへて朽やはてなん苔のむもれ木」(左京大夫顕輔『千載集』)

小黒崎・みづ<美豆>の小島:二つとも鳴子町にあった歌枕。 「小ぐろ崎みづの小じまの人ならば都のつとにいざといわましを」(『古今集』)、「人ならぬ岩木もさらに悲しきはみずの小島秋のゆふ暮」(『続新古今集』)

尿前の関:宮城県 大崎市鳴子。温泉町として有名。源義経一行が都から平泉めざして落ちのびていく途中、ここで義経夫人が出産した。その子供の鳴き声が鳴子の命名とか、その子をあやすために首を廻すと音の出るこけしを作ったとか、その子が初めて小便をしたために尿前の関というとか、義経に関わるさまざまな伝承がある。

出羽の国:今の山形県 と秋田県にわたるが、ここは山形県。

此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす:<このみちたびびとまれなるところなれば、せきもりにあやしめられて、ようようとしてせきをこす>と読む。現在では陸羽西線が通り、また東北自動車道古川インターチェンジからの自動車の往来も頻繁だが、当時は全くといっていいほど通行人は無かったのであろう。関守が怪しむのは無理もない。

封人の家を見かけて舎を求む:<ほうじんのいえをみかけてやどりをもとむ>と読む。封人は国境の番人 。ここは山形県最上郡最上町堺田。

三日風雨荒れて:芭蕉はここに3日足止めをくらったことにしているが、事実は5月15、16日の二日間だけであった。大変な思いをしたという文学的粉飾。

究竟の若者:<くっきょうのわかもの>と読む。

反脇指:<そりわきざし>と読む。刀身に反りの入った脇差し。

樫の杖を携て:<かしのつえをたずさえて>と読む。樫の杖は、歩行のための杖ではなくて、こん棒であり、山賊が現れたらこれで叩きのめそうという計画なのだから、芭蕉一行にとって は、迫真の恐怖を感じさせられたに違いない。

雲端につちふる心地して:杜甫の詩「已入風磑霾雲端」(すでに風磴(ふうとう)に入りて雲端に(つちふ)る)とあるによる。雲の端から砂粒が落ちてくるような風の様を表現している。出典は、杜甫の7言律詩「鄭【フ】馬宅宴洞中」(【フ】=馬偏に付)。

最上の庄:<もがみのしょう>と読む。最上氏の所領一帯。ほゞ現在の山形県北村山地方一帯。

篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て:<しののなかふみわけふみわけ、みずをわたりいわにつまずいて>と読む。クマササの藪の中をあるき、川を渡り、岩につまずいて、の意。

此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり:<このみちかならずぶようのことあり。つつがのうおくりまいらせてしあわせしたり>と読む。この山中では必ず泥棒 や追剥等の襲撃があるのですが、今日は何も無くお送りできてとてもよかったと思います、の意。



全文翻訳

平泉から更に北へ向かいたい気持ちを抑え、南部道を後に見やりながら、左京太夫顕輔の歌に「思へども岩手の山にとしをへて朽やはてなん苔のむもれ木」と詠まれた岩出山の里に泊まる。ここから、「小ぐろの崎みづの小じまの人ならば都のつとにいざといわましを」と詠まれた小黒ヶ崎や美豆の小島を過ぎ、鳴子温泉から尿前の関を越え、出羽の国へ行こうというのである。ところが、この道は滅多に旅人の通らない道であるため、関守に怪しまれてなかなか通してくれない。ようやく通行許可が下りて、中山峠を越えたころにはもうすっかり日が暮れてしまった。国境の番人の家を見つけたのでそこに泊めてもらうことにした。ところが、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになってしまった。

 蚤虱馬の尿する枕もと

 この家の主の言うには、ここから出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、そのためには誰か道案内をつけなければ無理だという。そこで人を頼むことにしたところ、屈強な若者が来てくれた。見れば、反り脇差しを腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この、物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくしながらついて行く。有路家の主の言ったように、高山は深々として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。篠の藪を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。

 かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。