阿羅野脚注

  巻之四  初秋 仲秋 暮秋


曠野集 巻之四

   初秋

ちからなや麻刈あとの秋の風      越人
<ちからなや あさかるあとの あきのかぜ>。麻を刈るのは初秋のこと。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」の歌と同じ。

梧の葉やひとつかぶらん秋の風     圓解
<きりのはや ひとつかぶらん あきのかぜ>。梧の葉の「落葉のテキスト」は、少々複雑である。一葉の落ちるをもって天下の秋を知るという意味がある。すなわち権力者の零落である。すなわち、「一葉落ちて天下秋を知る」のはこの国では「あぢきなきや梧の一葉の落ちそめて人の秋こそやがて見えぬれ」となるのである。
 だがここは俳諧。そんな面倒なことはどうでもよい、落ちてきた梧の葉は、寸法も良し、帽子がわりにかぶればよいというのである。このノー天気こそ俳諧の面目躍如である。園解は美濃の人。

松島雲居の寺にて
一葉散音かしましきばかり也      仙化
<ひとはちる おとかしましき ばかりなり>。松島の雲居上人の再興したという瑞巌寺で坐禅を組んでいると、一枚の梧の葉が落ちてきた。禅寺のピンと張り詰めた静寂が破られて騒々しいばかりの大きな音に聞こえる。

かたびらのちゞむや秋の夕げしき  津島方生
<かたびらの ちじむやあきの ゆうげしき>。かたびらは帷子で、五月五日から八月の末日まで着用するしきたりであった。秋風が来て、帷子では寒さを感ずるようになって、帷子の袖や裾が短くなったように感じられるが・・・。方生<ほうせい>は尾張津島の人。

男くさき羽織を星の手向哉       杏雨
<おとこくさき はおりをほしの たむけかな>。七夕飾りには願い事をするのは今も昔も同じ。ただし、そこに女児の小袖などが吊るしてあれば女の子の裁縫の腕が上がることを願ってのことである。男児の羽織をぶら下げたのを見たが、まさか男の子の裁縫の腕前上達を願ったのじゃあるまいに。

朝貌は酒盛しらぬさかりかな      芭蕉

蕣や垣ほのまゝのじだらくさ      文鱗
<あさがおや かきほのままの じだらくさ>。朝顔は所詮そ這う垣根の形にしか伸びられない。つまり自立のできない自堕落さこそが特徴なのだ。この句は、『更科紀行』に出発の朝の留別吟四句の中の一句。

あさがほの白きは露も見えぬ也     荷兮
<あさがおのしろきはつゆも みえぬなり>。朝顔には必ず梅雨が置かれていて、それが乾く頃には花も萎んでしまう。朝顔を見る度に無常ということに感じ入ってしまうのだが、白い朝顔では露は見えない。それがよい。

子を守るものにいひし詞の句になりて
朝顔をその子にやるなくらふもの    
<あさがおを そのこにやるな くらうもの>。前詞は、子守に言って聞かせる句になっている、という意味らしい。一句は、子守よ、朝顔を赤ん坊に渡すなよ。美しいのですぐに口に持っていくであろうから。

隣なるあさがほ竹にうつしけり     鴎歩
<となりなる あさがおたけに うつしけり>。隣家の庭できれいに咲いている朝顔。竹の棒を一本差し込むことで我が家に迎え入れた。

あさがほやひくみの水に残る月     胡及
<あさがおや ひくみのみずに のこるつき>。夏の残月のある早朝。それが朝顔の垣根の足元に溜まった水溜りに映っている。

葉より葉にものいふやうや露の音    鼠彈
<はよりはに ものいうようや つゆのおと>。葉っぱの上の露がそれより下の葉に順次落ちていく様は、さしずめ伝言をしているようで、耳には聞こえないがそう思えば露の音がするような気さえしてくる。

秋風やしらきの弓に弦はらん      去来
<あきかぜや しらきのゆみに つるはらん>。弓は、幾層にも素材を重ねて、その層間は漆で接着する。この漆を使っていない弓のことをここでは白木の弓と呼んだ。秋風の色彩は白ゆえにそれに合せたのである。雰囲気を味わう句であって特に意味はない。

涼しさは座敷より釣鱸かな       昌長
<すずしさは ざしきよりつる すずきかな>。秋のさわやかさは、こうして障子を一杯に開けて座敷から川に糸を垂れてスズキを釣ると一入のものとなる。作者昌長<しょうちょう>については不明。

畦道に乗物すゆるいなばかな      鷺汀
<あぜみちに のりものすゆる いなばかな>。「いなば」は稲場で田んぼを意味する。高貴な都の有閑人が駕篭で田んぼに乗りつけて飽きずに稲刈りなどを見ている。「すゆる」は「すうる」で据えること。

まつむしは通る跡より鳴にけり     一髪
<まつむしは とおるあとより なきにけり>。マツムシが鳴いている。近づくと鳴き止むが、通り過ぎるとすぐに鳴き始める。

きりぎりす燈臺消て鳴にけり      素秋
<きりぎりす とうだいきえて なきにけり>。こおろぎは灯りを消したとみるや直ぐに鳴き始めた。「キリギリス」は「コオロギ」のこと。燈臺は海の灯台などではなく、部屋の照明用の灯り。

あの雲は稲妻を待たより哉       芭蕉

いなずまやきのふは東けふは西     其角
<いなづまや きのうはひがし きょうはにし>。稲妻が、昨日はひがしに鳴っていた。そして今日は西の空で鳴っている。稲妻が、通ってくる男を意味するのであれば、一句は、今日もまた自分のところへ来てくれない恨めしい男をも意味する。

ふまれてもなをうつくしや萩の花    舟泉
<ふまれても なおうつくしや はぎのはな>。山道に咲く萩の花。旅人に踏みつけられてもなお美しい花をつけている。

ひょろひょろと猶露けしや女郎花    芭蕉

棚作ルはじめさびしき蒲萄哉      作者不知
<たなつくる はじめさびしき ぶどうかな>。葡萄に限らないが蔓ものに棚や手をくれるときには貧相なものなのである。一句は、この時代のなぞなぞに「店<たな=棚>を開いてはじめ繁盛しないものなあに? 答え=ぶどう棚、というのがあったによったもの。

草ぼうぼうからぬも荷ふ花野哉   伏見任口
<くさぼうぼう からぬもになう はなのかな>。背丈を超える草の生えている野原。その中を荷物を背負った農夫が行く。かれは草刈をしているのではないが、いかにも草を刈っていくようになぎ倒していく。

もえきれて帋燭をなぐる薄哉      荷兮
<もえきれて しそくをなぐる すすきかな>。紙燭とは、紙をよってそれに油を染み込ませて灯明の代用品。その紙燭が燃え尽きて指を焦がすほどになったので、あわてて手ばなした。そのとき明りの中にススキが映ったのか?

行人や堀にはまらんむら薄       胡及
<ゆくひとや ほりにはまらん むらすすき>。ぼうぼうとススキが生えていて地面は見えない。このあたり堀が無数にあって、それをススキが隠しているので、土地勘のない旅人は堀にはまってしまうのではないか。

宗祇法師のこと葉によりて
名もしらぬ小草花咲野菊哉       素堂
<なもしらぬ おぐさはなさく のぎくかな>。大輪の菊は、品種改良によって作出され、これらにはいかにもというように仰々しい名前がついている。しかるに野菊は、黄菊か白菊かぐらいの普通名前しかない。だから、野菊を見ても名前など分からない。しかし、宗祇の言うようにこれがよいのだ。
 ところで宗祇は、「吾妻問答」で野菊を愛でている。

としどしのふる根に高き薄哉      俊似
<としどしの ふるねにたかき すすきかな>。ススキで覆われた野道。年年歳歳ススキの根方が大きく高くなって、道の方が沈んでいくように見える。


   仲秋

かれ朶に烏のとまりけり秋の暮     芭蕉

つくづくと繪を見る秋の扇哉     加賀小春
<つくづくと えをみるあきの おおぎかな>。夏には扇は冷房用の実用道具であったのだが、秋になってその役割が求められなくなると、はじめてそこに描かれている絵を見る気になるものである。

谷川や茶袋そゝぐ秋のくれ     津島
<たにがわや ちゃぶくろそそぐ あきのくれ>。「茶袋」は、葉茶を茶釜に入れて煎じるための布製の袋。「そそぐ」は、「濯ぐ」で洗うこと。隠者であろう、谷川で茶袋洗っている。谷川の音に混じってそのかすかな音が聞こえる秋の夕暮れの寂寥の景色。益音<えきおん>については不明。

石切の音も聞けり秋の暮        傘下
<いしきりの おともききけり あきのくれ>。山中に秋の風の音をたずねて来てみたら、風だけではなく石切の音も聞いてしまった。

斧のねや蝙蝠出るあきのくれ      卜枝
<おののねや こうもりいずる あきのくれ>。杜甫の誌に「伐木丁々として山更に幽なり」がある。これを俳諧化した。木を伐る斧の音がしたら、なんとコウモリが穴倉から出てきた。

鹿の音に人の貌みる夕了哉       一髪
<しかのねに ひとのかおみる ゆうべかな>。秋の夕暮れと鹿の声は、古来詩の世界のものだった。ある秋の夕暮れ本当に鹿の声を聞いたが、そのとき隣に居た人の顔を見たらその人もこちらを見ていた。

と畑を獨りにたのむ案山子哉   伊予一泉
<たとはたを ひとりにたのむ かがしかな>。田んぼと畑の境に案山子が立っている。さては、田と畑をかけもちで見張れというのであろう。案山子も楽じゃないな。

山賎が鹿驚作りて笑けり        重五
<やまがつが かがしつくりて わらいけり>。山家の百姓が案山子を作った。よい出来栄えに案山子に向かって笑ってしまった。作者が笑ったという解釈もありうるが。

紅葉にはたがおしへける酒の間     其角
<もみじには たがおしえける さけのかん>。白居易の詩に「林間に酒をあたためて紅葉を焼く」がある。つまり紅葉を焼いて酒に燗をつけるのだが、そのことを誰が紅葉に教えたというのであろう。

しらぬ人と物いひて見る紅葉哉     東順
<しらぬひと ものいいてみる もみじかな>。紅葉狩り行って、何処の誰かも知らない人と紅葉の美しさについて話し込んだ。

藪の中に紅葉みじかき立枝哉      林斧
<やぶのなかに もみじみじかき たちえかな>。高く生い茂った薮の中に立枝の紅葉が色づいているが、薮の背丈が高いために紅葉が短くしか見えない。「立枝」は木の徒長枝のこと。

どことなく地にはふ蔦の哀也      越水
<どことなく ちにはうつたの あわれなり>。蔦の紅葉は美しい。その蔦が伝う相手が無くて地を這っているのは、何だかみじめに思われる。越水<えつすい>については不明。

わが宿はどこやら秋の草葉哉     宗和
<わがやどは どこやらあきの くさばかな>。我が家の庭にはこれといった銘木も無いのだが、それでも秋ともなればなんとなく秋の風情がただようからうれしくなる。宗和<そうわ>は江戸の人という以外詳細不明。

わが草庵にたづねられし比
恥もせず我なり秋とおごりけり    
加賀北枝
<はじもせず わがなりあきと おごりけり>。「なり秋」で一語。この「なり」は「私なり」などというときの「なり」。皆さんが、私の草庵にお出でくださるときが秋だとして、秋といえばさまざまな秋があるのでしょうが、私の庵の秋もこれはこれでそれなりの秋ですと、恥とも思わず私は思っているのですが。。。。

素堂へまかりて
はすの實のぬけつくしたる蓮のみか   越人
<はすのみの ぬけつくしたる はすのみか>。素堂はハスの愛好家で蓮池翁とまで言われた人だから、ハスが屋敷に沢山ある。そのハスの実も秋ともなると皆落ちて、いまやハスだけになってしまっている。

一本の葦の穂痩しゐせき哉       防川
<ひともとの あしのほやせし いせきかな>。「ゐせき」は「井堰」のことで、川端で水を汲んだり、米をといだりするために川を堰き止めた堰のこと。堰の近くに生えた芦に穂がでたがやせ細った貧弱な穂で、それも秋になって枯れてしまった。秋風ショウショウとして易水寒しというところ。

松の木に吹あてられな秋の蝶      舟泉
<まつのきに ふきあてられな あきのちょう>。秋風に吹き流されていく秋の蝶。元気なく今にも落ちそうだ。その先に松の木がある。それにぶっつからないようにしなさいよ。

ばつとして寝られぬ蚊屋のわかれ哉   胡及
<ばっとして ねられぬかやの わかれかな>。秋になって蚊帳をつらずに寝られるようになった。しかし、何だか明るすぎてかえって興奮して眠れないからおかしなものだ。「ばつとして」は、広く大きく明るくなった様。

心にもかゝらぬ市のきぬたかな     暁鼯
<ここにも かからぬいちの きぬたかな>。砧の音が詩情を催すのはひなびた山家の家から聞こえてくる場合だ。こんな街中のしかも市のたったにぎやかな場所で砧の音を聞いたってなんとも思いはしない。

関の素牛にあひて
さぞ砧孫六やしき志津屋敷      其角
<さぞきぬた まごろくやしき しづやしき>。美濃の国関には刀鍛治の名工が何人も出た。そのうちの二人、関孫六<せきのまごろく>と志津三郎兼氏<しづのさぶろうかねうじ>を詠み込んだ句。砧の音を聞くにつけ、素牛(維然)の住む美濃の関では名工二人の刀を打つ音もよみがえって、昔を偲ぶことができるのではないか。

よしのにて
きぬたうちて我にきかせよ坊がつま   芭蕉

いそがしや野分の空の夜這星    加賀一笑
<いそがしや のわきのそらの よばいぼし>。「夜這星」は流星のこと。台風接近で激しい雲の動きの合間に流星を見たのであろう。時に嵐が来ているので天の川でも氾濫するかと星たちは右往左往し始めたようだ。


   暮秋

なにとなく植しが菊の白き哉      巴丈
<なにとなく うえしがきくの しろきかな>。春には気にもとめずに例年やっている作業として菊の苗を植えた。それが今、秋になって花開いてみると清楚な白い菊になっている。なんと美しい白さだろう。

しら菊のちらぬぞ少口おしき      昌碧
<しらぎくの ちらぬぞすこし くちおしき>。白菊にかぎらず菊の花は桜のように散ることが無く、枯死する。白菊の白さはなんとも言えず美しいが、散らずに茎の先で色あせて枯れるのが強いて言えば不満だ。

山路のきく野菊とも又ちがひけり    越人
<やまじのきく のぎくともまた ちがいけり>。野菊もいいが、同じ自然の菊でありながら山路の菊はまた趣が異なる。凛として世俗から超越した雰囲気がよい。

一色や作らぬ菊のはなざかり      
<ひといろや つくらぬきくの はなざかり>。路傍に咲いた野菊の群生。それが一斉に花開いた。一輪一輪は荒々しいが、見事に一斉に開花した群れの美しさは人工の庭の菊の比ではない。

荷兮が室に旅ねする夜、草臥なをせとて、
箔つけたる土器出されければ
かはらけの手ぎは見せばや菊の花    其角
「かはらけ」は「土器」だがここでは陶器。菊の花またはそれに似た文様が描かれていたのであろう。ところで、其角は貞亨5年上方へ旅をしている。その旅の途次、9月17日名古屋の荷兮邸に宿泊している。前詞はそのことを述べた部分である。出された陶器に旅の疲れを取れとばかりになみなみと酒をついでくれたが、土器に描かれた菊の絵が酒のためによく見えないので、それを見たいからぐっと飲み干して菊の花を早く見たいものだ、と菊にかこつけて酒をほめた句。

菊のつゆ凋る人や鬢帽子        
<きくのつゆ しおるるひとや びんぼうし>。「鬢帽子」は鉢巻の端が鬢にかかるようなかっこうでをいう。菊に露のかかってかつりんとしている姿は少々尾羽打ち腫らしながらも、昔のよき時代の矜持を守っているような古風な人に似ている。

けふになりて菊作ふとおもひけり    二水
<きょうになりて きくつくろうと おもいけり>。いま、周囲は菊の満開の時期。その美しさにほだされて、今頃になって私も菊を作りたくなってしまった。

かなぐりて蔦さへ霜の塩木哉    伊豫千閣
<かなぐりて つたさえしもの しおきかな>。「塩木」は塩を精選するための塩釜に使う燃料の木のこと。こけはよく枯れた蔦の蔓を点け木にでもしようというのであろうか、引っ張って引きずりおろそうとしたらこれも寒さで凍っていて霜がしっかり付いていた。

淋しさは橿の實落るね覺哉     濃州
<さみしさは かしのみおつる ねざめかな>。樫の実は晩秋に木の上で熟れて落ちる。作者は夜明け、その実の落ちる音に目を覚ます。老境の寂しさが布団の中まで忍び寄ってくる。蘆夕<ろせき>は美濃の人という以外に不明。

残る葉ものこらずちれや梅もどき    加生
<のこるはも のこらずちれや うめもどき>。ウメモドキは、梅によく似た葉っぱをつける落葉の矮性樹木。秋になって小さな赤い実をつける。紅葉が美しい。そのウメモドキに未練がましく葉っぱが付いている。どうせ落ちるのだから、いっそのことみんな落ちてくれれば、秋への思いを断ち切れるのに。

芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ   路通
<あしのほや まねくあわれより ちるあわれ>。芦の穂が風になびいていると、その姿は寂しさに堪えかねて芦が人を手招きしているように見える。そのあわれさもさりながら、芦の穂が風に散っていくさまはなお一層あわれを感ずる。


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