芭蕉db

奥の細道

敦賀市  元禄2年8月14・15日)


 漸白根が嶽*かくれて、比那が嵩*あらはる。あさむづの橋*をわたりて、玉江の蘆*は穂に出にけり。鶯の関*を過て、湯尾峠*を越れば、燧が城*。か へるやま*に初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
 その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」*と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神*に夜参す。仲哀天皇の御 廟也* 。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人*、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて*、参詣往来の煩なし。古例今にた えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持*と申侍る」と、亭主のかたりける。
 

月清し遊行のもてる砂の上

(つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)

 

十五日*、亭主の詞にたがはず雨降 。
 

名月や北国日和定なき

(めいげつや ほっこびより さだめなき)


前へ 次へ

表紙 年表


芭蕉は等哉を同道して、8月14日木の芽峠から敦賀に入り出雲屋という旅宿に泊まった 。

 

Wb01184_.gif (1268 バイト)

 

月清し遊行の持てる砂の上

 文中に十分解説されている。
 なお、『猿蓑』では、「
元禄二年つるがの湊に月を見て、気比の明神に詣で、遊行上人の古例をきく」と詞書きして、この句が出てくる。
 また、『其袋』では、
   気比の宮へは遊行上人の白砂
   を敷ける古例ありて、この頃
   もさる事ありしといへば

月清し遊行の持てる砂の露

とある。さらに、『真蹟懐紙』では、

   気比の宮

涙しくや遊行の持てる砂の露

とある。これが初案であろう。


敦賀市曙町の気比神宮境内にある「月清し・・・」の句碑と銅像


涙しくや遊行の持てる砂の露の句碑

 


気比神宮

 私は、敦賀には一入思い入れが有ります。私の妻の縁者に水戸烈士が居りまして、幕末に日本の夜明けを見ずに、勤皇譲位の志を訴えようと敦賀まで行ったところで大雪に阻まれ、遂に幕府の軍門にくだり、気比の松原近くで斬首されました。その数武田耕雲斎以下411名の烈士の墓が有り、その中に眠っています 。(文と写真:牛久市森田武さん)

名月や北国日和定めなき

そもそも、福井県など北陸三県はわが国有数の降雨地帯。中でも福井は年間降雨量が2,700ミリ以上という多雨地域(ちなみに少雨地域の兵庫県は年間降雨量700ミリ以下)である。加えて、仲秋の名月 の頃といえば、秋雨前線の発達する時期。この頃ともなると北陸越前では主人に聞かずとも、いたって変わり易い天候になるのだ。

芭蕉翁月一夜十五句

 この元禄2年8月14日の夜の一夜に芭蕉は15句詠んだと伝えられている。その14句を集めたのが「芭蕉翁月一夜十五句」である。大垣門人宮崎荊口の『荊口句帳』を介して伝えられたが、15句ではなく14句しか掲載されていない。

名月の見所問はん旅寝せん

あさむつを月見の旅の明け離れ

月見せよ玉江の芦を刈らぬ先

明日の月雨占なはん比那が嶽

月に名を包みかねてや痘瘡の神

義仲の寝覚めの山か月悲し

中山や越路も月はまた命

国々の八景さらに気比の月

月清し遊行の持てる砂の上

名月や北国日和定めなき

月いづく鐘は沈める海の底

月のみか雨に相撲もなかりけり

古き名の角鹿や恋し秋の月

衣着て小貝拾はん種の月


(気比神社境内の名月句碑 写真提供:牛久市森田武さん)