芭蕉db

奥の細道

(遊行柳 元禄2年4月20日)


 又、清水ながるゝの柳*は、蘆野の里*にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某*の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを*、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。

 

田一枚植て立去る柳かな

(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)


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表紙 年表


4月廿日。朝のうち霧が発生。午前10時近く那須湯元を出発。栃木県那須町で、遊行柳を見物し、その後福島県白河市内へ。奈良時代の白河の古関を見物して、白河に一泊。夕方から小雨。
 

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田一枚植て立去る柳かな

(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)

 西行の、「しばしこそとてたちどまりつれ」 に誘われて、 芭蕉もここに立ち止まったのである。その瞬間から芭蕉は西行の時間の中に居る。その夢想の時間の間に早乙女たちは一枚の田んぼを植え終えた。田を立ち去る乙女たちに同期して芭蕉一行もこの場を立ち去ったのである。当時の田んぼの一枚がどのくらいの面積か想像できないが、田植時間もそう短いものではないだろうから、早乙女達の手際のよい作業に見とれるように芭蕉一行は夢幻の時間を過ごしたのである。それは又謡曲「西行」の幽玄な時間でもあったのだろう。
 この句には古来様々な解釈が施されてきた。@早乙女たちは田を一枚植えて、その場から立ち去った、という「ああ、そうですか」解釈。A早乙女たちが田を一枚植え終えたので、芭蕉らはその場から立ち去った、という「暇つぶし」の解釈。B早乙女たちが植えている田植に芭蕉たちも手伝って、一枚植え終えたので立ち去った、という「ボランティア精神」、などである。
共通して言えることはこれらは全て「柳」の存在が消えてしまった解釈であるということ。


代は替わっているが蘆野の遊行柳の周りは今でも一面の田圃


田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑(蘆野にて) 写真提供:牛久市森田武さん


道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」の歌碑(蘆野にて)




全文翻訳

また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸守某が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。 

田一枚植て立去る柳かな