(永平寺・福井 元禄2年8月12?~14日)
雪の永平寺山門(写真提供:牛久市森田武さん)
五十丁山に入て:<50ちょうやまにいりて>と読む。1丁または1町は、109.1メートルだから50丁は5.5km。これは山門を入ってから本堂までの距離を言っている。永平寺がいかに大きいかを表現したもの。
道元禅師:<どうげんぜんじ>と読む。道元(1200-1253)。 鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希玄(きげん)。諡号(しごう)承陽大師。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。1244年越前に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐(しかんたざ)の純一の禅風で知られる。著「正法眼蔵」「永平清規」など。(『大字林』)
等栽:<とうさい>と読む。洞哉が正しい。Who'sWho参照 。
鶏頭・はゝきぎに戸ぼそをかくす:<けいとう・ははきぎにとぼそをかくす>と読む。 ケイトウは、鶏冠状の赤や黄色の花穂をつけるヒユ科の植物。ハハキギは帚木と書き、ホウキ草の文学的別名。伸び放題のケイトウやホウキ草が門扉を隠していること。
路の枝折とうかれ立:<みちのしおり・・>と読む。「枝折」は、後から来る人に道を間違えないように枝を折って道標とした。北枝が道標となって案内する、というのである。
全文翻訳
寺領の入り口から五キロ半もある山内を通って、永平寺を拝観した。ここは道元禅師開基の寺。俗塵にまみえ(れ)ることをさけて、禅師はこのような山陰に道場を遺したのだが、貴い理由が有ってのことだったという。
福井の町はここから十二キロばかりなので、夕食をとってから出かけたのだが、黄昏時のこととて道がよく分からない。
この町に等栽という古い隠者がいるはずだ。いつだったか、彼は江戸に来て私を訪ねたことがあった。もう十年も前のことだ。さぞや老いさらばえていることであろう。はたまた死んでいるかもしれない、などと思いながら、人に尋ねると、今も存命で、何処其処に住んでいると教えてくれた。市中に、ひっそりと隠れ忍んだように、夕顔・へちまが生い繁り、鶏頭・箒木が入り口を隠したみすぼらしい小家があった。さては、ここが等栽の家に違いないと門をたたくと、わびし気な女が出てきて、「何処から来た仏道修行のお坊さまやら。家人はどこそこの何某さまの処に行っていて今は留守じゃ。もし用あらばそちらへ行きなされ」とそっけない。昔の何かの物語にもこんな情景があったなどと思いながら、やがて彼を尋ね当てる。
等栽の家に二日泊まって、名月は敦賀の港で見ようと、旅立った。等栽も街道の枝折をつとめようと、着物の裾をひょうきんにからげて、浮かれながら旅立った。