芭蕉db

奥の細道

(小松 元禄2年7月24日〜26日)


小松市建聖寺の芭蕉像(森田武さん提供)


小松と云所にて*

 

しほらしき名や小松吹萩すゝき

(しおらしきなや こまつふく はぎすすき)

 

 此所、太田の神社*に詣。実盛*が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給*とかや。げにも平士*のものにあらず。目庇*より吹返し*まで、菊から草*のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり*。真盛*討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共*、まのあたり縁起にみえたり*
 

むざんやな甲の下のきりぎりす

(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)


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表紙 年表 俳諧書留


 7月24日。この日、日中は快晴、夜降雨。朝、金沢を出発。小春牧童乙州(彼はたまたま商用で金沢に来ていた)らは、街はずれまで、雲口・一泉・徳子らは野々市町まで、北枝や竹意は小松まで随行した。午後4時過ぎに小松に到着。近江屋に投宿。
 翌7月25日、小松を出発しようとしたところ、多くの人たちに引き止められて、予定変更。多田八幡を訪ねたのは本文記述のとおりである。この後、山王神社神主藤井伊豆の宅に行き、ここで句会開催。この夜は藤井宅に泊る。午後4時ごろから雨、夜になって降ったり止んだり。
 7月26日。雨。特に午前10時ごろから風雨激しくなる。夕方になって止む。夜、越前寺宗右衛門宅に招かれて句会
 

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しほらしき名や小松吹萩すすき

 小松市にて、この句を発句として句会を興行している。かわいい名前だ、小松とは。その浜辺の小松にいまは秋の風が吹いて萩やススキの穂波をなびかせていることだ。土地への挨拶吟。


小松市建聖寺境内の「しほらしき名や・・」の句碑(牛久市森田武さん提供)

むざんやな甲の下のきりぎりす

 芭蕉秀句中の一句。斎藤別当実盛の遺品の兜、いま秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。
 なお、この句も言わば決定稿で、これよりさき初案は次のようであった;
   おなじところ、多田の神社に実
   盛の甲がありけるを

あなむざんや甲の下のきりぎりす

(真蹟懐紙)

 なお、『猿蓑巻の三』では、前詞は、「加賀の小松と云處、多田の神社の宝物として、実盛が菊から草のかぶと、同じく錦のきれ有。遠き事ながらまのあたり憐におぼえて」となっている。

 下の写真撮影の時は、本文にある「むざんやな・・・」の句碑を撮影して来ましたが、由緒ある神社の句碑にしては、最近の作りで、何となく違和感を感じておりましたので、このたび再度「あなむざんや・・」の句碑も撮影に行きました。多太神社の宮司さんは、大阪大学を卒業した方で、引き止められ、神社の由来や甲に纏わるいろいろなご説明をしていただきました。最近の学生さんは歴史や文学に興味がないのか、芭蕉の句などもさっばり理解していないと少々ご不満のようでした。そういう私も、今回始めて「さた神社」と発音するのを知りました。(文と写真提供:牛久市森田武さん)


太田神社の参道にある「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん)


太田神社

 太田神社へ到着したのは、早朝だったので、神社の人も誰も居なかった。近所の若妻と子供が散歩していたので、「この神社の甲を見ることが出来ますか」と尋ねたら、「すぐそこに有ります」と応えたので、その場所へいって見たら、「甲の石碑」でした。(文と写真:牛久市森田武さん)


三吟歌仙

あなむざんやな甲の下のきりぎりす  翁

ちからも枯れし霜の秋草      亨子

渡し守綱よる丘の月かげに       鼓蟾

しばし住べき屋しき見立てる   翁

酒肴片手に雪の傘さして        子

ひそかにひらく大年の梅     蟾



全文翻訳

小松というところで、

しほらしき名や小松吹萩すゝき

当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。

 むざんやな甲の下のきりぎりす