(きくにいでて ならとなにわは よいづきよ)
また、酒堂が予が枕もとにていびきをかき候を
(とこにきて いびきにいるや きりぎりす)
(ますこうて ふんべつがおなる つきみかな)
本状は、宛名を欠くが膳所の門人水田正秀に宛てた書簡である。この時期、之道と膳所出身の洒堂(浜田珍碩)との間で大坂蕉門は派閥争いをしていた。芭蕉の大坂下向には、この仲介もあった。それだけにさっさと大坂を出て伊勢に行きたい気持ちがあったのであろう。文中では、その両者の門人達が芭蕉臨席の下に合同の句会を開いたことが書いてあるところから、確執はいったん納まったようである。そのことは芭蕉の一安心でもあった。
なお、同日付けで「菅沼曲翠(曲水)宛真蹟書簡」が残る。