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芭蕉db
菅沼曲翠宛書簡
(元禄7年9月25日)
書簡集/年表/Who'sWho/basho
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遊刀貴墨*、辱拝見仕、伊州へも素牛便に御細翰*、文章・玉句感心、且は過ぎつるむかしもおもひ被レ出候。此度又御句あまた、感心仕候。御秀作も少々相見え候。是非存知より可二申上一候へ共、何角心いとま無二御座一取重候間、暫時閑暇を得候時分、委細貴報可二申上一候*。さて洒堂一家衆、其元御衆、達而御すゝめ候に付、わりなく杖を曳候*。おもしろからぬ旅寝の躰、無益之歩行、悔申計に御座候*。先伊州にて山気にあたり、当(到)着の明る日よりさむき熱晩々におそひ、漸頃日常の持病計に罷成候。爰元追付發足可レ仕候。若は貴境へめぐり可レ申哉と、支考などもすゝめ候へ共、先大寒不レ至内に伊勢迄参候而、其後之勝手に可レ仕候*。伊賀より大坂まで十七八里、所々あゆみ候而、貴様行脚の心だめし*にと奉レ存候へ共、中々二里とはつゞきかね、あはれ成物にくづを(ほ)れ候間、御同心必御無用に可二思召一候*。随分おもしろからぬ事と御合点可レ被レ成候。達者成若法師めしつれられ候半こそ、可レ為二珍重一候半*。爰元愚句、珍しき事も得不レ仕候。少々ある中に、
(あきのよを うちくずしたる はなしかな)
(このみちを ゆくひとなしに あきのくれ)
人聲や此道かへると共、句作申候。京・江戸之状したゝめ候折ふしに御座候而、早々何事をもわきまへ不レ申候。 以上
ばせを (書判)
九月廿五日
曲翠様
貴報
尚々子供達御無事由、目出度奉レ存候。
書簡集/年表/Who'sWho/basho
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元禄7年9月25日、大坂から膳所の門人曲水宛に出した書簡。伊賀から大坂に行ったのは、膳所出身の酒堂の(之道との対立)問題で、その解決を曲水や水田正秀らがさかんに伊賀にいる芭蕉に頼んだことがあずかって大きかったようである。一応の解決があったことは同日「正秀宛真蹟書簡」に見るとおりだが、芭蕉としてはこのために随分体力を消耗したようである。
本書簡によれば、芭蕉は曲水の所望するままに大旅行を一緒にやることを計画していたようであったが、伊賀から大坂までの旅で体力の衰えを痛感し、もはや不可能であることをこの書簡で曲水に言いわたしている。これから2週間後に芭蕉は不帰の大旅行に発つのだから、無理からぬ断りであったのである。
遊刀貴墨:「遊刀」は膳所の人。近江蕉門の一人。大坂へやってきた遊刀に託した曲水の手紙のこと。
伊州へも素牛便に御細翰:<いしゅうへもそぎゅうたよりにございかん>と読む。素牛(維然)がこの夏伊賀へやってきたときに曲水が託した手紙のこと。
是非存知より可二申上一候へ共、何角心いとま無二御座一取重候間、暫時閑暇を得候時分、委細貴報可二申上一候:<ぜひぞんじよりもうしあぐべくそうらえども、なにかとこころいとまござなくとりかさなりそうろうあいだ、ざんじかんかをえそうろうじぶん、いさいきほうもうしあぐべくそうろう>と読む。私の感想を是非申し上げたいのだが、暇になったら書くことにして今は心に暇が無いので書かない、というのだが、本当はあまりよい作品が無かったか、または気力が無かったかしたのであろう。
さて洒堂一家衆、其元御衆、達而御すゝめ候に付、わりなく杖を曳候:<さてしゃどういっかしゅう、そこもとおじゅう、たっておすすめそうろうにつき、わりなくつえをひきそうろう>と読む。洒堂の門人等や膳所の皆さんが、ぜひ大坂へ行くようにと勧めるので、仕方なく来ました。
おもしろからぬ旅寝の躰、無益之歩行、悔申計に御座候:<・・たびねのてい、むえきのほこう、くやみもうすばかりにござそうろう>と読む。大変な思いの旅行となって、今となっては後悔している、というのである。
先大寒不レ至内に伊勢迄参候而、其後之勝手に可レ仕候:<まずだいかんにいたらざるうちにいせまでまいりそうろうて、そのごのかってにつかまつるべくそうろう>と読む。代案になる前には伊勢に行き、その後のことは、またその後に考えることと致しましょう、と言うのだが、芭蕉は終に大坂で死を迎えた。
貴様行脚の心だめし:芭蕉は、曲水と大規模な旅(大和路の旅)を計画していた。だから、その予行演習として歩いてみた、というのである。しかし、伊賀から大坂への(たった)17、8里の旅程でもままならず、とても約束を守ることは不可能だと、続く文でこの計画を反故にすることを求めている。
御同心必御無用に可二思召一候。:<ごどうしんかならずごむようにおぼしめさるべくそうろう>と読む。上掲。
達者成若法師めしつれられ候半こそ、可レ為二珍重一候半:<たっしゃなるわかほうしめしつれられそうらわんこそ、ちんちょうたるべくそうらわん>と読む。元気のいい若者を連れて旅に出ることこそ涵養ですの意。この伊賀から大坂への旅には素牛(維然)と支考が随伴したのでそのことを指していっているのであろう。