元禄7年9月23日、郷里の意専・土芳に宛て京屋の飛脚に持たせて送った書簡。大坂に来てからの病気の様子、それがどうやら回復したと思っていること、そこを発って伊勢参宮をする予定であることなどとともに、意専らの句にも「軽み」が表出されていることを喜んでいる様子が書かれている。しかし、文中に「この道を行く人なしに秋の暮」と詠むなど、孤独もまた翁の周辺を覆っている。
なお、同日付けで「松尾半左衛門宛書簡」がある。
(きくにでて ならとなにわは よいづきよ)
芭蕉が奈良を出発したのは重陽の節句に菊薫る9月9日。そしてその夜は大坂 に着いて之道宅へ草鞋を脱いだ。重陽の節句のこととて奈良も大坂難波の街も菊の香が辺り一面香っている。そして二つの街とも菊の花の上に夕月が美しい。
(あきのよをうちくずしたるはなしかな)
(このみちを いくひとなしに あきのくれ)
この道や行く人なしに秋の暮
人声やこの道帰る秋の暮
大阪市天王寺区伶人町1、大阪星光学院浮瀬亭俳跡にある句碑。牛久市森田武さん提供
そこもと生壁さし出で候:「生壁<なまかべ>」は吹き出物のこと。この夏から秋にかけて伊賀に居たときに芭蕉の顔に吹き出物が出たのである。
早々看板破り申すべく候:看板を破るとは、店じまいすること、よってここ大坂を出発することを指す。実際には出発できず、終の棲家となった。大勢の人にかこまれて静かな生活ができない不満を述べている。