芭蕉DB
(元禄7年10月10日)
一、三日月の記* 伊賀に有
一、發句の書付 同斷
一、百人一首・古今序註 抜書、是は支考へ可レ被レ遣候。
江戸
一、杉風方に、前々よりの發句・文章の覺書可レ有レ之候。支考校レ之、文章可レ被二引直一候。何も草稿にて御座候。
一、羽州岸本八郎右衛門(兵衛)*発句二句、炭俵に拙者句になり、公羽と翁との紛れにて可レ有レ之*、杉風より急度御斷可レ給候*。
一、猪兵衛*に申候。当年は寿貞*事に付色々御骨折、面談に御礼と存候所、無二是否一事に候。残り候二人之者共*、十(途)方を失ひうろたへ可レ申候。好斎老*など御相談被レ成、可レ然料簡可レ有候*。
一、好斎老よろづ御懇切、生前死後難レ忘候。
一、栄順尼・禅可坊*、情ぶかき御人々、面上に御礼不レ申、残念之事に存候。
一、貴様病起*、御養生随分御勉可レ有候。
元禄七年十月
支考此度前後働驚、深切實を被レ盡候。此段頼存候。庵の佛は則出家之事に候へば*遣し候。
ばせお 朱印
一、杉風*へ申候。久々厚志、死後迄難レ忘存候*。不慮なる所に而相果、御暇乞不レ致段、互に存念無二是非一事に存候。弥俳諧御勉候而、老後の御楽に可レ被レ成候。
一、甚五郎殿*へ申候。永々御厚情にあづかり、死後迄も難レ忘存候。不慮なる所に而相果、御暇乞も不レ致、互に残念是非なき事に存候。弥俳諧御勉候而、老後はやく御楽可レ被レ成候。御内室様之不二相替一御懇情、最後迄も悦申候。
元禄七年十月
ばせを 朱印
大坂久太郎町御堂ノ前花屋仁右衛門貸座敷に臥す芭蕉と看病の門人たち
「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)
元禄7年10月10日夜、『松尾半左衛門宛遺書』を書き上げた後、芭蕉は門人支考に代筆させて、上記三つの遺書を書いた。「その一」は、遺品等の所在について書かれ、「その二」は、深川芭蕉庵に残る人々に宛てた遺書となっている。また、「その三」は、杉風や濁子など江戸の門人達へ宛てた遺書の内容となっている。
ここで特筆すべきは、「その二」では、日付を入れて一旦文章を閉じた後に追記の形で支考へ宛てた謝辞が書かれている。一説には、この部分は支考が代筆せず芭蕉自ら筆を持って書いたという。
なお、この遺書は10月26日、二郎兵衛に持たせて江戸に送ったという。
新式 是は杉風へ可レ被レ遣候:<しんしき これはさんぷうへつかわさるべくそうろう>と読む。『新式』は『連歌新式』のこと。これを杉風に形見分けするというのである。
落字有レ之候間、本冩を改可レ被レ校候:<らくじこれありそうろうあいだ、ほんうつしをあらためこうせらるべくそうろう>と読む。落字があるので、これについては原本に当たって校正してほしい、の意。
『埋木』:芭蕉は延宝2年3月17日、北村季吟よりこれを受けたとされている。
半残:山岸半残。
『炭俵』に拙者句になり、「公羽」と「翁」との紛れにて可レ有レ之:公羽の作品なのに『炭俵』中に私の作品として掲載されている。公羽と翁の間違いだ。
これは、『炭俵』に公羽の作品「冬枯の礒に今朝みるとさか哉」・「川中の根木によろこぶすゞみ哉」の2句が芭蕉の名で出ている誤りを指す。
猪兵衛:村松猪兵衛。
寿貞:寿貞尼。
好斉老:深川の芭蕉庵隣に住んでいる僧侶。寿貞の病気の折など励ましつづけたらしい。『村松猪兵衛宛書簡』にも出てくる。
桃隣:Who'sWho参照。
再會不レ叶、可レ被二力落一候:<さいかいかなわず、ちからおとさるべくそうろう>と読む。こうして私が死んでいくので再び会うことができず、お力落としのことと思います、の意。
弥杉風・子珊・八草子よろづ御投かけ:<いよいよさんぷうしさんはっそうしよろずおなげかけ>と読む。杉風や子珊・八草子などを万事頼りにして、の意。八草(桑)<はっそう>は芭蕉の信篤い江戸蕉門の一人。
庵の佛は、則出家之事に候へば:<あんのほとけは、すなわちしゅっけのことにそうらえば>と読む。庵の佛は、その昔貞亨元年頃、第二次芭蕉庵が完成したとき江戸蕉門の文鱗が芭蕉に贈ったもの。このときの句「南無ほとけ草の台も涼しかれ」がある。芭蕉はこれを大切にして芭蕉庵の本尊とした。支考は仏門の身であった。
久々厚志、死後迄難レ忘存候:<ひさびさこうし 、しごまでわすれがたくぞんじそうろう>と読む。長い間のご厚志、死んでも忘れません、の意。
甚五郎殿:濁子。
其角:其角はこのとき上方に旅をしていた。芭蕉の急を知って、10月11日病床に参上しているが、この時点では芭蕉にはまだ会っていない。
嵐雪を始として不レ残御心得可レ被レ成候:<らんせつをはじめとしてのこらずおこころえなさるべくそうろう>と読む。Who'sWho参照。その他嵐雪などほかの江戸の門人たち全てによろしくお伝え下さい、の意。こうして蕉門筆頭の嵐雪には直接の便りが無かったのである。