猿雖<えんすい>に宛てた書簡。これ自体が旅行記になっていて、『笈の小文』を補完するものとなっている。『笈の・・』では、文学的効果のために順序が変えられているが、これによって旅の順序が明白になってくる。
本書簡中、平家物語に関わる部分は『笈の小文』の「明石夜泊」と重なり、いわば下書き原稿でもある。書簡の形式を取ってはいるが、『更科紀行』や「鹿島紀行」などと分量的には匹敵する。旅の全旅程や地形が記録されていて経路がよく分るので『笈の小文』後半の経路の検証に極めて参考になる。
此度南都之再会:<このたびなんとのさいかい>と読む。『笈の小文』の旅の途中の四月八日芭蕉と杜国の一行は、猿雖・卓袋・梅軒・梨雪・示蜂ら伊賀蕉門の弟子たちと奈良で偶然逢った。かれらは東大寺の仏性会<ぶっしょうえ>に参拝に来ていた.
我等一里来る時は人々一里可レ行や、三里過る時はをのをの三里可レ行や:足ののろい私たちが一里歩く間に他の人たちはもう一里先に行ってしまう、という調子でした、の意。
石の上在原寺:奈良県天理市にある寺院。『伊勢物語』の「筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざる間に」の歌で知られる寺。それにかけて、つづく文章は綴られている。
声ばかりこそ昔なりけれと:素性法師の歌「いそのかみ古き都のほととぎす声ばかりこそ昔なりけれ」(『古今集巻三』)から引用した。
詠し時鳥の比にさへなりけるとおもしろくて瀧山:素性法師の歌にあるあの時鳥の季節になったなあと詩情が沸いてきたので瀧山に上りました、の意。この瀧山とは桃尾の瀧。
帝の御覧に入たる事、古今集に侍れば:『古今集巻八』兼芸法師の作に「仁和帝、親王におはしましける時に、布留の瀧、御覧じにおはしまして、帰り給ひけるによめる 飽かずしてわかるる涙滝にそふ水まさるとや下は見ゆらむ」とある詞書をとった。
市兵衛:卓袋のこと。
ふたり語り慰みて:<ふたり>というのは旅に同道している杜国をくわえてである。杜国は,このとき萬菊という名で隠密旅行だが、二人ともあまり世間をはばかる風はない。
竹の内いまが茅舍:竹の内は、奈良県北葛城郡当麻町。ここに伊麻女がいた。彼女は孝女として有名で、この時65歳だったといわれている。その伊麻の茅舍<ぼうしゃ=貧しい家>を訪れたのである。
うなぎ汲入たる水瓶もいまだ残りて:冬の寒い折に、病気の父のためにウナギを捜し歩いている伊麻の姿に天が味方して、水瓶のなかにウナギを贈ったと言い伝えられていた。その水瓶がそこに有ったというのだが・・・?
布子売たしと云けん万菊のきるものあたひは彼におくりて過る:萬菊の句「吉野出でて布子売りたし衣更」にかけて、売りもしなかったその着物の代金相当のお金を伊麻女にやってきたというのである。
萬のたつときもいま(伊麻)を見るまでの事にこそあなれと:当麻寺も尊いのだが,伊麻を見た今となっては、程々に感じられて,雨も降り出したことだし,早々に立ち去ったというのである。
本間が遠矢を射て名をほこりたる跡などききて:時は移って太平記の時代。新田義貞の家来本間孫四郎重氏は、足利軍に遠矢を放って強弓ぶりを発揮した。
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あかしより須磨に帰りて泊る:『笈の小文』では「明石夜泊」となっているが、ここでは須磨に泊ったという。こちらが正確。