芭蕉db

笈の小文

(明石)


明石夜泊

蛸壺やはかなき夢を夏の月

(たこつぼや はかなきゆめを なつのつき)

 かゝる所の穐なりけり*とかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし*。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠*の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや*。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。
 又後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風・村雨の ふるさとゝいへり*。尾上つヾき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ殘て、鐘懸松*より見下に、一ノ谷内裏やしき、めの下に見ゆ。其代のみだれ、其時のさはぎ、さながら心にうかび、俤につどひて、二位のあま君*、皇子*を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひ*、さまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね*・ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれて、うろくづの餌となり*、櫛笥はみだれて、あまの捨草となりつゝ*、千歳のかなしび此浦にとヾまり、素波の音にさへ愁多く 侍るぞや。

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表紙 年表


蛸壺やはかなき夢を夏の月

 蛸壺と、はかなき夢と、夏の月がこん然として意味不明に陥っている句。特にはかなき夢「を」が何を指しているのか言語としてみた時には何ともまとまりに欠ける句ではある。一の谷の合戦の平家一門の哀れを背景にしてはじめて意味が浮かび上がってくる。それでいて芭蕉秀句の一句であろう。平家物語や行平伝説の哀愁と、蛸といういささか尊重されない動物とのおよそ似つかわしくない組み合わせこそが俳味を強調してペーソスを作り出しているからであろう。蛸が、日本文学の中で最も名誉な位置を占めた唯一の例ではないか。


「蛸壺や・・」の句碑。明石市柿本神社にて。(牛久市森田武さん撮影)