芭蕉db

幻住庵の記

(環境)


 さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほど、宿かし鳥*のたよりさへあるを、啄木のつつくともいとはじ*など、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り*、身は瀟湘・洞庭に立つ*。山は未申*にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫*峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根*より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取*に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤に通ひて*、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ*。ささほが嶽・千丈が峰・袴腰*といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、「網代守るにぞ」*と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと*、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付く*。かの海棠に巣を営び*、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖山民*と成って、孱顔に足を投げ出し*、空山に虱をひねって坐す*。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ*。とくとくの雫*を侘びて、一炉の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の*、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし*。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり*

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 さすがに、はるのなごりもとおからず、つつじさきのこり、やまふじまつにかかりて、ほととぎすしばしばすぐるほど、やどかしどりのたよりさへあるを、 きつつきのつつくともいとはじなど、そぞろにきょうじて、たましいご・そとうなんにはしり、みはしょうしょう・どうていにたつ。やまはひつじにそばだち、じんかよきほどに へだたり、なんくんみねよりおろし、きたかぜみずうみをおかしてすずし。ひえのやま、ひらのたかねより、からさきのまつはかすみをこめて、しろあり、はしあり、 つりたるるふねあり、かさとりにかようふきこりのこえ、ふもとのおだにさなえとるうた、ほたるとびかうゆうやみのそらにくいなのたたくおと、びけいものとしてたらずとい うことなし。なかにもみかみさんはしほうのおもかげにかよいひて、むさしののふるきすみかもおもいいでられ、たなかみにこじんをかぞふ。ささおがたけ・ せんじょうがみね・はかまごしというやまあり。くろづのさとはいとくろうしげりて、「あじろもるにぞ」とよみけん『まんにょうしゅう』のすがたなりけり。なほ ちょうぼうくまなからむと、うしろのみねにはいのぼり、まつのたなつくり、わらのえんざをしきて、さるのこしけとなづく。かのかいどうにすをいとなび、しゅぼほうに いおりをむすべるおうおう・じょせんがとにはあらず。ただすいへきさんみんとなって、さんがんにあしをなげだし、くうざんにしらみをひねってざす。たまたまこころまめなる ときは、たにのしみずをくみてみづからかしぐ。とくとくのしずくをわびて、いちろのそなえいとかろし。はた、むかしすみけんひとの、ことにこころたかくすみなしはべりて、たくみ おけるものずきもなし。じぶつひとまをへだてて、よるのものおさむべきところなど、いささかしつらへり。