(大垣大団円)
(芭蕉(左)を迎える木因(右)。この後、二人は徐々に疎遠になっていくのだが・・・写真提供:牛久市の森田武さん)
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
8月21日(またはそれ以前)、芭蕉は、敦賀まで出迎えに来た路通を同道して大垣に入った。ただし、敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない 。
蛤のふたみへ別れ行く秋ぞ
蛤の句碑。拓本取りで真っ黒(写真提供:牛久市森田武さん)
大垣の庄:<おおがきのしょう>。現岐阜県大垣市。戸田氏10万石の城下町であった。長良川・木曽川・揖斐川の中州の町で肥沃な土地と物資の交易で古来から栄えた中仙道の宿場町 。
曾良も伊勢より来り合:『曾良旅日記』によれば、曾良が大垣にやって来たのは、9月3日のこと。『荊口句帳』によれば、芭蕉はそれより早く8月21日以前に は大垣に到着していたようであるから、この記述は厳密に言えば正しくない。
前川子:Whoswho参照
荊口父子:Whoswho参照
蘇生のものにあふがごとく:<そせいのものに・・>と読む。蘇生は甦生が本字。生きかえること。人々が、芭蕉の到着を死んだ人が生き返ったかのごとくに喜び 労ったというのである。門弟の竹戸は、芭蕉に得意の按摩をして上げた。それが、非常に良く効いたので芭蕉は旅に使った紙衾を竹戸に与えた。
伊勢の遷宮:<いせのせんぐう>と読む。伊勢神宮の式年遷宮は二十年ごとに行われ、元禄二年がその年にあたり、内宮は九月十日、外宮は同十三日に行われた。芭蕉は内宮の式には間に合わず、外宮の式を拝した。
全文翻訳
露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて、美濃の国へと同行する。馬の背に乗せられて、大垣の庄に入れば、曾良は伊勢より来、越人も馬を飛ばせて、如行の家に集まっている。前川、荊口父子、その他親しい人々が日夜見舞ってくれて、まるで生き返った人に再会するかのように、喜んだり、労わってくれたり。旅の疲れはまだ残っているものの、九月六日、伊勢神宮遷宮に参ろうと、ふたたび舟に乗って、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
句碑の写真を提供してくださった牛久市の森田武さんの
芭蕉さんが、住み慣れた芭蕉庵を他人に譲り、旅先での死をも覚悟をして旅立った奥の細道紀行とは、何を求め、何を得ようとしたのか、その一旦でも垣間見られればと始めた撮影旅行も、いよいよ大団円を迎えることになりました。
奥の細道は、尊敬する西行や能因法師を偲び「歌枕」を尋ねる紀行と解釈されているが、それだけでは無かったのではと思われたのが動機でした。なぜなら、歌枕が存在するのは、せいぜい石巻あたりまでで、その後の長い行程には歌枕らしきところが無いからです。
私はこの撮影旅行で、芭蕉さんの奥の細道への旅の目的は、見知らぬ人との一期一会を求め、また、親しい人との再会を期して旅に出たのだと確信しました。
奥の細道に登場する人物は、日光の仏五左衛門、玉生の農夫の家、那須の草刈る男、黒羽の浄坊寺図書、黒磯の高久、須賀川の相楽等窺、仙台の畫工加右衛門、石巻の親切な侍(金野源太左衛門)、尿前の封人の家、尾花沢の鈴木清風、羽黒山の別当代会覚阿闇利、酒田の淵庵不玉、象潟の佐々木孫左衛門、新潟の大工源七の母、金沢の一笑・竹雀、山中温泉の和泉屋久米之助、天竜寺の大夢和尚、全昌寺の和尚、福井の等栽、そして大垣の谷木因等々。この人たちは、芭蕉さんが旅発つに当たって再会を楽しみにしていた人でもあり、また、旅先で偶然出合った人達で有る。やはり、奥の細道は人との出会いのドラマのようです。(2002年11月29日 Emailにて)