芭蕉db

奥の細道

(大垣大団円)


(芭蕉(左)を迎える木因(右)。この後、二人は徐々に疎遠になっていくのだが・・・写真提供:牛久市の森田武さん)


 露通*も此みなと*まで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄*に入ば、曾良も伊勢より来り合*、越人*も馬をとばせて、如行*が家に入集る。前川子*・荊口父子*、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく*、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日*になれば、伊勢の遷宮*おがまんと、又舟にのりて 、
 

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)


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表紙 年表


8月21日(またはそれ以前)、芭蕉は、敦賀まで出迎えに来た路通を同道して大垣に入った。ただし、敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない 。

 

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蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 ハマグリの殻と身とを引き剥がすように、又再び悲しい別れの時が来たことだ。千住出発の折りの歌「行く春や鳥なき魚の目は泪」と対をなす。
 『杉風宛真蹟書簡』には、この句が、

蛤のふたみへ別れ行く秋ぞ

とある。「ふたみ」は、「双身」とこれから行く「二見ヶ浦」にかけている。
 


蛤の句碑。拓本取りで真っ黒(写真提供:牛久市森田武さん)


句碑の写真を提供してくださった牛久市の森田武さんの

「奥の細道」感想

 芭蕉さんが、住み慣れた芭蕉庵を他人に譲り、旅先での死をも覚悟をして旅立った奥の細道紀行とは、何を求め、何を得ようとしたのか、その一旦でも垣間見られればと始めた撮影旅行も、いよいよ大団円を迎えることになりました。
 奥の細道は、尊敬する西行や能因法師を偲び「歌枕」を尋ねる紀行と解釈されているが、それだけでは無かったのではと思われたのが動機でした。なぜなら、歌枕が存在するのは、せいぜい石巻あたりまでで、その後の長い行程には歌枕らしきところが無いからです。
 私はこの撮影旅行で、芭蕉さんの奥の細道への旅の目的は、見知らぬ人との一期一会を求め、また、親しい人との再会を期して旅に出たのだと確信しました。
 奥の細道に登場する人物は、日光の仏五左衛門、玉生の農夫の家、那須の草刈る男、黒羽の浄坊寺図書、黒磯の高久、須賀川の相楽等窺、仙台の畫工加右衛門、石巻の親切な侍(金野源太左衛門)、尿前の封人の家、尾花沢の鈴木清風、羽黒山の別当代会覚阿闇利、酒田の淵庵不玉、象潟の佐々木孫左衛門、新潟の大工源七の母、金沢の一笑・竹雀、山中温泉の和泉屋久米之助、天竜寺の大夢和尚、全昌寺の和尚、福井の等栽、そして大垣の谷木因等々。この人たちは、芭蕉さんが旅発つに当たって再会を楽しみにしていた人でもあり、また、旅先で偶然出合った人達で有る。やはり、奥の細道は人との出会いのドラマのようです。(2002年11月29日 Emailにて)