芭蕉db

去来宛書簡

(元禄7年閏5月18日 芭蕉51歳)

書簡集年表Who'sWho/basho


盤子便御無為之旨、承令満足*。拙者先月十三日江戸を出歩*、道中水など(に)*、名古屋に二日計逗留、旧里へ廿九日に上着、昨十七日大津迄出申候。膳所の殿御参勤廿日過と承候。此内逢申仁も有之、且江戸へ之書状など頼可申為、昨日雨にぬれながら又七*方迄たどり申候。此方智月宅も茶時、正秀も其取込*、定而曲水も殿御立までは隙入可申候間*、此方へ御見舞、廿日過まで御延引可成候*。廿四五之頃、或は廿二三、拙者上京可致候*。尤貴宅へ御案内可申候*。少々貴様へ用之事も御座候間、暫時逗留も致度候*。御宿御遠慮がましく候*。若元子方など御かり被成候事も成申まじく候哉*。其段いづ方にてもかまひ無御座候間、御才覚被成可下候*。尤貴様御やつかい、やかましき様成事は御無用に可成候*。とかく懸御目度候*。御なつかしく候。早々御報御下シ可成候*。武府門人、いが門弟共、無異義(議)*
    壬(閏)五月十八日                          はせを

 芭蕉は、この夏5月28日(本文では29日となっているが誤り)郷里伊賀に草鞋の紐を解いた。そして閏5月16日まで伊賀に滞在の後、膳所に向かう。この書簡は宛名を欠くが、文面からして膳所の曲水亭から京都の去来宛のものと推察される。
 芭蕉は、この後上京し、去来の別邸落柿舎で『続猿蓑』の編集に精を出す予定であったが、そこで寿貞の悲報を受け取ることになるのである。