(須賀川 元禄2年4月22日〜29日)
とかくして越行まゝに*、あぶくま川*を渡る。左に会津根*高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる*。かげ沼*と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川*の駅に等窮*といふものを尋て、四、五日とヾめらる*。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず*。
(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)
(よのひとの みつけぬはなや のきのくり)
「風流のはじめや・・」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)
隠れ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉
これに対して『伊達衣』(等躬編)に可伸は次のように述べている。
予が軒の栗は,更に行基のよすがにもあらず,唯実をとりて
喰のみ成しを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、
一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ
梅が香を今朝は借すらん軒の栗 須賀川栗斎可伸
可伸の栗の木は芭蕉の一句ですっかり有名になってしまったのがここから分かる。
与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
隠者可伸と栗の木
可伸の庵跡 (写真提供:牛久市森田武さん)
可伸庵跡にある「世の人の見付けぬ花や軒の栗」
須賀川へは相楽さんを尋ねるのを楽しみにして行きました。さすが、等躬さんの末裔だけあって、話す言葉も上品で、素敵な奥様でした。
奥様によると、苗字は「相良」では無く、「相楽」であること。芭蕉さんは相楽家に7日間滞在したが、家も土蔵もその後に建てられたもので、当時のものは、年に2度咲く樹齢400年のモクセイの木(下の写真)だけだそうです。また、「風流の初やおくの田植うた」について、私は、客人をもてなすために、座敷歌としての「田植うた」を披露したのか、長年気になっておりました。相楽さんは、作家の森敦さんの説ですがと断って、道中で実際に見て聞いたことを句に読んだのだろうと言っていました。(文と写真提供:牛久市の森田武さん)
あぶくま川:阿武隈川<あぶくまがわ>。福島県白河市に発し、福島県中通り地方を北上し福島市から宮城県角田市を通過して岩沼市で仙台湾に注ぐ。芭蕉一行は、この流域に沿って北上した。建設省東北建設局地図参照
右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる:<みぎにいわき・そうま・みはるのしょう、ひたち・しもつけのちを・・>と読む。須賀川から見ると磐城、相馬、三春方面は北に向かって右側に位置し、茨城や栃木県方面は山によって隔てられている。
長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず:<ちょうどの・・かいきゅうにはらわたをたちて・・>と読む。長旅に心身もつかれ、美しい風景に夢中になって、古来の詩人たちのことなど思い出されて、何だかボーとしておりました、の意。
世をいとふ僧有:可伸<かしん>。世捨て人。俳号は栗斎という俳人でもあった。芭蕉は、この頃、こういう人物に強いシンパシーを感じていたのである。
橡ひろふ太山もかくやと閧ノ覚られて:<とちひろうみやまもかくやとしずかにおぼえられて>と読む。西行の歌(『山家集』)に「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落る橡ひろふほど」を引用。「閧ノ」は「静かに」と同義 。
行基菩薩:<ぎょうきぼさつ>。(668-749) 奈良時代の僧。和泉の人。俗姓、高志氏。道昭・義淵らに法相教学を学ぶ。のち諸国をめぐり、架橋・築堤など社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。その活動が僧尼令に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力し、大僧正に任ぜられ、また大菩薩の号を賜った。(『大字林』。
栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと:栗という字は、西の下に木と書いて西方浄土に縁があるというので縁起のいい木だ、といったのは法然 上人(『法然上人行状絵図』)。行基は、芭蕉の勘違い。
全文翻訳
このようにして白河の関を越え、やがて阿武隈川を渡った。左の方角には会津磐梯山が高くそびえ、右手には磐城・相馬・三春などの地方が続く。常陸・下野などとは山々によって隔てられている。影沼というところを通って行ったのだが、今日は空が曇っていて物影は映らなかった。
須賀川では等躬を訪ねて、四、五日逗留した。顔を見るや否や等躬は、「白河の関を越えるときどんな句さできたべか?」と尋ねる。私は「長旅に心身ともに疲れ、しかも景色にすっかり心を奪われ、白河での数々の歌人たちの想いに腸も千切れるほどで、はかばかしい句もできずに終わってしまいましたよ。それでも、何も残さずに関を越えるのはどうかとも思ったので、
風流の初やおくの田植うた
と詠みました」と言うと、これを発句として脇・第三と続けてついに三巻の連句を巻いた。
この須賀川の宿場のすぐ傍に、多きな栗の木の下に庵をあんで、隠遁生活をしている僧がいるという。西行法師の歌「山深み岩にせかるゝ水ためんかつかつ落るとちひろふほど」の深山の閑寂さとは、さぞやこんな具合なのだろうと思えたので、懐紙につぎのような言葉を書きとめた。
栗という文字は西の木と書いて、西方浄土に縁があるというので、行基菩薩は一生涯、杖にも家の柱にも栗の木を用いられたという。
世の人の見付ぬ花や軒の栗