芭蕉db

杉風宛書簡

(元禄2年4月26日 芭蕉46歳)


那す(須)黒羽より書状送進申候、相届候哉*。先々其元御無事、御一家別状無御坐候哉。拙者随分息災ニ而、発足前に灸能覚申候故*、逗留之内、又、足などへ灸すへ申候。食事などハつね一ばい程喰申候*。是ニ而気遣なしニ越路の下りへも可安思候。那す(須)黒ばね(羽)と申所、大関信濃殿御知行所ニて御坐候*。城代図書と申方に逗留*、長雨之内、那す(須に)居申、道中、雨ニ一度(も?)合不申、仕合能旅ニて御ざ候。那す(須)を十五日ニ出、湯本、殺生石ある筈なれバ、六里ほど見物ニ参候。尤、道筋、湯本共ニ大関殿御領分ニて、道ニ而雨降候。庄屋に二日逗留、湯本ニ二三日居申候。尤、其内、図書より仲間送らせられ候。白川ノ関、廿一日ニ越申候。白川より六里、須賀川と申処ニ、乍憚と申作者*、拙者万句之節、発句など致候仁ニ而、伊勢町山口作兵衛方之客ニ而御坐候。是ヲ尋候而、今日廿六日まで居申候。大かた明廿七日、又発足可致候。是より仙台まで風雅人もえミへず候よし、朔日二日之比、仙台へ付可申候。三千風、仙台へ帰、むさとしたるあれ俳諧はやり申候さた、有之候。仙台之風流、望絶申候。あれより秋田・庄内之方、いまだ心不定候。大かた六月初、加州へ付可申候。出羽清風も在所ニ居候よし、是ニもしばし逗留可致候。いまだ此辺朝晩さむく御坐候へ共、是迄ハ皆宿能候故、万事ニ不自由無御坐候。もはやそろそろあたゝかに成可申候と待様、御おかしかるべくと被存候。其後深川へも御越候哉。宗波老病気も(如)何候哉。又、よりより養生御心得可下候。此元発句もさのミ出不申候。宗五*、無事ニ達者被致候。通々泊泊*、其元の事のミ申出候。先月のけふは、貴様御出候、たれより忝候などゝいふ事のみに泣きいだし候。方々故、態たれへもたれへも書状遣し不申候。
      卯月廿六日                        桃青
    杉風様

書簡集年表Who'sWho/basho


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 この書簡は、尾形仂氏によって大阪府箕面市の逸翁美術館で小林一三の遺蔵品の中から発見されたもの。実際は写真であり、その現物がどこにあるかは不明の杉風宛書簡である。内容からして先ず間違いなく芭蕉のものである。(尾形仂著『芭蕉・蕪村』岩波書店)
 元禄2年4月26日、須賀川の等躬亭に逗留していた際に書いたものである。奥の細道の須賀川までの経緯が書かれていて面白い。また、杉風への信頼が極めて厚く、千住への見送りに杉風が来てくれたことが実にうれしかったと心情を吐露しているのも興味がもたれるところである。
 なお、芭蕉の多くの書簡集の中で、『奥の細道』旅中のものは今まで4通しかない。それは芭蕉一行がひたすら先を急いだからだが、そうは言ってもしばしば長逗留をしている場所がある。黒羽・須賀川・尾花沢・金沢・中山温泉等々である。こういう場所では便りを認めている可能性が高い。その一通がこの逸翁美術館の「証拠品」ではないかと思われる。