(元禄2年4月26日 芭蕉46歳)
この書簡は、尾形仂氏によって大阪府箕面市の逸翁美術館で小林一三の遺蔵品の中から発見されたもの。実際は写真であり、その現物がどこにあるかは不明の杉風宛書簡である。内容からして先ず間違いなく芭蕉のものである。(尾形仂著『芭蕉・蕪村』岩波書店)
元禄2年4月26日、須賀川の等躬亭に逗留していた際に書いたものである。奥の細道の須賀川までの経緯が書かれていて面白い。また、杉風への信頼が極めて厚く、千住への見送りに杉風が来てくれたことが実にうれしかったと心情を吐露しているのも興味がもたれるところである。
なお、芭蕉の多くの書簡集の中で、『奥の細道』旅中のものは今まで4通しかない。それは芭蕉一行がひたすら先を急いだからだが、そうは言ってもしばしば長逗留をしている場所がある。黒羽・須賀川・尾花沢・金沢・中山温泉等々である。こういう場所では便りを認めている可能性が高い。その一通がこの逸翁美術館の「証拠品」ではないかと思われる。
那す(須)黒羽より書状送進申候、相届候哉:<なすくろばねよりしょじょうそうしんもうしそうろう、あいとどきそうろうや>と読む。栃木県那須郡黒羽町。ここから送った書簡は現存しないので、散逸している旅中の書簡のあったことが分かる。
発足前に灸能覚申候故:<ほっそくまえにきゅうよくおぼえもうしそうろうゆえ>と読む。細道本文に「三里*に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、・・」とあるが、実際に灸をすえていたのは面白い。
大関信濃殿御知行所ニて御坐候:<おおぜきしなのどのおんちぎょうしょにてござそうろう>と読む。この時代は、大関大助増恒の1万9千石の城下町であった。
乍憚と申作者:<さくたんともうすさくしゃ>とよむ。乍憚は乍単で等躬のこと。奥州俳壇の重鎮であった。須賀川駅長。
宗五:曾良のこと。細道本文では「宗悟」と書いているが。
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