(白川の関 元禄2年4月21日)
白河の関(「芭蕉翁絵詞伝」(義仲寺蔵)より)
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ*。「いかで都へ」*と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして*、風騒の人*心をとヾむ。秋風を耳に残し*、紅葉を俤にして*、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に*、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする*。古人冠を正し衣装を改し事など*、清輔の筆*にもとヾめ置れしとぞ 。
(うのはなをかざしにせきのはれぎかな)
白河にある真言宗成就山満願寺
幾たびも訪れている白河の古関ですが、最近は栽培種の「紅ウツギ」や「花ウツギ」
が古関の周りに植えられています。やはり奥の細道に登場する「卯の花」は、地味ですが、野生のウツギが相応しいと思います。それでなければ、墨染めの乞食坊主姿でも、せめて野に咲く卯の花を手折って、笠に翳して関を越えようとする情感も伝わらないし、白髪など、どうして連想できますか。これも、文学よりも観光が優先しているのでしょうか?。写真と文:牛久市森田武さん提供。
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ:<こころもとなきひかずかさなるままに、しらかわのせきにかかりてたびごころさだまりぬ>と読む。ここに来るまでは、なんとなく落ち着かない気分で旅をしてきたが、白河の関にかかってようやく旅心が落着いてきた、という。この時代の旅の心遣いというのは大変で、ベテランの旅人芭蕉にしてかくの如しである。
風騒の人:文人墨客など風雅の人のこと。「騒」の字は「操」の手偏を馬偏とした文字が充てられているが、JISには存在しないのでこれで代用した。
此関は三関の一にして:勿来<なこそ>の関(常陸)・鼠の関<ねずのせき>(羽前)と並んで白河の関は奥羽三関の一つと言ったという。いわゆる三関は、不破の関・逢坂の関・鈴鹿の関である。
秋風を耳に残し:能因法師の歌(『類字名所和歌集』所収)「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」を引用。 『古今著聞集』には、実は能因法師はこの歌を作ったときに奥羽には行かず、都でこれを作った。しかし、現地に行かずに作ったといわれるのは不本意なので暫く人前から身を隠し、日に当たって色を黒くしてから人前に出てこの歌を披露し、これをもって能因第一度目の奥羽行脚といったという話が書いてある。
紅葉を俤にして:源頼政の歌(『類字名所和歌集』所収)「都にはまだ青葉にてみしかども紅葉散りしく白河の関」、左大弁親宗の歌(『千載集』所収)「もみぢ葉の皆くれなゐに散しけば名のみ成けり白川の関」などを引用。
卯の花のしろたへ:藤原定家の歌(『夫木和歌抄』所収)「夕づく夜入りぬる影もとまりけり卯の花咲ける白河の関」や藤原季通朝臣の歌(『千載集』所収)「見て過る人しなければ卯の花の咲ける垣根やしらかわの関」など。なお、「卯の花」は「うつぎ」のこと。ユキノシタ科の落葉低木。山野に自生。高さ1、2メートル。葉は狭長楕円形で対生する。梅雨の頃、白色の五弁花を円錐花序につける。垣根などに植え、材は木釘(きくぎ)・楊枝(ようじ)などにする。樹幹が中空になっていることからこの名が付いた。(『大字林』より引用)
雪にも こゆる心地ぞする:久我通光の歌(『夫木和歌抄』所収)「しらかはのせきの秋とは聞きしかど初雪わくるやまのべの道」や僧都印性(『千載集』所収)「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」などから取った。
古人、冠を正し、衣装を改めしことなど:清輔の『袋草紙』に、「竹田大夫国行と云者、陸奥に下向の時、白川関すぐる日は、殊に装束ひきくろいむかうと云々。人問いて云う、何等の故や。答えて云う、古曾部入道(能因法師のこと)の秋風ぞふく白川の関と読まれたる所をば、いかでかなりにては過ぎんと云々。殊勝の事歟」とある。
清輔の筆:藤原清輔著『袋草紙』。清輔は平安時代後期の歌学者。
全文翻訳
ここまでは、なんとなく不安な気分が続いていたのだが、白河の関にかかった頃からようやく旅の心も定まってきた。「便あらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」の平兼盛の歌(『類字名所和歌集』)のように、親しい人に伝えたくなる気持ちがよく分かる。
この関所は、勿来・鼠の関と共に三関の一つで、古来、多くの歌人の心を魅了してきた。能因法師の歌「都をば霞とゝもに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」からは秋風が聞こえるようだ。左大弁親宗の「もみぢ葉の皆くれなゐに散しけば名のみ成けり白川の関」からは秋の紅葉を連想し、源三位頼政は「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」と詠んだが、眼前の青葉の梢もまたすばらしい。藤原季通朝臣の歌「見て過る人しなければうの花の咲る垣根やしら河の関」に出てくる卯の花だけでなく、茨の花も咲き加わって、久我通光の歌「しらかはのせきの秋とはきゝしかどはつ雪わくる山のべの道」に出てくる雪よりも白く見える。竹田大夫国行は能因法師の歌に敬意を表し、この関を越えるにあたって衣服を改めたと、藤原清輔の『袋草紙』に書いてあるという。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良